第39話 忘れ物
鴉は上目遣いに俺を見ている。 黒いスリムパンツの長い脚を、ベッドに放り投げたまま、罪悪感も悪意をも微塵も感じさせない視線をまっすぐ返してくる。
俺はそれを見て、さらに苛立ちを覚えた。
「何もしていない、匂いが導くだけだ」
「これだから、妖怪ゆうやつは。悪いことしといて反省もないからなあ」
無邪気にことを為すからだ。彼らには悪意がなく、本能に従って動く。
綺麗なものがあれば近くにとどめておき、美味しいものが目の前にあれば喰う。 誰かのものとか関係ない。
「ソウジに触るな。勝手に魂を喰うのもなしだ。オマエからアイツの気配がだだ漏れだ」
こちらに視線を合わせたまま、鴉はうつむき加減にゆっくり顔を歪めて笑った。穏やかな顔がふと濁り、人ではない気配を濃くした。
「ああ、漏れたな」
「外にまで丸見えやん、普通やないやろ。おまえの匂いがついて吸い寄せられるヤツが増えると困んねん」
そう言いながらも、匂い消しの処理くらい簡単にできるであろう妖怪だから、わざと妖気を漏らしている、と読んだ。
「俺はソウジに憑くものを、消したつもりだったが」
「憑いとったんか!?いつからや、それはすぐ言えや」
「首に印が入ってたぞ。見えないのか。やれやれ人間ときたら」
出張にソウジを連れて行くべきだった、と再度後悔した。 うつむいて鴉の眼を睨みながら、唸る。
「クソ。ちょっとおらん間に。どこでつけられたんや」
「知らんな」 鴉は飄々と答え、俺の視線を受け止める。
「優しくて柔らかくて純粋でうまそうだからなあ。俺が匂いをつけるまでもないな」
「だからって喰うな、アホか!俺もここんとこ触ってすらないっちゅうねん」
「……放置して、ソウジが夜の間に引っ張られないといいがな」
「なんやて」
「まだ印が残っているとしたら、どうする?」
「嘘やん。後回しに、でけへんなったわ。とりあえずお前のシルシは消すわ」
ベッドの膝を進め、相手の右の首を見て皮膚の上に葉脈にも似た細い線の組合わさった青黒い印があるのを確かめた。
花のような模様が皮膚のなかに浮き上がって見える。鴉の身体を抱えて歯を立てると、びくっと脚が揺れ「待て」というのも聞かずに、ソウジの懐かしい甘い匂いを吸い込んだ。
筋肉と皮膚の柔らかな感触のなかに、鉄の匂いが交わる。それを嘗めとって、手の甲で唇を拭き、顔を起こした。
「おまえなぁ」 鴉の股間の変化に気づいて、暗い嫉妬に駆られた。
「どいつもこいつも、俺のソウジに痕つけやがって」
仏頂面の鴉が慇懃に答えた。
「……手順を省いてなかなかのサービスだな」
「ふん。居候が贅沢言うな」
「アレは遅かれ早かれ目を付けられるぞ。いいのか」
「……お前にはアイツのお目付役をしてもらう」
「異存はないな」
黙ってベッドを降りると、旧式の台所の蛇口をひねった。グラスに水を注ぐと、ふうとため息をついた。それを一気に飲み、ベッドの前に胡座をかいた。
グラスを自分とベッドとの間に置くと静かに印を結び、交渉の言葉を唱え始めた。胸元から小さな紙切れを取り出して、ピリリと切り取って鴉の額に押し付けた。 現代において、忘れられているが言葉はそのまま呪物となる。匂いに繋がる鴉の血に、守りのしるしをつけた。
もとより鴉に有無を言わせる気はなかったが、鴉はそれを望んでいたのか、黙って俺を見下ろしている。
結界を張った中での行為に、鴉は身動きできない。じわりと額に脂汗をかく。 交渉が終わる直前に、鴉は口を開いた。
「望み通りソウジは守る。ついでに、あれにつけられた穢れを少し喰わせろ。匂いは残さない。交換条件はそれだけだ」
一瞬胸の奥がぐらぐらと煮えるような気持ちになったが、静かに交渉を終えた。
「最初っからそれが目的やったか。わざと漏らしたんやな」
「さあな。早く追いかけたらどうだ。ソウジが泣いてるぞ」
「ほんまに、いけ好かんやつやな。人間様を呼びつけよって」
玄関扉の外に出て、濃厚な鴉の気配から解放される。 建物の下から見上げたが、先ほどのこぼれ落ちていた妖気はきれいさっぱり消えていた。
••✼••
僕はアパートの前に止めた自転車に飛び乗って、いつもの公園に向かった。
慌てて離れたから鍵をドアノブの鍵穴に差し込んだままだった、と気がついたのは、公園についてから。
「ああー。やってもうたわー。鍵!気まずいわコレ。取りに帰るんもなあ」
膝に両手をついて首をうなだれた。
「うあー! もう」
自転車の鍵は忘れずにかけて、夕焼けがじわりと天頂から夕闇を運んでくるのをぼんやりと眺めた。
すると、足元にするりと柔らかい毛並みが触れた。
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