第2話
銀髪ビンタ少女と別れ、雨風に耐えながら一人暮らしのアパートに到着する。
あの子はちゃんと家に帰れたのだろうか。なんて心配しながら鍵を挿し込む。
「あれ、開いてる? あ……」
「もお! 遅いよにぃやん!」
そのまま中に入ると電気がついており、玄関にはエプロンを着た少女がお玉を持って待ち構えていた。ぷにぷにした頬を膨らませる姿は、怖さの欠片も無く愛らしい。
「なんだ、来てたのか。ただいま奈乃香」
「にぃやんは馬鹿なの⁉ こんな日にどこ行ってたの!」
妹の天坂奈乃香。高校三年生。学校がこの近くにあり合鍵を持っているため、よく勝手に開けて上がり込む。ちなみに半分血が繋がっていて父が同じ。俺の母が死んだ後、父が再婚した相手との間に生まれた子が奈乃香である。そして現在は父も亡くなっており、継母と奈乃香が別の家で二人暮らしをしている。
「ちょっと買い物に行ってたんだ。奈乃香は雨宿りしに来たのか?」
「そうだよ。にぃやん全然帰ってこないから死んじゃったかと思ったじゃん」
「心配かけてごめん」
「ほんとだよ。電話したらちゃんと出て。メッセージも無視しないで」
「あ、全然気づかなかった。ごめん、気をつけるよ」
今見てみると、30件ほど奈乃香から通知が来ていた。申し訳ない。
「もう、どうして全身びしょびしょなの。あ、そのまま上がってきちゃダメだからね?」
着衣水泳でもしてきたような格好の俺はその場で待機を命じられる。
こんな日に外に出歩くのは馬鹿か作家くらいのものだろう。作家はニュースなんて見ないため、天気の情報に疎いからである(個人差あり)。
「ちょっと待っててね」
奈乃香はポニーテールをゆさゆさ揺らしながら部屋の奥に行き、バスタオルを持ってくると俺の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。
「わ、おい。自分でやれるって。流石に恥ずかしいだろ」
「奈乃しか見てないからいいでしょ。ほら、じっとしてて」
「そういう問題じゃ……まあいいか」
善意に抵抗するのも違うと思い頭を預けると、優しく揉むように五指で包まれた。マッサージをされているような心地良さがあり、目を瞑ったらいい夢が見れそうだ。
兄としては情けない限りだが、今に始まったことではないし諦めよう。
奈乃香は上機嫌に鼻歌を歌いながら、俺の首から上を丁寧に拭き上げてくれた。
「はい、おしまい。お風呂沸かしてあるからすぐ入ってきてね」
「迷惑かけて悪いな。ありがとう奈乃香」
いつもお世話になりっぱなしだ。遊びに来ると毎回ご飯を作って掃除と洗濯までしてくれる。俺も一応最低限のスキルはあるのだが、奈乃香からしたら全然ダメらしい。
本当に助かってるし出来た妹を持って嬉しいと思うものの、妹には見せられない物を部屋に置けないのは少し辛い……。さて、風呂にでも入るか。いい加減服が重くて邪魔だ。
「えへへ、別にお礼なんていいよ。奈乃がしたいからしてるだけだもん。にぃやんのお世話するの好きだし……って、あわわ、まだ脱いじゃダメだよ! 奈乃が見てるでしょ!」
玄関で上だけ脱ごうとしたら、奈乃香が慌てて顔を隠した。
と思ったら、人差し指と中指の隙間から俺をチラチラ見てくる。
「どうしたんだよ」
「な、何でもないよ? そっか。上だけに決まってるよね。そうだよね。男の子の半裸なんてプールで見慣れてるし? にぃやんはただのお兄ちゃんだもん。兄妹ならこれぐらい普通だよね。うん、奈乃平気! 奈乃ってば勘違いしちゃったみたい!」
「勘違い?」
「いいから早く入ってきて! お熱出ても看病してあげないよ?」
妹は何かを誤魔化すようにタオルを床に並べ始め、この上を歩くようにと言った。
別に看病なんてされなくても大抵は寝れば治る。しかし、それを言うと奈乃香がタコさんみたいな顔になってしまうだろう。兄として妹の厚意を無碍にはしたくない。
俺は指示に従い浴室まで辿り着くと、扉を閉めてシャワーを浴びた。
その間はシャワーの音しか聞こえないし、外の様子は当然わからない。
だから扉の向こう側で──
「うぇへへ。にぃや~ん」
奈乃香が俺の頭を拭いたバスタオルで何を始めたのか、知る由もない。
風呂で身体を温めると、妹手作りのカレーが待っていた。八畳の部屋の中央に置いてあるローテーブルに二人分並べ、向かい合って座り食べ始める。
「いただきます」
「いっただっきまっす!」
一週間毎日食べても飽きない『なのカレー』は、奈乃香の得意料理だ。鶏肉、にんじん、玉ねぎ、ナス、かぼちゃ、ブロッコリーがひと口大にカットされ、ごろごろ入っている。
鮮やかな見た目と食欲をそそるスパイシーな香り。自然と溢れる唾液に比例して高まる期待。それらを楽々超えてくる絶妙な味。昨晩から空っぽの胃には正にご馳走だ。一口食べると手が止まらなくなり、お代わりまでしてあっという間に平らげてしまった。
「やっぱなのカレーは最高だな。いつも美味しいよ」
「えへへ、ありがとう。喜んでくれて奈乃も嬉しい!」
同時に奈乃香も食べ終わり、二人でごちそうさまでしたをする。俺の口に合わせて野菜を切ってくれたため、大きく口を広げて頬張っていたのが印象的だった。
「片づけは俺がするよ。奈乃香はゆっくりしててくれ」
流石にこれくらいはしないとダメ人間になってしまう。
食器と鍋を洗うと冷蔵庫からプリンを二つ出して一緒に食べることにした。世話をしてくれるお礼だ。奈乃香が来た時にあげる用のデザートは切らさないようにしている。
「あ~む。んう! おいちぃ!」
幸せそうに頬を緩めて食べる奈乃香を見ると平和を感じる。普段はしっかり者で頼れる姉のようだが、やはり妹だなと思う。つい頭を撫でたい衝動に駆られたところで、
『お兄ちゃん大好き』
ふとそんな文脈の無いセリフが聞こえた。百円で引き出すには安すぎないだろうか。
と、そんな風に思っていたら、それはテレビから流れてくる音だった。
「お、奈乃香出てるじゃん」
「うぅ、恥ずかしい」
子ども向けの夕方アニメで、その中に登場する女の子の声が奈乃香と同じ声だった。
地声の時点でいわゆる萌え声なのだが、アニメに合わせてさらにデフォルメされた甘い甘い声だ。タイムラインを見てみると、「奈乃様出てるじゃん!」「萌え上がって来たあああ!」「ブヒィィィィィ!」と、大好評である。
俺の妹、天坂奈乃香は声優である。
活動名は霧雨奈乃。アニメファンなら誰もが知っている大人気声優だ。昨年の『萌え声アワード妹部門』では第一位に輝き、ロリからツンデレまで妹を演じるなら右に出る者はいないと高い評価を受けている。イベントで生声を聞いたオタクたちの熱気により、会場で霧雨が発生したとかしてないとか……。注目度ナンバーワンの若手声優である。
「凄いよな、奈乃香は」
「にぃやんが応援してくれたおかげだよ」
「俺は何もしてないだろ。今ではもうみんなが奈乃香を応援してくれてるぞ。一体何人の兄がいるんだろうな」
「むぅ。その言い方は、なんか嫌だよ」
冗談めかして言う俺に、奈乃香はプリンを机に置いて、目線だけ持ち上げるように俺を見つめた。そして何万人ものファンを虜にした声で、
「奈乃にとってのお兄ちゃんは、にぃやんだけだよ?」
そんなあざといセリフを吐いてくれるのだった。不安そうな上目遣いで、庇護欲を掻き立てるように小首を傾げている。ファンなら奇声を上げて頭を地面に打ち付けるだろう。
「にぃやんの妹も奈乃だけなんだからね?」
「こんなに完璧な妹が二人もいたら俺の前世は神か仏だな」
「もぉ、褒めたって騙されないんだから」
「何かお気に召さない事でもあるのか?」
「だって……いるじゃん、いっぱい」
部屋の一角に置かれた本棚をチラリと見る奈乃香。そこには俺の好きなラノベがぎっしりと詰められており、妹がメインヒロインの作品も少なくない。
そして俺の書いてきた作品の中にも妹キャラは登場する。奈乃香に読ませたら「にぃやんはこういう妹が欲しいの?」と可哀想なものを見る目をされて以来、書かなくなったけど。妹とのイチャラブシーンを書ける作家は妹がいないかシスコンのどちらかだと思う。
「……一応、俺は現実と空想の区別は付いてるんだけど」
「ち、違うよ! 別にヤキモチじゃないもん!」
「俺は何も言ってないけど、そうなのか?」
「そうなの!」
ぷくっと膨れてしまう奈乃香。これ以上追及したらご機嫌斜めになりそうだ。
それはそれで可愛いだろうが、妹は妹である。それ以上でもそれ以下でもない。
「ぬぅ、にぃやんは全然わかってない。ラノベ作家のくせに」
「それは関係ないだろ。ほら、プリンまだ残ってるぞ」
「そだった! 食べるぅ~」
奈乃香は再び小動物のようにはむはむとスプーンに食いつき、トロンとした笑顔を浮かべた。テレビではエンディングが流れており、霧雨奈乃の文字が刻まれている。
それを見た俺は、一瞬いいなと思ってしまう。奈乃香は俺とは違い、多くのファンに愛されているのだ。素直に尊敬するし本当に凄いと思う。俺の自慢の妹だ。
しかし、それと同時に、成功している奈乃香が羨ましくも思ってしまう自分がいる。もちろん、妬みは無い。本人の努力は俺が一番見てきた。霧雨奈乃の最初のファンは俺だし誰よりも応援してきた。人気が上がっていくにつれ、自分の事のように嬉しかった。
だけど兄ではなく一人のエンターテイナーとしては、直射日光のように眩しく思う。俺とは違う世界を生きる妹に、少なからず劣等感を抱くのは当然と言えよう。
「ねぇねぇ、にぃやん」
「ん? どした、俺はお姉ちゃんじゃないぞ?」
「お勉強教えてー」
聞こえてないふりをされた。お兄ちゃんは悲しいぞ。
「いつものか」
「うん、にぃやんにしか頼めないの」
奈乃香は頭が良くないから自分で宿題をやれないのだ。
もう少し妹を立てた言い方をすると、声優業が忙しいため学業が疎かになっている。他にも小中の頃に不登校だったから下地が出来ていないという事実もあるが、家事は完璧で他に欠点らしい欠点も無いため勉強ぐらいできなくてもどうってことない。
奈乃香は足をテーブルの下に伸ばして座り、俺がその隣に並んで教える。家に来た時はご飯を食べてダラダラ休憩をした後、勉強を教えるというのが流れだ。
今日の分を終わらせて勉強道具を片付けた頃、ふいに奈乃香がじっと俺の顔を見つめた。
「んー」
「なんだ? ご褒美のアイスは無いぞ。さっきプリン食べただろ」
「違うよぉ。奈乃は食いしん坊キャラじゃないでしょ」
「じゃあどうしたんだよ。睨めっこでもしたいのか?」
「にぃやん、何かあったでしょ」
ドキリ。心配そうに俺を覗く瞳は、全てを見透かす水晶玉のように綺麗だった。
もう切り替えたと思ったんだけどな。昔から奈乃香は俺の変化に鋭い。
「にぃやん、疲れてる? 奈乃には言えない事なの?」
「あー、いや、隠そうとしたわけじゃないんだけど」
心配をかけると思って言い出せなかったが、いずれバレるなら今言っても同じだろう。
後で「どうして教えなかったの!」と怒られるし。
「また打ち切られちゃったんだ。はは……」
何でも無さそうに言ってみたが、奈乃香は唇をぎゅっと噤んで話を聞いている。
「大丈夫だよ。また頑張るからさ。次は絶対ヒット作を書いてみせる」
俺はそう言って奈乃香の頭をポンポンと撫でた。本心を強がりでカバーした言葉だが嘘は言っていない。折れかけた筆はテーピングでガチガチに固めている。
「そうだったんだ。残念だね……あんなに面白いのに」
奈乃香は俺の作品を何度も読み返すくらい好きでいてくれる。仮にお世辞だとしても『面白い』の一言は作家にとってエナジードリンクよりも効果がある。
「ほら見て、にぃやん!」
奈乃香はスマホを操作して画面をこちらに見せてくれた。
それは☆5の評価レビューで、面白かった次も読みたいといった内容だった。
「にぃやんを必要としてる人はいるんだよ。だから自信もって。ね?」
「ありがとう奈乃香。嬉しいよ」
俺を励まそうと、こんなことまでしてくれたのか。
「でもそれは奈乃香が書いてくれたやつだろ?」
「ぎくっ!」
嬉しいのだが、身内からの評価はなんとも言えない気分になる。デビュー作で評価が気になって仕方がなかった頃、ようやく入った評価が友人と知ってお前かいとなるやつだ。
「な、奈乃がいっぱいレビュー書くよ! 百件投稿して平均点上げる!」
「それは普通にアウトだ。気持ちは伝わったからしちゃダメだぞ?」
「うぅ……。なら友達! いろんな知り合いに買ってもらうの!」
「友達たくさんいるのか?」
「ぐぐぐ!」
奈乃香は人見知りな方だし、現場に行っても一番年下だから可愛がられることはあっても同年代の友人は少ない。学校は普通に通えてるみたいだけど。お兄ちゃんは心配だ。
「じゃあママ……は、難しいよね」
「だろうな。むしろこの状況を喜んでるだろ」
「で、でも、よく見て。奈乃以外にも☆5付けてる人いるよ!」
本当だ。もう一人だけ☆5を入れてくれた人がいる。他はよくて☆3で、あとはお察しの通り。きっとこの人は誤送信でもしたんだろう。
「みんな酷いよ。こんなに言わなくてもいいのに……。どうして平気でこんなことが言えるのかな。みんな悪口言われたことないのかな」
俺の代わりに奈乃香が目に涙を浮かべてくれた。その優しさが俺をどれだけ救ってくれるか。俺は大丈夫の意味を込めて、ポニーテールを引っ張ってみる。
ガクンと顎が持ち上がって間抜けな顔になってしまい、
「あぅ……何するのぉ!」
と言って、尻尾を取られないようにぎゅっと握った。
「割り切るしかないよ。良い作品を書けば褒めてくれる人がいるのは知ってるから」
「あ、そうだね。一作目の『無色透明な日々』は奈乃の中でも一番大好き。凄く売れてて人気があるんだよね? この本のおかげで奈乃は──」
「過去の栄光だよ。俺にそんな特別な力はない」
デビュー作がたまたま上手くいっただけ。その作品はボイスドラマ化もされ、霧雨奈乃が初めて声を吹き込んだ作品でもある。俺たち二人にとっても大切な作品だ。
「待っててくれ。もう一度奈乃香に声優をやってもらえるぐらい凄い作品を作るから」
「……うん。わかった。待ってるね」
最近は落ちぶれただの運だけだの言いたい放題言われているが、あの時の夢をもう一度掴んで超えてみせる。そして奈乃香との約束も果たさないとな。
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