第18話
耳元で風が鳴る。温かい風が、ゆっくりと髪を乾かしていく。
レイの指先が髪の根元をほぐすように動いて、温風が地肌に届くよう調整してくれているのがわかる。
思っていたより、レイの手つきは丁寧だった。ゴシゴシと乱暴にやられるかと思っていたが、むしろ逆で指の腹でやさしく撫でるように髪は乾かされていく。
心地よくて何もする気にならず、俺はスマホを手に取り、何の気なしにロックを解除した。これからの天気を確認したり、SNSのタイムラインを眺めたり。特に目的があるわけでもない。ただの暇つぶしだ。
「ねぇ、シキくん」
「ん?」
「そのままだと、服が濡れちゃうかも。タオル取るね?」
「んー」
適当な返事をしながら、スマホから視線を外さずにうなずく。
すると、ドライヤーの音が止んで、肩にかかっていたタオルがふわりと外された。露出した首筋に、ひんやりとした室内の空気が触れる。
「……ん?ねぇ、ここ、怪我した?」
レイの指先が、そっと首筋に触れた。
「色、変わってる」
「怪我?」
怪我なんてしたっけ、と思いながら、スマホの画面を消す。暗くなった画面を鏡代わりにして、襟元をずらして画面を覗き込む。
そこには、歯型があった。
依織に噛まれた跡だ。
心臓がドクンと跳ねる。まずい、と本能が警鐘を鳴らす。反射的に、俺は首元を手で押さえていた。
浴室で見たときは、まだ皮膚の色が完全には戻っていなかった。淡く黄色が残る内出血と、歯型を囲う赤く滲んだ跡。反射で歯型が見えたってことは、そのすべてを、レイに見られたってことだ。
隠したところで、もう手遅れなのは分かってる。それでも、そうせずにはいられなかった。
「……シキくん」
背後から聞こえるレイの声は、静かに感情を押し殺したような声色だった。
「手、どけて」
その言葉に、思わず手のひらに力が入る。見せることを躊躇していることが、後ろめたいことがあると言っているようなものだと理解していながらも、手を退けることはできなかった。
「それ、歯型だよね?」
「……なにが」
平静を装って返したつもりのその声は、自分でも驚くほどか細かった。
レイはそれ以上、問い詰めてこない。ただ、じっと俺を見つめている気配だけが、背中越しに突き刺さってくる。
視線が痛い。逃げたくなる。
数秒の沈黙のあと、レイが乾いた息をひとつ吐いて、再び、静かに口を開いた。
「……もっかい言うね」
噛み跡を隠すように置いた俺の手に、レイの指が触れる。ただ触れられているだけなのにまるで有無を言わせないような静かな圧があった。
「手、どけて。それ、俺に見せてくれる?」
言葉を区切られるたびに、空気がじわじわと重くなっていく。まるで室温が一段階下がったみたいに、肌が粟立つ。
見せたら、軽蔑されるかもしれない。そんな予感が頭の中をかき乱す。いや、こいつに限ってそんなことはない。そう思いたいのに、思考はぐるぐると同じところを回り続ける。どうすればいいかなんて、わかるはずもないのに。
「……お願い」
その一言が、ただただ胸に突き刺さる。寂しげに響いたその声が、余計に苦しくさせた。こんなふうに言われて、平気でいられるわけがない。でも、怖くて動けない。
そんな狭間で、わずかに揺れた気持ちが、俺の指先から、じわじわと力を奪っていった。
少し悩んだ末、俺は首元を押さえていた手から、そっと力を抜いた。
それにすぐ気づいたんだろう。彼の手が包み込むように俺の手と重なり、ゆっくりと俺の手をそこから退かしていく。
レイの指が、そこに触れる。首筋に落ちたその感触は、予想以上に冷たかった。触れられた瞬間、その一点にだけ意識が引き寄せられる。皮膚の感覚が鋭くなる。
「……やっぱり、歯型だ」
その声からは、何の感情も読み取ることができなかった。ただ事実を確認するかのようなその声が、かえって恐ろしい。
冷たい指先が、ゆっくりと跡をなぞっていく。そのたびに、肌がびくりと震え、心臓が跳ねる。
「誰にやられたの?」
やわらかく問いかけるその声が、首筋に触れる指先よりもずっと温かく聞こえる。その温度差に、俺は唇をきつく閉ざすことしかできなかった。
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