3話 居心地の良い、私の世界

 夏休みの後半。ターくんと楽しく過ごす間にも、夜になって見る夢は可愛い彼氏の夢じゃない。ぬしの蟲二匹が果し合う、凄惨なものだった。


 見上げるほどに大きく育ったハエトリグモとフタホシコオロギ、二匹の主の蟲たちは。組み合い、噛み合い、殴り合い、互いの手足を引きちぎり、体液をほとばしらせ、目を潰し、腹をえぐり合った。ぼろぼろになりながら、それでも互いに一歩も引かず、ひたすらに殺し合いを一晩中続ける。


 私は蟲羽根のベッドで身体を休めながら、蟲の死闘を眺めているの。背筋がゾクゾクする。正直、興奮してる。からだの芯が熱くてたまらない。夢の中だというのに。だって男の子が二人して、私を賭けて争うんだよ。女として、こんなに楽しくてうれしいことはないって、思わない? まあ夢だし、相手は蟲なんだけどね。


 朝起きて蟲毒瓶こどくびんを確かめると、二匹の主の蟲は夢の通りにぼろぼろで、息も絶え絶えに横たわっているの。


 だけど私が寝る前には、蟲の体は元通りになる。ちぎれた足は生え変わり、裂かれて破けた外皮も傷ひとつなく、綺麗な光沢を取り戻す。それどころか、一段と体は逞しくなっていく。死の縁から蘇り力を増す。蟲毒の呪力も、同じように。


 そうしてまた、夢の中で戦うの。違う。私が寝ている間、瓶の中で殺し合ってる。どちらかの命が潰えるまで。私が夢に見ている光景は、毎夜起きている本当の出来事。私の魂は招かれて、蟲羽のベッドで目覚める。闇に広がるぬかるみの野は、虫たちの死骸が崩れ積もった汚泥。瓶の底に折り重なった、怨みの澱なんだ。


 決着の夜の闘いを先に仕掛けたのは、フタホシコオロギのほうだった。


 コオロギは逞しく育った後ろ足で地を蹴って、跳んだ。真っ直ぐにクモを目掛け、放たれた矢の先端のように身を鋭くして、空を裂く。野蛮なノコギリのような大顎が左右に開くのが見えた。クモの頭に噛みつき、くびり殺そうというのか。それとも一息に、頭を落としてしまおうというのだろうか。


 主のクモは動かなかった。じっとしている。何もしていないはずがない。闇の中に、幾筋か光るものが確かに見えた。罠だ。クモの巣が既に張られている。


 コオロギが気づかないはずがない。知ったうえで飛び込んだ。銀糸の煌めきがコオロギの身体を掠めた。クモの糸が触覚に絡む。勢いついて、触角がちぎれ飛んだ。それに構わずコオロギは飛び続ける。身を捻ってきりもみして、クモの張った罠の網を破り去った。コオロギは大顎をさらに開いた。勝ちを確信して、クモの頭を丸ごと嚙み千切ろうとする勢いだった。羽根が震えて、無数の鈴の音が虚空に鳴り響く。


 クモは最後まで動かない。なのに、コオロギのあぎとは、届かなかった。


 鈴の音に紛れ、闇の八方から別の銀糸が無数に伸びて、コオロギの身を襲ったの。慢心したのかもしれない。自分の大顎がクモの頭に触れる寸前まで、クモ糸が捕縛の用意を整えていたことに、コオロギは気づけなかった。


 主のフタホシコオロギは、自分の死を知ったろうか。それとも、勝った夢を抱えたまま、命を散らしたのかな――


 翌朝、夢に見たそのままの光景を、私は見た。蟲毒瓶の中に張り巡らされた銀糸の巣に、ばらばらに刻まれたコオロギのむくろが吊るされていたの。


 本来のハエトリグモって、捕獲用の網は張らないんだって。でも、生き残って主に育ったこの子は、私が瓶に入れたほかのクモたちを喰って、力を取り込んだらしい。一センチにも満たなかった小さなハエトリグモの面影はどこにもない。大きくて、私の両手に載せても余りそう。どんな図鑑にも載っていない、新種のクモにしか見えないと思う。奇怪で逞しく、悍ましくて美しい姿をした、立派な妖魔に育ったの。


 誇らしげにして、主のクモは蟲毒瓶の底から、私のことを見上げていた。何か、語りかけられた気がする。言葉は分からない。でも、言いたいことははっきりと分かった。だから――


「今夜、お話ししましょう」


 そう語りかけて、二学期初日の学校に登校した。



    §


 校長先生の話にはいつも寝落ちしそうになる。世の中には話の面白い校長っているのかなあ。眠気しかない始業式から戻ってきた教室は、どうにも暗い雰囲気だった。美晴みはるの姿だけがない。元気に退院は、やっぱり無理だったんだね。


 美晴について担任がどんな話をホームルームでするのかなと、席について心待ちにする。もちろん、みんなに合わせて暗い顔を作っておくのも忘れない。


 遅れて教室に入ってきた中年男の担任は、いつものぼんやりに輪をかけてどんよりしていた。美晴の話をするのが、嫌で仕方がないのかも。そうだとしても、別に先生のせいで起きた不祥事とかじゃないんだから、気にしなくてもいいのにね。


 一通りの連絡事項や夏休みの宿題を回収した後に、先生はようやく美晴の欠席について話し始めた。


「――えーぇ……春日美晴かすがみはるさんのことだけど。知ってる人もいるかもしれないが、春日さんは本校から転校、となりました」


 以上、じゃ次は……と話題を変えようとしたものだから、教室はとたんに騒がしくなった。誰彼となく質問をし、私語が飛び交う。


「なんでですかあ? やっぱ春日さん、病気のせいですかー?」

「頭おかしくなったとか聞いたよ」

「あたし、お見舞い行ったんだけどさあ……」


 ヤバい病気ってだって、マジで? 感染うつるんじゃないの? なんて言う子もいて、さすがにデリカシー無さすぎって思った。それにしても、休学じゃなくて転校? 病気はあれから、どうなったんだろ。


「こらこら、静かに」とさすがに、先生はみんなをたしなめた。


「ご家庭の問題、プライベートなことだからね。先生からも詳しい話はできないから。学校生活に問題があったわけではありません。みんなも、みだりに詮索しないように。健康というのはね、デリケートな問題なんだよ。みんなだって……アレだ、病気になったときアレコレ聞かれるのしんどいだろ? そういうことだ。あーあと、SNSに書いたりするんじゃないぞ」


 一気にまくし立て、「この話はこれでおわり」と切り上げる。みんな不満そうな顔をするけど、次の一言であっという間に切り替わった。


「さてじゃあ、二学期の席替えしようか」


 さっと空気が変わり、席替えのくじびきが始まった。もう、誰も美晴のことなんか興味ないって感じだ。先生の表情も、なんだかホッとして見える。


 ひとつ余った座席は、教室の後ろに片づけられた。


 私の席は窓側から二列目、後ろから三番目に決まった。左隣から、夏の間嗅ぎ馴れた匂いが漂う。ターくんが隣に来た。左を向いて、互いに目配せと笑顔を交わす。


「よろしくね」とひと声かける。声には出さず、口だけを動かして「一緒に帰ろうね」と加えると、ターくんはにっこりと笑顔で答えた。



    §


 約束通りの帰り道、ターくんは幼馴染の美晴のことを、詳しく話してくれた。


「美晴ちゃんはね、もうこの街にもいないんだ」


 そう切り出したターくんの表情は、なぜだか妙に清々しい。


「引っ越しちゃったの?」


「そう。お父さんが転勤願いを出してまでって、彼女のお母さんが言ってた」


「遠いところ?」


 どこまで行ったのだろう。隣り街程度ではたぶん、蟲毒の呪力からは逃れられないと思うけど。せめてひとつふたつ、県をまたぐぐらいじゃないと。


「分からない。会うことはないでしょうって、行き先は教えてくれなかった」


 ターくんはそこまで言って、足を止めた。さっとあたりを伺う。誰も見ていないか確かめているみたい。二人だけだと知って、安心したように息を吐いた。


「僕ね、ちょっとホッとしてるんだ。美晴ちゃんがいなくなって」


 おずおずと、ターくんは話を始める。私はじっと、彼の言葉を待った。


「幼馴染ってだけで美晴ちゃん、なんだかんだって僕に絡んできて……うっとおしい。僕あのコのこと、女の子としてはぜんぜん好みじゃなかったし」


 確かにまあ、ね。美晴の顔はどちらかといえば、残念寄りだし。スタイルは悪くなかったと思うけど。美晴のこと、エッチな目で見てる男子もいたくらい。それにしてもターくん、ちょっと残酷。いや、私が可愛い過ぎるからなのかも。


「僕のこと、軽蔑するでしょ」


 しっかりと私の瞳を覗き見て、気持ちを確かめるみたいに聞いてきた。


「そんなことないよ。正直に話してくれて私、うれしい」


 私の正直な気持ちと、ターくんが欲しい言葉を一緒にしてあげた。素直に喜んで笑ってる。


 ターくんはもう少し一緒に居たかったみたいだし、私もそうしたかったけれど。今日は大事な用事があるから、真っ直ぐ家に帰らないといけない。


「また明日ね」と告げて、ターくんとは道の途中で別れた。彼の背中を見送るうちに、自分の顔が引き締まっていくのを感じた。


 さあて……これから。最後の仕上げをしなくちゃね。



    §


 家に帰って真っ先に手を洗い、口をすすぐ。そのままお風呂に直行。残暑が厳しいせいじゃない。身体を隅から隅まで清めるの。


 パパは昼間はいないから、お風呂から上がって裸のまま部屋に戻り、洗いたての真っ白なワンピースに着替えた。本当は違うんだけど、まあ、清い白ならなんでもいいでしょ。


 押し入れから筆とすずりを引っ張り出す。田舎のおばあちゃんから譲ってもらったものだ。手漉きの和紙も用意する。これから墨をるの。ゆっくりと、心を落ち着けて――やがて磨りあがった墨に、私の血をひと垂らしする。針で指の腹を軽く刺しただけだけど、久しぶりにやるのでちょっと痛い。


 この墨で和紙に一筆したためて――よし、これで贈り物の準備はできあがり。あとはこの紙を蟲毒瓶に添えて、眠るだけだ。


 夜、眠りに落ちるとすぐに、主のクモが夢枕に立った。私は蟲羽のベッドに仰向けで横たわっている。目の前には巨体のクモが私に覆いかぶさるようにして八つの足を地につけていた。まだ、身体には触れてこない。


「おまえの願いは叶えた。今度はおまえが叶える番だ。よこせ、食わせろ。お前のこんを、はくを――」


 思った通りだ。おばあちゃんの言ってた通り。手を振ってクモの言葉を遮った。身も縛ってしまう。あら、ずいぶん戸惑ってるみたい。


「だめ、あげない。そんなつまらないもの、あなたにはひとかけらだってあげない」


 クモは身を硬くして、黙って私の言葉を聞いている。


「もっと素敵なものをあげる。素敵な贈り物を用意してるって言ったの、覚えているでしょう?」


魂魄こんぱくよりも……そんなもの、あり得ない」


「あるよ。あなたにあげるのはね……名前。〈真名まな〉を授けるの。あなたに本当の名を付けてあげる。それと、自由を」


 クモの眼の色が変わった。やっぱり、思いもしなかったに違いない。


「名を……本当か、おまえに、できるのか?」


「できるよ。だって、私の力だもの、本当の。気づかなかった? そうだよね、自分より大きなものって、見えないものだよね」


 名づけに抗える妖魔なんて、この世にいない。おばあちゃんはそう教えてくれた。名もなき妖魔が真名を授かるのは、代償に術者の魂魄を喰うよりもずっと、魅惑的なことだって。


 それでもまだ、クモは食い下がろうとする。


「だが、おれもおまえの名を知ってるぞ。おれにもおまえを縛れ……」


 くくっと私の喉が鳴る。だめだめ、おかしくて笑いが零れちゃう。


「気がついた? 出来ないでしょ。私の真名は、隠してあるから。愛華まなかはね、愛華じゃないの」


 両手を伸ばして、ゆっくりとやさしく、クモの顔を撫でてやった。硬い外皮に生える産毛に触れるたび、クモの身体はわなないた。


「おばあちゃんとママからもらった本当の名はね、別にある。だから、愛華って名前を知ってるだけじゃ、私のことは縛れない」


 ようやく、私には勝てないと分かったらしい。クモがずっと放っていた殺気がすっかり消えた。


「でもいいじゃない、私を縛れなくても。あなたは自由を得るのだから」


 体を起こして、両手でクモの大きな鋏角きょうかくに触れる。得物を噛み砕くはずの上顎は、軽く押しただけで容易く手から遠のいた。私に対する敵意と食欲も失せている。


「あなたを蟲毒のいましめから解き放ってあげる。人間の世界に。世の中には大勢、あなたに願いを叶えてほしい人がいるの。あなたは好きなように、願いを叶えたり、誰かを呪ったりすればいい。食べたければ、構わず魂も食べればいい」


 クモはすっかりおとなしい。私の上から身体をどけて、私の足元で大きな身を縮めている。膝まづくみたいに。名づけのときを、待っているんだ。


「でも、忘れないで。あなたに名を与えたのは私だということを。あなたがそれを忘れない限り、あなたはいつまでも自由でいられる」


 クモの頭に手を触れて、私は静かに囁く。


「あなたの名は、あなたは今から――――」


 ぬかるみの野の闇に、クモの姿は溶けて消えた。



    §


 翌朝、まだ日が昇りきらないうちに私は目覚めた。蟲毒瓶の中で、主のクモはじっとしている。昨夜寝る前よりも、また一段と大きくなっていた。広口瓶から出るにも少し苦労しそうな大きさだ。


 体は黒鉄くろがねのように艶やかで、目は焼けた鉄みたいに真っ赤に染まっている。節々は、みなぎる身の内の力をほとばしらせるように、黄金こがね色の光を漏らしていた。とてもとても、強い子に育ってくれたんだね。


 昨夜眠る前に蟲毒瓶に添えておいたクモの〈真名〉を記した呪符は、真っ黒に染まっていた。指先で軽く触れただけで、塵となって消えてしまう。


 主のクモが名づけに納得してくれたか、本当のところは分からない。でも、強い力を得たことは確かなこと。これからは自由に、自分のために居心地の良い世界を作ればいい。私の邪魔をしない限りだけど、ね。


 私は瓶を胸に抱えて、こっそり家を抜け出した。裏庭からほど近い、雑木林へ赴く。林の中はまだずっと暗く、ここなら誰にも見つからないだろう。


 蟲毒瓶を地面に下ろし、四十日ぶりに蓋を開けた。朝もやにけぶる林に、汚怪な匂いがまき散らされる。とたんに、頭上でカラスたちが騒ぎ立て、木立から一斉に飛び立った。力あるものが解き放たれる予感に、慄いたに違いない。クモも、瓶の底で身震いしている。私はそっと蟲毒瓶を傾け、横倒しにした。


「さあ、あなたは自由だよ」


 ゆっくりと、主のクモが瓶から這い出て来る。大きい。両手に乗せても足がこぼれそうなくらいに、大きい。身を捩り、瓶の口に表皮をこすりつけながら、絞り出されるみたいに蟲毒瓶から我が身を解き放った。


「行きなさい――」と最後は音に出さず、クモに真名で呼びかけた。少しだけ私のことを見つめて、クモはそれきり振り返らずに、雑木林の奥へと去った。


 蟲たちの死骸で出来た汚泥は、全部林の中に捨ててしまった。空になった広口瓶は、不燃ゴミの収集に出して手放した。蟲毒の痕跡はきれいさっぱり、私の元から無くなったの。これでもう、蟲の夢を見ることも無くなる。


 私のひと夏の思い出、蟲毒づくりのお話はこれでおしまい。ここまで、私の話を聞いてくれてありがとね。怖かったかな、面白かったかな? どっちでもいいけど。


 最後にね、聞いてほしいことがあるの。


 世界中ではいつだって、不幸なことはたくさん起きてる。私が知っているところ、私が知らないところ、どこででも。


 ブラジルで蝶が羽ばたいて、テキサスで竜巻が起きたとしても。モルフォチョウはひとつも悪くないし、罪なんてない。


 だから私が、主のクモを解き放ったせいで世の中が急におかしなことになったとしても。それは私のせいじゃない。これは不能犯、証明のしようがないのだから。


 あなたの街でもおかしなことが起き始めているかもしれないけど、それ、私のせいじゃないから。みんなが世の中の呪うせいだから。あなたの願いを、叶えてくれるモノのおかげだから。


 なんなら、みんなも試してみるといいと思うの。


 あなたも蟲毒、作ってみようよ。居心地の良い、あなただけの世界を作るために。


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蟲毒、作ってみた まさつき @masatsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ