第十一話 領主の裁き

 夕暮れの薄明かりの中、魔女は家へ向かう。

「ルヴィ……ルヴィッ!!」

 ストラシュは杖を突きながら追いかける。まだ発作の余波が残っている。怪我をしているルヴィナチワの方がよっぽど確かな足取りである。彼女は振り返った。彼女は最近は帽子をかぶらない。明らかに魔女のアイコンであるとんがり帽子は、村人の嫌悪と反感を助長するだけだからだろう。だが、そのことが今回は悪く働いたかもしれなかった。

「あ、くっそ!」

 大切な長年の仲間の顔を見て、ストラシュは悪態をついた。

 額から一筋の血が流れ、頬を伝って顎から滴り落ちている。白い肌に真っ赤な血がことさらに目立った。それなのに魔女の表情は穏やかで、まるでいつもの散歩から戻ったかのようだった。

「大丈夫か!?」

 ストラシュはルヴィナチワの肩に手を回し、自分の体に寄りかからせた。彼女は小さく頷いただけで、何も言わない。杖を二人の間に入れ、無理矢理にでも彼女の体を支える。二人で家に入ると、ルヴィナチワはスッとストラシュの手を離れ、何事もなかったかのように棚から布と水差しを取り出した。テーブルに置いて黙々と用意を始める。自分だけで傷の手当てをしようというのだ。

「待て!」

 ストラシュの声が響いた。魔女が振り返る。ウェーブした黒髪は乱れ、額にぱっくり開いた傷が痛々しい。血がどれほど滴っているか自分でわかっていないのか、その紫の瞳には、不思議なほどの静けさがあった。

 ストラシュは杖を放り出し、片足で軽く飛び跳ねながらテーブルまで進み、そこに手を突いて手掛かりにする。有無を言わさぬ彼の様子に、ルヴィナチワはようやく大人しく座った。なるべく清潔な布で頬や首の血を拭き取りながら、

「なぜ……なぜ抵抗しなかった!」

 震える声で問い詰めた。ストラシュは自分でも意外なほどに冷静さを失っていた。

「お前には魔法があるだろう!? 矢防ぎの魔法なら、傷つけずに石を弾ける!」

「相手は子供たちです」

 ルヴィナチワは静かに答えた。まるで当然のことを説明するかのように。

「魔法は……抵抗力が弱い者がそばにいるだけで体調を崩します。魔界と同じですよ」

 ストラシュは言葉に詰まる。魔法は魔女の専売特許だ。そう言われると反論できない。

「それに」

 と、彼女は続けた。

「私が魔法を使えば、余計に村人に恐れられます」

 儚げな瞳がストラシュを見た。目が合うと、なんだかこっちが泣きたくなるような、なんとも言いようのない心地だった。勇者。そんなご大層な名前に見合わないカカシのような存在のために、一人村で暮らす孤独な女。その血色がいいとはお世辞にも言えない白い顔は、ローブと黒髪の黒の中で一際目立っていた。拭き取りきれない赤い血はむしろ紅のように見え、黒い森の闇の中でひとつだけ実ったすもものようであり……。

「お前は」

 ストラシュはたまらなくなって首を振った。何を拒絶するのかもわからない、否認。

「……でも、こんな傷になったんだぞ!」

 ストラシュの声が裏返った。怒りか、悲しみか……それとも運命への嘆きか。

「これでいいのです」

 その声には、一片の迷いもなかった。ストラシュは信じられないという顔で魔女を見つめた。血のついた布を持つ指がわななく。

「ええ」

 魔女は頷いた。その顔には、諦めとも違う、奇妙な確信があった。まるで、ずっと昔から決まっていたことを受け入れているかのような、静かな覚悟。

「魔女は世界から憎まれているくらいでいいんです。それだけのことを……するのですから……」

 ストラシュの手が止まった。

「するって……何をするんだ?」

 問い詰めようとした瞬間、魔女は目を閉じた。そして黙り込む。それ以上は何も語らない。石像のように動かない魔女を前に、ストラシュは治療を再開する。

 彼は棚から薬草を取り、ルヴィナチワの指示に従って処理をする。そっと額の傷に触れる。不器用な手つきで薬を塗る。布を巻く。魔界にいた頃、仲間たちにあまりしてやれなかったこと。戦いの後、傷ついた仲間を見ても、自分も傷だらけで何もできなかったこと。それが今、こうしてできている。

 魔女は処置の仕方だけ伝えると、黙って身を任せた。 目を閉じ、穏やかな表情で。まるで全てを委ねるように。

 その疲れた顔を見ていると、ストラシュの胸に何かが込み上げてきた。

 感情が溢れそうになる。

 薬を塗る手が止まった。ルヴィナチワの白い頬に、赤い血の筋が一本残っている。 ストラシュは布でそっと拭った。その時、彼女が目を開けた。紫の瞳が、すぐ近くにある。 互いの息遣いが聞こえるほどの距離だった。

  ストラシュは自然と、その頬に唇を寄せていた。

 ルヴィナチワの笑顔。

 ストラシュの胸がいっぱいになった。温かく、優しく、確かなものに満たされる。彼は目の前の大切な女性に触れる。発作に苦しむ時の縋り付くような気持ちではなく、純粋に愛おしさで。

「勇者様……ストラシュ様……」

 ルヴィナチワが初めて名前を呼んでくれた。その幸福感はストラシュを暖かく包む。全てが報われた気がした。魔界から帰ってきたことも、絶望に耐えたことも、この村に馴染もうと努力したことも……。

 けれど同時に、何故か不安が胸をよぎった。この幸福は、地獄へ向かう道の最後の休憩所のような気がしたのだ。

 傷口に薬草で作った軟膏を塗る作業が終わると、ストラシュは魔女を抱きしめた。その体は細く、冷たく、自分がいないと明日には死んでしまうんじゃないかという気がした。もちろんそれは彼の傲慢である。この魔女はたった一人でも差別の中を生き抜くことができるのだろう。黙って、耐えて、何も愚痴を言わずに。

 そのことがあまりにも悲しかった。

 ストラシュは何かしてやりたかった。

 だが、今は……子供のように泣いた。

「すまない……すまない……」

 声が震える。涙が止まらない。

「俺は何もできなかった。また……見ているだけだった……」

 魔界で仲間たちが倒れていくのを、ただ見ているしかなかった時と同じだ。魔女が石を投げられるのを、自分は何もできずに家で待っているしかなかった。

「いけません、勇者様」

 涙で濡れるストラシュの頬に、彼女の白い指が触れる。

「私なぞに深入りしすぎては…………」

「深入り?」

 ストラシュは顔を上げた。涙で濡れた顔で、ルヴィナチワを見つめる。

「俺たちは七年も一緒にいるんだぞ? 生死を共にしたんだ。それでも深入りするなと?」

 彼女は答えなかった。ただ、ストラシュに先ほどよりしっかりと体をくっつけ、背中に手を回した。そして大きく息を吐いた。二人は抱きしめ合った。明るい昼の光の中で、まるで嵐の中で寄り添う者たちのように。お互いの温もりだけを確かめるように。

 窓の外から、村の日常の音が聞こえてくる。畑で呼びかけ合う農夫の声。子供たちへの母親の呼びかけ。井戸で桶が当たる音。 それらが、まるで別世界のもののように遠く感じられた。


*****


 夜半、カラスが激しく鳴いた。

 ストラシュは目を覚ました。暗闇の中、窓辺で黒い影が激しく羽ばたいている。

「どうしたんだ?」

 窓の外を見る。もうとっくに日は沈んでいるようで、闇が畑を覆い、森が真っ黒く遠景に鎮座している。カラスが窓から飛び込んできた。

「カーッ! カーッ!」

 いつもは静かに佇んでいるのに、今夜は違う。何度も何度も羽を広げ、森の方を見ている。

「どうしっていうんだ……?」

 ストラシュが体を起こすと、すぐ隣で寝ていたルヴィナチワも目を開けた。魔女はゆっくりと上半身を起こし、カラスの方を見る。

「ルヴィ?」

 そして目を閉じた。

 静寂。

 ストラシュは息を潜めた。愛する人の顔が、月明かりの中で青白く浮かび上がっている。閉じられた瞳の下で、唇が微かに動く。カラスと繋がっているのだ。

 やがて、魔女は目を開けた。

「……始まる」

 その声は、ひどく静かだった。

「何が?」

 ストラシュは問いかけた。胸騒ぎが止まらない。ルヴィナチワは答えなかった。そして窓の外を見る。その視線の先にあるのは、暗い森。

 そして、聞こえてきた。

 ドン、ドン、ドン。

 森からの太鼓の音。

 いつも夜になると聞こえる、あの音。けれど今夜は違う。いつもより激しい。いつもより速い。まるで何かを呼び起こすように、何かを告げるように。

 ドン、ドン、ドン、ドン。

 音が増えていく。一つではない。複数の太鼓が、森の奥から響いてくる。

 カラスが一声、鋭く鳴いた。


*****


 夜が明け、昼になっても、二人は家の中にいた。ルヴィナチワはいつものように水汲みに行くといって立ち上がったが、ストラシュが止めた。

 夕刻になると、蹄の音が響いた。

「ルヴィ、お前はじっとしてろ」

 ストラシュはそう言うと、杖を持って玄関を出た。腕の筋肉を締めがっちり固定し、ない方の右足に杖をピッタリくっつけて体を預ける。慣れたものだった。杖をローザからもらったばかりの時からすれば、信じられないほどスムーズに彼は進んだ。

 ぽつぽつと雨が降ってきた。冷たい雨だった。枯れ葉を散らし冬の到来を知らせる、この地域の季節の風物詩だ。秋になってやってきた勇者と魔女に、この村初めての冬が来たのだ。

 小雨の中、村の入口から馬に跨った男たちが現れる。やはり以前と同じように十騎ほど。先頭を行くのは領主ウルフリク。その後ろに、武装した部下たちが続く。馬の蹄が地面を踏みしめるたびに、泥が跳ね上がった。濡れた鎧が鈍く光を反射している。

 領主は広場の中央で馬を止めた。雨に濡れた髭から雫が滴り落ちる。その灰色の瞳が、集まり始めた村人たちを見渡した。

「子供が勇者殿の魔女を傷つけたと聞いた」

 ウルフリクの声が、雨音を切り裂いて広場に響き渡った。低く、しかし明瞭な声。命令ではなく、宣告だった。

 村中から人々が集まってくる。何事かと顔を出す者たち。雨の中、頭巾を被り、一丁らの外套に身を包んでいた。昨日、石を投げた子供たちは、いつもの麻の服だけ着て母親の後ろに立っている。小さな体が震えるのは冷たい雨のせいだけではあるまい。濡れた髪が蒼白の顔に張り付いている。母親たちの顔はこわばり、唇が青ざめている。

 領主は馬上から集まった村人たちを見下ろした。だんだん強くなる雨が彼の肩を打ち、蜜蝋を塗った革の装具を濡らしていく。微動だにしない。石像のような男だ、とストラシュは思った。前に会った時より、さらに。

「これは重大な罪だ」

 戦場でもよく通る彼の声には、有無を言わせぬ威厳があった。雨に濡れた広場に、その言葉だけが響く。

「勇者殿への不敬である」

 村人たちがざわめいた。ひそひそと囁き合う声。雨音に混じって聞こえる不安の声。

 そこへ、神父グレゴールが前に出た。黒い僧衣が雨に濡れ、体に張り付いている。いつもの穏やかな表情ではない。厳しい顔つきで、村人たちを見渡す。雨粒が彼の顔を伝い落ちていく。それはまるで涙のように見えた。

「看過できません」

 神父の声が、雨の中に響いた。いつもより高く、震えている。

「神の御使いへの暴力は、神への冒涜です」

 村人たちは顔を見合わせた。互いの顔を見つめ、困惑を隠せない。雨に濡れた顔には、理解できないという表情が浮かんでいる。離れて聞いていたストラシュですら少し慌てた。

 いつもであれば、教義を振りかざして俗世の権力に嫌悪をあらわにするところだ。領主に口答えし、教会の権威を主張するのが、グレゴール神父ではなかったか。それが今、領主に同調している。膝を折りそうな勢いで。

 それに……魔女を「神の御使い」と呼んだ。

 前であれば考えられないことだった。魔女への暴力を黙認し、森の民への軽蔑を隠そうともしなかったのが、このグレゴール神父ではなかったのか。困惑と不信が、村人の顔に広がった。ざわめきが大きくなる。雨音に負けないほどの、不安と動揺の声。

(ルヴィに投げかけられる差別を放置していたくせに……)

 ストラシュもまたそう思った。これはいけないと考えた。領主ウルフリクと神父グレゴールの力関係の拮抗でもってこの事態は丸く収まるだろう。その当てが外れてしまった。ストラシュは唇を噛む。舌で雨を感じる。苦い味がした気がした。

(俺のせいで神父が自信を無くしたとでも言うのか。それなら……)

 杖をついて前へ出る。一歩一歩、慎重に。

(俺の責任だ)

 雨が彼のボサボサの頭を、肩を濡らしていく。

「ストラシュ様」

 驚いて振り返る。

「ルヴィ……」

 そこには魔女のとんがり帽子を被ったルヴィナチワがいた。それは雨よけのためではあるまい。その下に包帯を隠しているのだ。

 彼女はストラシュのそばにくる。ストラシュは自然にその方に手を置いて静かに歩き出す。黒い外套が雨を吸って重たく揺れ、泥が跳ねる。カラスは雨に濡れるのを嫌がるように羽を震わせているが、それでも魔女の肩から離れない。

 そして二人は広場に立った。勇者と魔女。肩には濡れたカラスが留まる。その瞳に映るのは、雨に煙る広場と、集まった村人たち。

 村人たちは、魔女を避けるように距離を取った。まるで疫病患者から離れるように。円を描くように二人の周りに空間ができる。雨の中、誰も魔女に近づこうとしない。けれど視線は、突き刺さすように向けられている。恐れ、嫌悪、好奇心。様々な感情が混ざり合った視線。

 ストラシュは笑った。

(これが真の態度ってわけだ。この俺、勇者サマも、敬意を払われているのは確かだったが、遠ざけられているのは変わらなかった)

「主犯格の者、前へ出ろ」

 ストラシュたちをチラリとだけ見た領主が命令を飛ばす。その声は雨音を貫いて響いた。

 広場が静まり返る。雨の音だけが聞こえる。ぽつぽつばたばたと、ぬかるんだ地面を打つ音。

 母親に促され、一人の少年が震えながら前に出た。間違いなく昨日、魔女の額に石を投げた子供のひとりだ。その中の、致命的な一撃を放った張本人。雨に濡れた金色の髪、手でぎゅっと掴んでシワになった服、裸足の足が泥の中に沈む。

 少年の顔は恐怖で歪んでいた。目は見開かれ、唇は震えている。足がガクガクと震えている。今にも倒れそうだ。

「手を出せ」

 領主が剣を抜いた。

 しゃらん、と金属音が響く。刃が鞘から抜かれる音だ。雨に濡れた刃が、曇り空を映して鈍く光る。

 広場がどよめいた。声にならない悲鳴。息を呑む音。誰も予想していなかった展開だ。剣? 子供に? グレゴール神父も目に見えて狼狽えているが、もはや止める言葉もないようだ。

 領主は下馬する。どちゃっと泥が跳ねて少年の顔にかかり、哀れな子は目を瞑ることさえせず、手も下ろさない。決して殊勝に罰を受け入れたわけではない。体が固まってしまったのだ。

「あ、ああ……」

 グレゴール神父が声にならない声を上げた。

 領主の剣がゆっくりと少年の手首に近づいていく。刃先が、震える小さな手に触れるか触れないかで止まる。雨粒が刃を伝い、雫となって落ちる。少年の手が激しく震えた。膝が笑っている。雨に濡れた小さな手が、恐怖で硬直している。

 母親が悲鳴を上げようとして、口を手で覆った。その手も震えている。目からは涙が溢れ、雨と混じって頬を伝う。

 広場の空気が凍りついた。雨音だけが響く。誰も動けない。誰も声を出せない。ただ、見ているしかなかった。ストラシュも見ていた。領主の顔を。そこには迷いがなかった。ためらいもなかった。ただ、冷徹な決意だけがあった。秩序を守るという、揺るぎない意志。

(本当にやるつもりだ)

 その確信が、ストラシュの中で弾けるのと、領主がぐわっと剣を振り上げるのは、同時だった。

「待ってくれ!」

 その声は雨音に負けなかった。皆が振り向く。雨に濡れた顔が、一斉にストラシュを見る。

 ストラシュが前に出た。ゆっくりと漁師に近づく。魔女ルヴィナチワが肩を貸していたが、途中で彼は離れ、杖だけで少年のもとへ向かう。杖が泥の中に沈む。歩きにいことこの上ない。片足を引きずるように、それでも必死に前へ。顔は必死の形相だった。額に汗が浮かんでいる。いや、それは雨か。雨と汗が混じり合い、顔を濡らしている。

「領主殿……」

 剣を下ろした領主ウルフリクの近くまで来ると。息を切らしながら言葉を絞り出す。雨に濡れた唇が震える。

「子供のしたことじゃないですか」

 声が掠れている。喉が締め付けられているようだ。

「許してやってくれませんか」

 村人たちがざわめいた。雨の中、驚きの声が広がる。勇者が、あの勇者が、子供のために懇願している。魔女を傷つけた子供のために。片足を失った体で、雨の中、泥の中を進んで。おおよそそのような内容の囁きが聞こえてきた。

「勇者殿」

 領主の声は冷たかった。氷のように冷たかった。勇者より高い身長から見下ろす目に、一片の温情もない。雨に濡れた顔は、脂で固めたヒゲすらも石のようであり、威厳を決して失わない。

「秩序は守らねばなりません。決して勇者殿だけのためではありませんぞ」

 剣はまだ、少年の手首の近くにある。

「このような行為を許せば村の秩序が乱れます。前例を作るわけにはいかぬ」

「俺のことなら好きにしてくれて構わない」

 ストラシュが大きな声で答えた。杖を握る手の感覚がない。雨に濡れて冷たくなったうえ、白くなるほど強く杖を握りしめているからだ。

「それでも秩序のために罰が必要というなら理解しましょう。だがやりすぎです。石を投げて片手を切り落とすだなんて」

 彼は少年を見た。震える小さな体。雨に打たれ、泥にまみれた子供。恐怖で顔を歪ませ、涙と雨で顔をぐしゃぐしゃにした少年。

「この子を……畑でよく見ました。少し元気すぎるきらいもありますが、農作業をよく手伝っています」

 ストラシュの声が震える。雨音の中、必死に言葉を紡ぐ。

「どうか頼みます、どうか…………」

 そして頭を下げる。するとそばで見ていた少年の母親が崩れ落ちた。膝から泥の中に沈む。雨と涙で顔が見えない。声を押し殺して泣いている。肩が激しく震えている。その姿を見て、広場の村人たちももらい泣きをし始めた。涙を拭う者、すすり泣く者。雨に混じって、嗚咽の声が広がっていく。

 ストラシュは、何かおぞましいものを見る気分で人々を見わたした

 昨日彼らは、ルヴィナチワに石を投げるのを黙認していたのではなかったか。いや、笑っていた者さえいた。それが今、涙を流している。勇者の慈悲の心に感動してみせている。

 偽善だ、とストラシュは思った。醜い偽善だ。

 雨が激しくなってきた。冷たい雨が、容赦なく人々を打つ。

 長い沈黙が流れた。雨音だけが響く。領主は動かない。剣を構えたまま、少年を見下ろし、そしてストラシュに目をやっている。その目に何か葛藤があるのか、それとも何もないのか。交互に行き交う視線には感情がなく、雨に濡れた顔からは何も読み取れない。

 やがて、彼は小さく息を吐いた。ヒゲの下から出た白い息が雨の中に消える。

「では、鞭打ち五回」

 剣が鞘に収められる。金属音がキンと短く響く。少年の手は無事だった。

「これでも温情だと思え」

 領主の声は、まだ冷たかった。しかし、刃の冷たさよりは幾分ましだった。

 広場から、安堵のため息が漏れる。雨音に混じって、小さな、しかし確かな安堵の声。

 ストラシュは立ち尽くしていた。杖にもたれかかり、雨に打たれながら。ルヴィナチワは、広場の隅でじっと立っていた。肩のカラスは羽を震わせ、雨を払おうとしている。

 冬の雨は、容赦なく降り続け、農耕に向いてはいるが、建物を建てるには適さない、この土地をドロドロに溶かしていく。

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