第16話

 スマホを置いて少ししてから、脱衣所の扉が音を立てて開いた。


「……ふぅ、お先でした」


 聞き慣れた声がぼやけたように響く。顔を上げると、レイがスウェット姿で脱衣所から出てきたところだった。


 服のサイズは、案の定ぴったり……いや、ちょっとだけパツってるし、少し丈も足りてないように感じる。


 髪はまだ完全には乾いておらず、前髪が濡れて額に張りついている。首筋から肩口にかけて、ほんのり赤く、上気していた。

 

「服もありがと。借りるね」


「やっぱりサイズきついか」


「まぁ、でもこれで大丈夫。なんかシキくんの匂いがして落ち着く」


 なんてことを、さらっと言いやがる。


「お前さ、そういうことサラッと言うな」


 呆れ半分に言いながらも、顔がほんの少し熱くなるのを感じた。こいつは本気で言ってるのか、からかってるのか、どっちなんだ。


 レイはというと、別に深い意味はないですけど?みたいな顔で、首を傾げている。


「だって、なんか安心するんだもん」


 そう言って、ソファへと歩いていく。レイがソファに腰を下ろしたのを見届けて、俺はリビングの棚からドライヤーを引っ張り出す。


「ほら、髪、ちゃんと乾かしとけ。風邪ひくぞ」


「ん、ありがと~」


 レイは受け取ったドライヤーを手にしながら、ふとこちらを見た。


「ねぇ、さっき何飲んでたの?」


「ああ、ただの白湯。あったまろうと思って」


「えー、俺も飲みた~い。喉乾いてたんだよね~」


 ソファの上で子どもみたいに肩を揺らしてそう言うもんだから、思わずため息が漏れる。


「はぁ……わかったよ。淹れてやるから、おとなしく髪乾かしてろ」


「わーい!やった~、シキくんありがと~」


 立ち上がってキッチンへ向かい、ケトルに手を伸ばした。スイッチを押して中のお湯の温度を確認する。ケトルに表示された温度は53度。ちょうどいいだろうと思って、そのまま白湯をマグカップに注いだ。湯気がふわりと立ち上り、ほのかに指先が温まる。


 マグを片手にリビングへ戻ると、レイはソファに座ったまま、髪を乾かしていた。肩まで伸びた髪がふわふわと揺れて、首筋がほんのり赤く見える。


「ほら、白湯。冷める前に飲んどけよ」


「わ、ありがとう!……あ、あったかい」


 両手で包むようにマグを受け取ったレイが、目を細めて笑う。両手でマグを抱えたまま「ふーっ」と白湯を吹いているのを横目に見ながら、俺は小さく伸びをした。


「じゃ、俺も風呂入ってくるわ」


「うん。ゆっくり温まってきて」


 軽く手を振るレイに背中を向けて、俺は脱衣所へ向かった。


 脱衣所に入り、扉を閉める。湿った空気がまだほんのり残っていて、ついさっきまでレイがいた気配がそこかしこに残っている。


 俺は服を脱ぎ、シャツもズボンもまとめて洗濯機に突っ込んだ。ついでに洗剤と柔軟剤をざっと計量して投入口へ。スイッチを入れると、機械が低く唸って動き出した。


 よし、と小さく息を吐いて、その音を背中に聞きながら、バスタオルを片手に浴室の扉へ向かう。脱衣所の曇った鏡に一瞬だけ映った自分の姿を横目に、俺は湯気の残る浴室の扉を開けた。


 湯気の残る空間に足を踏み入れた瞬間、ほっと息がこぼれる。肌を撫でる空気があたたかくて、自然と肩の力が抜けていく。


 俺はシャワーの温度を確かめてから、頭からざっと湯を浴びた。


 熱すぎずぬるすぎず、ちょうどいい。シャンプーを手に取り、泡立てながら髪に馴染ませていく。指先が頭皮をなぞるたび、今日一日の出来事が、湯気の中に浮かんでは溶けていった。


 今日は楽しかったな。


 素直にそう思った。レイと飯を食いにいく事は初めてじゃなかったが、今日は妙に楽しかった。なぜかと言われたら、わからない。でも、一つ心当たりがあるとすれば。あいつの照れた顔のおかげかもしれない。


 いつもはレイの行動に少しドキッとさせられてばかりだけど、今日はやり返せた。あの「冗談」だって、今思えば俺なりの仕返しだ。気の抜けた顔や赤く染まった顔をたくさん見られて大満足だ。


 思い出してみると、口元が自然と緩んだ。


 泡を流しながらふと、鏡越しの首元へと視線を落とす。曇った鏡の向こうに、薄く残った跡が目に入った。


 依織に、噛まれたところ。


 軽く指先でなぞると、この前みたいに痛みが走ることはなかった。


「依織……」


 明日、依織と食事に行くのは、正直ちょっと楽しみだ。顔を見て、声を聞いて、何気ない話をするだけでも、嫌じゃない。


 お店ではたまに話すこともあるし、俺が給仕することもある。そのたびに、向けられる笑顔とか、柔らかい言葉とか。そういうのに、少しずつ慣れてきた……気がしていた。これはただ”慣れた”だけなのか。


 それだけじゃ、ないのかもしれない。


 また、あの時みたいに触れられたらどうしよう。そんなこと考えるつもりなんてなかった。期待なんて、してるわけがない。けど、その“してない”って言い切れない自分に、気づきたくなかった。


 バカみたいだ、と思う。だけど、指先はまだ首の跡をなぞったままだった。熱も、痛みも、もうないくせに、そこだけ、肌の記憶が消えてくれない。


 湯気が立ち込める浴室の中、シャワーの音だけが空間を満たしていた。無言のまま、何も言い訳できない自分と向き合う時間だけが、静かに流れていく。

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