第19話

 沈黙したままの俺の首筋に、レイの指先がさっきよりもずっと丁寧に、噛み跡の周辺を撫でるように触れてくる。


「……痛そう。痛くない?大丈夫?」


 何か返さなきゃと思うのに、言葉が出てこない。喉が焼けるように乾いて、呼吸すらままならなかった。


「彼女できたの?そんな話、俺には一度もしてくれなかったのに」


 続けて投げかけられる問いに、俺はうつむいたまま、なにも返せない。


 レイの指が、喉元近くまでゆっくりと滑っていく。やさしい動きのはずなのに、背筋がぞくりとした。


「これってさぁ……合意の上なんだよね?」


 レイの問いかけは止まらない。


「こんなことされて、嫌じゃなかったの?」


「それとも、人に話せないような、嫌なことされた?」


 声の温度が、少しずつなくなっていくのがわかる。見えなくても、確実に“表情”が変わってきてるのが背中越しに伝わる。


「拒めなかったの?」


「俺が知ってる人?」


「シキくんはその人のことどう思ってるの?」


 一つ一つの問いが、氷のように冷たく、そして鋭い。


「その人のこと、好き?」


 耳元すれすれで落ちてきたその言葉。吐息に近いその響きに、身じろぎすらできなくなる。


 依然俺が何も言わないまま固まっていると、レイの手がふと離れた。彼は背後からゆっくりと俺の前へと回り込み、俺の正面へと立つ。


「シキくん」


 名前を呼ばれ、恐る恐る顔を上げる。


 視界に映ったレイの顔は、どこか冷え切っていた。瞳の奥にうっすらとした怒気が滲んでいるようにみえた。


「俺には、何も話してくれないの?」


 そう言って、レイはただじっと、俺を見下ろしてくる。視線は一度も逸れることなく、まるで逃げ道を塞ぐように、俺の目を捉え続けていた。


 そして、ほんの一瞬の間のあと、彼はふっと、口元だけで笑った。


「そっか。……言えないんだね」


 その声音はあくまで優しいのに、なぜか背筋が寒くなった。


 レイがゆっくりと膝を折り、俺の目線と同じ高さに降りてくる。


「俺のこと、嫌い?」


 柔らかく投げかけられた問いなのに、心の奥を静かに抉られた気がした。


 顔が近い。目が逸らせない。声も、息も、鼓動さえも絡めとられていく。


 喉が詰まりそうになるのをなんとか堪えて、俺は、ぽつりと答えた。


「……嫌いじゃない」


 小さく、そう口にすると、レイの表情がふっとやわらぐ。


「よかった」


 レイは囁くようにそう言って、そっと俺の手を取る。ゆっくりと、まるで触れたことを確かめるように、指先をひとつずつ絡めながら、握りしめられる。繋がれた手は、レイの手によって彼の頬へと導かれた。


 俺の手に、レイの体温がじんわりと染み込んでいく。 レイは、まるで「撫でて」とでも言いたげに、柔らかな動きで、すり……と、俺の手に頬を寄せた。


 そして、俺を見上げながら、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。


「ごめんね……怖がらせちゃった? 」


 その声と表情を前にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。こんな顔をさせたのは俺だという事実が、静かに罪悪感となって押し寄せてくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る