第十二話 村の憎悪
「う、うわああ!!」
少年の絶叫が朝の広場を引き裂いた。
彼の小さな体が跳ね、雨と泥を跳ね飛ばしながら領主の前から逃げ出した。
「待って!待ちなさい!」
母親がすがりつくような声を上げた。少年は周囲の人垣に向けて駆け出す。ぬかるみで滑り、水たまりで飛沫をあげ、その体は泥だらけになって行く。それを追う母親の声は悲鳴とも怒声ともつかないが、少年は止まらなかった。
領主の兵士たちが馬の手綱を引く。訓練された猟犬のような機敏さで泥地と化した広場を回り、少年の退路を断とうと動き始める。鎧がぶつかり合う金属音が雨音に混じる。
しかしそれは不要だった。
人垣を駆け抜けようとした少年の細い腕を、白い手がさっと掴んだのだ。
「うわあ!!」
「止まりな!」
ローザだった。少年は激しくもがいたが、その手は離れない。
シャキン!
広場の村人の視線が集まる。領主が剣を鞘に収めたのだ。大袈裟な仕草で。雨の音にも紛れない大きな金音だった。それは言葉にならない命令だった。
この女に任せろ、と。
騎兵たちはすぐに馬首を返し、その場にとどまった。
「馬鹿なことするんじゃないよ!」
ローザの声は厳しい。少年は彼女の腕を振り払おうともがき、泥の中に倒れ込んで暴れ回る。泥が跳ね、彼女の刺繍が美しくも機能性の高いキルトの服がどんどん汚れて行く。しかしそれでもローザは決してその手を離さない。
「ああ! 離せよ! ばいた!」
少年は自分も理解していない罵倒を叫びながら泥の中でもがいている。だがローザは少年の顔を両手で掴み、言い聞かせる。
「いいかい!? 勇者様がせっかくああ言ってくれたのに! それを無碍にするのかい!? 逃げたら余計に罰が重くなるんだよ!」
だが少年はなおも獣のように抵抗する。涙と鼻水で顔は歪み、恐怖に濁った瞳はローザを殺しかねない殺気をはらんでいる。しかしローザは動じない。優しく、だが決して折れない強さで少年を抱き上げた。
「五回なら死にはしないよ! あたしは都市にいた時、もっと耐えたことあるんだからね。大丈夫。あんたは強い子だ」
立ち尽くしてことの成り行きを見ているしかなかったストラシュは、広場の空気が少し変わったように感じた。領主の苛烈な裁きを受け入れる覚悟の気配だろうか。ローザの行動が雰囲気を変えたのだ。
少年の母親が、ふらふらした動きで息子に近づく。震える手を伸ばし、涙が流れる側から雨で洗い流される濡れた頬に触れた。少年はようやく落ち着いたようだ。
「お願い……逃げないで……」
母親の懇願は、まるで自分の魂を差し出すような静かな覚悟を示していた。
領主の視線が背後の部下に向かう。一人が下馬し、泥の中を厳かに歩んでいき、少年の体を引き上げた。もはや観念したのか、分厚い革手袋につかまれても、されるがままだった。
兵士は慣れているのか、そのまま広場の端へと歩く。村人がさっと避ける。少年は泥の中引きずられながら、そこに立つ古い樫の柱に縛りつけられた。
柱には無数の傷跡と褪せた赤黒い筋があった。
(あれはそういう用途の……)
ストラシュは思った。一度、あの柱に手をかけて休んでいたことがあったが、ギョッとした目で村人から見られた経験がある。今その理由がわかった。
雨はますます強くなる。
少年の細い手首に縄が巻かれ、濡れそぼった上着が剥ぎ取られた。
執行人役が泥を踏みしめながら近づいてくる。フルフェイスの面頬付きの兜を被った大柄な兵士だった。手にした鞭は使い込まれた革で、先端に金属片が付けられている。だが流石に小さな体の少年では肉をこそぎとるその細工には耐えられないと判断されたのか、兵士は金属片が付いている方を握り込み、革紐だけの方を垂らした。
だがそれは、少年を恐怖させるに十分である。
「ひいっ!」
少年が声を上げるが、それはザアザアという強まった雨音にかき消された。
男は無表情に鞭を構えた。顔を背ける村人もいたが、領主は何も言わなかった。ストラシュは少し目を逸らしたが、眉を寄せつつ再び視線を戻す。
一回目。
パシィ!
鞭が雨を弾き飛沫を飛ばす。肉を打つ湿った音が広場に響く。少年の背に赤い線が走った。
「っ……!」
少年は歯を食いしばった。雨で濡れた体が痙攣する。母親が両手で顔を覆った。
二回目。
バシィ!
今度は斜めから鞭が振り下ろされた。新たな傷が生まれ、赤い筋が交差する。 雨が広場の泥を激しく打ってバシャバシャと鳴る。そのどれよりも強い音だった。ストラシュの身体が硬直した。彼の視線は一点に釘付けになり、呼吸が浅く速くなっていく。拳を強く握りしめ、その手は小刻みに震えていた。
「見てはなりません」
ルヴィナチワの声が、かすかに震えながら彼の耳元で囁かれた。彼女の帽子を雨粒が叩く音が聞こえ、彼女の手がストラシュの肩をぎゅっとつかむ。その手もまた、ふるふるとわなないている。
「カァァ!」
カラスが激しく鳴いた。黒い羽を逆立て、今にも執行人に飛びかかろうとする。ルヴィナチワがカラスの頭に手を置いた。
三回目、四回目。
「ぎゃあああああ」
規則正しく鞭が振り下ろされる。少年の背中から血が流れ、雨に洗われても薄まることなく地面に落ち、泥を赤く染める。もう声を殺すこともできなかった。
ストラシュは目を逸らそうとした。だが身体が動かない。トラウマが蘇る。仲間の体が引き裂かれ、狂気の闇へ引き摺り込まれて行くあの様が蘇る。
「ストラシュ様」
ルヴィナチワは彼の顔を自分の方へ向けさせようと、両手で優しく包み込んだ。しかし彼女自身の目にも涙が滲んでいた。唇を噛みしめ、必死に感情を押し殺そうとしているのが分かる。
「私を見て。私だけを見てください。魔界は……どこにでもあるのです。だから……せめて……」
ストラシュの身体がルヴィナチワに寄りかかる。彼女はその重みを受け止めながら、自分の涙が彼の髪に落ちないよう、必死に顔を上げた。
そばにやってくる者がいた。ローザだった。二人の前に立ちはだかり、少年の様子を見えないようにしてくれた。
(ありがたい……)
「ぎいいいいああっ」
だが少年の喉から漏れる悲鳴だけは防ぎようがない。
五回目。
最後の鞭が振り下ろされたあとの叫びが、不自然に途切れた。少年は気絶したのだ。
ストラシュはルヴィナチワの手を握った。氷のように冷たく、震えていた。深呼吸をする。雨の冷たい雫が口にふれた。
そうして、執行が終わった。
広場は静まり返った。村人たちは黙って立ち尽くし、かなりの強さになった雨音だけが響いている。血の匂いが雨に混じって漂う。
ローザが振り返って、ストラシュたちに向き直った。泥で汚れた服のまま、いつもの調子で。
「あんたたちが気に病むことないんだよ」
ストラシュとルヴィナチワは、そのあまりに明るすぎる笑顔に、顔を逸らした。
「これを教訓とせよ!!」
領主の声が広場に響いた。馬上からだとさらに響き、雨音にも負けない。
「勇者殿と魔女への不敬は、断じて許さん!!」
村人たちはゆっくりと動き始めた。足取りは重く、泥を踏む音が鈍く響く。雨は相変わらず降り続ける。広場から去る時、その視線はチラチラとストラシュに向けられる。いや、そばにいる魔女……ルヴィナチワにだろう。
(きついな)
ストラシュには村人たちの無言の叫びが聞こえるようだった。魔女のせいだ。魔女がいなければ。あの子が鞭打たれることもなかった……。
言葉にはされない。しかし広場の空気は重く濁り、そのような鬱屈した心の声を彼に伝えた。
ストラシュは狼狽えた。少しは村人との関係が良い方向へ進むと思っていたのに、むしろ悪化しているように見える。 彼は神父を見た。神父なら村人たちに何か言ってくれるはずだ。 ルヴィナチワを残し、ぬかるんだ地面の頼りなさに気をつけながら向かう。
「神父様」
振り向いた神父を見て、ストラシュは息を呑んだ。 頬はこけ、土気色の顔。目の下には深い隈があり、何日も眠っていないような憔悴した様子だった。雨に濡れた僧衣が、痩せた体に張り付いている。
「ああ、勇者様……」
神父の声はかすれていた。
「こんなことになるなんて……こんなことに……」
その言葉に力はなかった。かつて村人を導いていた威厳は、もはやどこにも見当たらない。
(これは、俺のせいなのか?)
柱から解かれた少年を抱き抱えた母親が横を通り、教会へ向かう、薬草をもらいに行くのだろう。
「痛かったね……痛かったね……」
震え声で繰り返しながら、雨と血で濡れた背中を庇ってやりつつ、足早に進む。少年は母親の胸に顔を埋め、肩を震わせて泣いていた。
しかし……。
ストラシュは凍りついた。
少年の目が、母親の肩越しにルヴィナチワの方を見ていた。睨んでいた。それは子供の目ではなかった。純粋な憎しみがそこにあった。十歳にも満たない子供が、これほどの殺意を抱けるものなのか。雨に濡れた瞳の奥で、暗い炎が燃えている。
ストラシュは背筋が冷たくなった。
(魔界の影響、と言われた方が信じられるが……
それとも村に元々あった何かが表に出てきただけなのか。わからなかった。ただ、この村が危険な方向へ向かっているのは確かだった。
「ローザ!」
その声にストラシュは振り返る。もう広場の人はまばらで、誰もが項垂れて家へ向かうだけだった。
領主が馬上からローザに声をかけたのだ。ローザも雨の中向かう。領主ウルフリクは、低い声で何か礼を言い、馬を降りて彼女に近づいた。そして村人たちの方を見て、誰も注意を払っていないのを確認するような仕草をした。そして親しげに彼女の頬を撫でた。そして外套を渡す。ローザの顔は、いつもよりもさらに明るく、心から嬉しそうだった。
「こんな雨の中で無茶をするんじゃない。一緒に来い、湯を用意させる」
その声は、少し離れていたストラシュにも聞こえた。
「腹の子に何かあったらどうする」
*****
二人は帰ってから体を拭き、すぐに毛布を被った。雨に濡れるのは致命的だ。領主の命令のもとでなければ、絶対にやるべきじゃない。村人たちは数日は動きが鈍いだろう。そう思った。雨は翌朝になっても止みそうがないくらい降っている。これなら、農作業もしばらくは休みかもしれない。彼はそんなことを思いながら、ルヴィナチワと一緒に暖をとった。
その夜、森が鳴いた。
ドン、ドン、ドン。
太鼓の音が家の壁をビリビリ震わせる。いつもより速く、激しく、まるで何かを急かすような狂った律動だった。
「う、うう……」
ストラシュは目を覚ましてしまった。彼の体が激しく痙攣し、寝台がギシギシと悲鳴を上げる。全身から汗が噴き出し、敷布がぐっしょりと濡れた。
「あああぁぁぁ!」
今までで最悪の発作だった。体が引き裂かれるような不快感が全身をかけめぐる。森の太鼓に合わせて、心臓が暴れ馬のように脈打つ。
「ストラシュ様……っ!」
ルヴィナチワが必死で彼を抱きしめた。震える腕でストラシュの体を押さえ、額に、頬に、唇に、何度も口づけを落とす。
(あ、ああ……)
今までの優しい添い寝とは違った。まるで自分の命を注ぎ込むような、切実な愛撫だった。
「ストラシュさま……」
魔女の声も震えている。紫の瞳から涙がこぼれ落ちた。
ストラシュは意識を失っては覚め、また闇に落ちる。朦朧とする中で、幻覚が見えた。
森が呼んでいる。
死んだ仲間たちが土の下から手を伸ばしている。
「こっちへ来い」
「お前も一緒に」
ストラシュは闇の中で声に応えようとした。
「ああ、仲間たちが……呼んでいる……」
そう呟いた。その声はもはや生者のものではない。 夢の中なのか起きているのかもわからなかった。
「いけません」
ルヴィナチワが強く言った。
「あなたは生きているのです。生きているのです。魔界から帰ってこれたんですよ……」
カラスが黒い羽を広げ、ベッドの脇で見張りをするように立っている。黒い目が暗闇で光った。
太鼓の音は夜明けまで続いた。
ドン、ドン、ドン。
弔いの鐘のように。
*****
予想通り、日が昇っても雨は弱まるだけでやみはしなかった。ストラシュが目を覚ますと、寝台の敷布が背中にべったりと張り付いている。昨夜の雨は止んだが、その代わりに空気中の水分がすべてのものに纏わりついていた。息を吸うたびに、肺の中まで湿気が入り込んでくるような重苦しさがある。窓硝子は結露で真っ白に曇り、外の景色は歪んだ水の膜越しにしか見えない。部屋の中にいても、髪が湿気で重くなり、首筋にへばりつく不快感から逃れられなかった。
朝食は卵を食べることができた。鍛冶屋がいつものお礼にと、養豚農家から鶏卵をもらった時に分けてくれたのだ。そのおかげで幾分か体力を回復することができた。パンと薄いスープだけでは、なかなかこの冬はきつい。
それを食べ終えた頃、悲鳴が静寂を引き裂いた。
「いない!息子がいない!」
ストラシュは疲労困憊の体を引きずるようにして玄関へ行き、ドアを開けて覗いた。木立のせいで様子はわからないが、声の主は広場にいるようだった。
「昨夜寝かせたのに、朝になったらいないんです! ベッドは冷たくて、どこにも、どこにもいない!」
その声には、狂気じみた絶望があった。
ストラシュはため息をつきつつ外へ出た。冷たい朝露が素足を濡らす。ルヴィナチワも後に続いた。二人はしとしとと降る雨に濡れた地面を踏みしめながら広場へ向かう。
広場は、すでに村人が集まり始めていた。皆、仕事はもう少し後だと遅めに一日を始めようとしていた様子。外套を引きずりのそのそと出てきている。
声をあげていたのは、昨日鞭打たれた少年の母親だった。赤い顔で広場の中央で膝をついていた。
「朝になったら、いないんです!
彼女の声は掠れ、涙と鼻水で顔はくしゃくしゃだった。雨に濡れた髪が頬に張り付き、震える手で地面を掻きむしるようにしている。村長の息子が近寄り、彼女に手を貸す。
「おい、すごい熱だぞ! こんな雨で無茶だ!」
ちょっとした騒ぎになった。熱病による狂乱も相まって、哀れな母親を家に戻すのにみんな苦労していた。ストラシュはそれを手伝うこともできず、ルヴィナチワと共に広場の隅から様子を見ていた。
「森だ……」
誰かが囁いた。老婆だった。杖にすがりながら、濁った目で森の方角を見つめている。
「昨夜の太鼓の音、聞いたか?」
別の男が言った。いつもストラシュの家から見える畑で農具を振るっている者だった。今日は珍しく汚れていない顔に恐怖が浮かんでいる。
「ああ、いつもより激しかった」
「まるで何かに伝えようとしているような……」
「魔王……? 魔界にまで響けと?」
「滅多なことを言うな!」
ストラシュは息を呑んだ。
(村人が森の音に言及するのは初めてだ)
太鼓については今まで誰も口にしなかった。知らないはずはない。ストラシュの家にだけ聞こえていたはずがないのだから。まるで存在しないかのように、触れてはいけない禁忌のように扱われていた。それが今、堰を切ったように語られ始めている。
「うちの子が……うちの子が魔界に連れていかれる!」
母親が男たちによって担ぎ上げられる時、地面に額をこすりつけるようにして泣き崩れていた。雨で濡れた地面に涙が落ち、そのせいで小さな水溜りができたように見えるくらい泣いていた。
「魔女の呪いだ!」
突然、一人の男が叫んだ。以前ルヴィナチワに石が当たった時、ニヤついた笑みを浮かべていた農夫だった。昨日の泥にまみれた作業着のまま、拳を振り上げる。
「魔女が子供をさらったんだ! 昨日の鞭打ちの逆恨みだ!」
「な、何を……」
ストラシュはついそうl漏らした。あまりにも意外な敵意だった。
「そうさ! 魔女の仕業に違いないさ!」
別の女が叫んだ。よくルヴィナチワに罵倒を浴びせている洗濯女だった。赤くなった手で胸の前で十字を切りながら、恐怖と憎悪の入り混じった表情でストラシュの隣の魔女を睨みつける。
村人たちの視線が、ゆっくりと、しかし確実に動いた。
一斉にストラシュへ、そしてその隣に立つルヴィナチワへと向けられる。数十対の目が、雨のもやの中で光った。それは人の目ではなかった。恐怖と憎悪で歪んだ、獣のような目だった。
「魔女が……魔女がやったんだ」
「子供を返せ!」
「人殺し!」
罵声が次々と飛んだ。ストラシュは困惑した。いくらなんでも突拍子もない。証拠も何もない。ただの感情的な決めつけだ。筋道だったものが一切見てとれない。
しかし、自分に向けられる感情はあまりにもリアルだった。 今度は勇者ですら、憎しみの視線を受けていた。
「勇者様も……勇者様も魔女の味方か!」
「子供を犠牲にしてまで、魔女をかばうのか!」
ストラシュの背筋に冷たいものが走った。これほどの憎悪を向けられたことはない。魔界で敵と対峙した時ですら、ここまでの純粋な悪意は感じなかった。
(こ、これが……ルヴィがずっと受けてきたものなのか)
彼は隣のルヴィナチワを見た。彼女は無表情だった。ただ静かに立っている。まるで嵐の中の岩のように、動かない。カラスが彼女の肩で羽をばたつかせ、威嚇するように鳴いた。
「カァ! カァ!」
その声が広場に響き、村人たちが一瞬たじろいだ。しかし憎悪の炎は消えない。むしろ、カラスの存在が彼らの偏見を強化するようだった。
「魔女の使い魔だ!」
「不吉な鳥め!」
石が飛んできた。ストラシュは咄嗟にルヴィナチワを庇い、自分の背で石を受けた。鈍い痛みが走る。振り返ると……石を投げた少年が……昨日鞭打たれた少年と一緒にいた子が……怯えたような、しかし挑戦的な目で見つめていた。
流石にこれには村人も恐れをなし、その子を無理やり引っ掴んで家へと踵を返して消えた。昨日の今日で、領主様の言うことに真っ向から刃向かったら、今度は首が飛ぶだろう。
「くっ……!」
ストラシュは歯軋りした。悔しい。結局今事態をなんとかできたのは領主の権威だろう。
(自分の無力に吐き気がする!)
そう強く思うとルヴィナチワの腕を掴み、家へと引っ張っていった。
扉を閉めた瞬間、ストラシュは深く息をついた。
振り返ると、ルヴィナチワがお互いの雨を拭き取るための布を取りに行くところだった。
「村に馴染めると思ったんだがな」
ストラシュは苦笑した。 ルヴィナチワは黙って布をストラシュに渡す。
「……なあ、ルヴィ。あの子はどこへ行ったんだろう」
沈黙が続く。
「ルヴィ」
ストラシュは真剣な目で魔女を見た。
「何か隠してないか?」
ルヴィナチワの肩が動いた。
「東の民から何かを受け取っていたのを見た。夜ごと聞こえる森の太鼓の音も、君は何か知ってるんじゃないか?」
魔女の手が杖を強く握りしめた。関節が白くなっている。
「頼む、教えてくれ」 ストラシュの声に必死さが滲む。
「この村で何が起こってるんだ? 東の人たちは森で何をしている? なぜ子供が消えた? なぜ村人はあんなに憎しみの感情を露わにする? 宗教だけじゃあ考えられないぞ?」
ルヴィナチワはゆっくりと顔を上げた。その紫の瞳には、深い悲しみがあった。
「まだ……」
魔女の声は砕けそうなくらいか細かった。
「まだ話せません」
「いつなら話せる?」
「全てが終わった時」
不吉な言葉だった。 ストラシュは訝しげな目線で目の前の女を見る。
「終わる? 何が終わるんだ?」
ルヴィナチワは答えなかった。ただ窓の外を見つめている。雨のもやのその先には、暗い森があった。カラスが一声、物悲しく鳴いた。
窓の外から騒がしい声が聞こえてくる。松明の準備をしろ、武器を持て、そんな声がしてくる。男たちが捜索隊を組み、森へ向かう準備をしているのだ。
ストラシュは窓際へ行った。畑の間の道を、隊列を組んで村の男たちが通っていく。誰もがわかっている。森は東の民、魔女を産む異教の者のテリトリーだと。それでも母親の叫びに押されて、男たちは松明を手に取る。
ストラシュとルヴィナチワは、じっと部屋で息を潜めた。外の喧騒とは対照的に、家の中は雨音以外静かだった。
二人の間の沈黙は重い。
「ごめんなさい。ストラシュ様、勇者様」
そう言って寝台に座るルヴィナチワ。雨に濡れた帽子を取ると、額に巻いた布から血が滲んでいる。再び出血してしまったようだ。ストラシュはそっと彼女の肩を抱き、それから処置をするために道具を取ってきた。外では、雨に燻る松明の列が森へと向かっていく。オレンジ色の光が、暗い木々の間に吸い込まれていった。
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