第4話

 夜の空気は秋めいていて、街路樹の葉は色づき始めていた。街灯に照らされた歩道には、乾いた落ち葉がちらほらと舞っている。足元でカサッと音がして、俺はなんとなく視線を落とした。


「この時間、ちょっと肌寒くなってきたね~」


 レイが肩をすくめながらそう言って、歩き出す。俺もその隣に並んだ。


「すっかり秋って感じだな」


「秋って何着たらいいかわかんなくて困るよね~」


「日差しは暑く感じる時あるもんな」


 くだらないやりとりを交わしながら、二人並んで歩道を歩いていく。ビルの明かりがぽつぽつと灯り、閉店間際のカフェから、店員の「またお越しくださいませ~」という声が聞こえる。


「シキくん、今日暇~?このままどっか寄って帰らない?」


 唐突な提案に、俺は半ば呆れて笑った。


「お前な。今日出かける約束したばっかりだろ」


「えーいいじゃん!だめ~?」


「明日も仕事だし、飯だけな」


「やった~!優し~!ごはんごはん♪」


 レイが両手をぶんぶん振って、子どもみたいに喜んでみせる。その姿につられて、また少しだけ笑みがこぼれる。


「とりあえず駅前まで行くか」


「はーい」


 そうして二人で歩き出した矢先、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を見ると、表示された名前に、自然と足が止まる。


 【依織】


 メッセージのやり取りはあっても電話なんて初めてで、少し戸惑ってしまう。隣で俺の様子に気づいたレイが、首を傾げてくる。


「どうしたの?電話?」


「うん……」


 短く返すと、レイはスマホの画面をちらりと見て、すぐに俺の表情を読んだらしい。


「俺のことは気にせずに出なよ。その間にごはん屋さん探しとくからさ!」


 にこっと笑って、親指を立ててくる。その無邪気な仕草に、少しだけ救われた気がして、俺は小さく息を吐いた。


「……悪い、助かる」


 画面をスライドして通話に出る。


「もしもし」


『あ、もしもし。シキ様、急にすみません……今帰り道ですか?』


「あぁ、今帰ってるとこ。どうした?」


 耳に届いたのは、どこか落ち着いた依織の声だった。緊張してるのがバレないように平然を装って答える。


『今日、お店に行けなかったから。その……シキ様の声が、聞きたくなっちゃって……』


 少し照れたような声音。その声音につられて、俺も少し顔が熱くなる。


「そっか。いや、大丈夫。体調でも悪かったのか?」


『いえ。今日は、ちょっと用事があって。でも、シキ様に会えなかったのが、なんか寂しくて』


「そ、うか」


 言葉が喉で引っかかる。照れくさいけど、どこか素直に嬉しくて、目の前に本人がいないのをいいことに少し顔をほころばせる。

 隣を歩いていたレイが、気を利かせて少しだけ距離をとってくれているのがわかった。


『あの、迷惑でしたか?急に電話なんてして』


「いや、そんなことない。俺も、声聞けて嬉しい……」


 電話の向こうで小さく息を呑む気配が、ほんの一瞬だけ伝わってきた。俺の言葉に、驚いたような、嬉しそうな沈黙。


『……ふふ。ありがとうございます。あの、ほんとはもっと話したいことがあったんですけど』


「ん……今、ちょっと人と一緒だからさ。また、改めてでもいいか?」


『もちろん。また今度、ちゃんと時間くださいね?』


「ああ、また連絡する」


『ありがとうございます、じゃあ、また』


 通話が切れる。スマホをそっとポケットに戻したところで、数歩先から小さく手を振られた。


「……ごめん、待たせた」


「んーん、ぜーんぜん!おかえり~」


 レイはそう言って、にこにこと笑っていた。


 ほんのり夜風に揺れる髪が、駅前のネオンに淡く照らされる。その横顔を見ていると、さっきまで耳に残っていた声が遠くなるような気がした。


「ごはん、もう決めた?」


「うん。シキくんが好きそうなとこ、だいたい候補は絞ったけど……焼き鳥とラーメン、どっちがいい?」


「腹減ってるし、がっつりラーメンで」


「らじゃーっ!」


 手を掲げて返事するレイのテンションにつられて、自然と口元が緩む。やけに賑やかな喧騒の中を、二人で歩き出した。


「なんか、機嫌よさそうだね?」


「俺?」


「うん、なんか電話終わってから、ちょっと顔が緩んでるっていうか~」


「んなことないだろ」


 からかうような口ぶりに、軽く頭を小突くと、レイは笑いながら避ける。


「まあでも、そうやって笑ってるシキくんの方が俺は好きだな~」


「……そうかよ」


 こんなふうに、なんでもない会話のなかに、ぽつりと本音を投げ込んでくるから困る。

 さっきの通話が胸のどこかをくすぶらせていたはずなのに、レイの声が、それすらもゆるやかに溶かしてしまう。


 駅前の喧騒を離れて、レイが「こっち」と指さした細い路地に入ると、空気の温度が一段下がったように感じた。


 人通りの少ない道の先に、ぽつんと灯る赤い提灯。そこが目的のラーメン屋だった。


 レイはというと、ポケットに手を突っ込んだまま、軽やかな足取りで前を歩いている。ときどき振り返っては、「こっちこっち」と俺を急かすように笑って。


「前から気になってたんだよね、この店。友達がおいしいって言っててさ」


「へえ。意外と詳しいな」


「むふふ。グルメ情報は正義なのだ~」


 子どもみたいな声色でそう言って、くるりと振り返るとまた歩き出す。その背中を見ながら、俺も少しだけ口元をゆるめて、あとを追った。


 ラーメン屋の引き戸をくぐると、良い香りがふわりと鼻をくすぐった。

 狭い店内には数席のカウンターとテーブルがいくつか。時間も遅いせいか、客はまばらだった。


 俺たちはカウンター席に腰を下ろし、店員が持ってきた水に手を伸ばす。メニューを一通り眺めたあと、レイが楽しそうに口を開いた。


「俺、チャーシューメンにしよ~っと。シキくんは?」


「普通のラーメンで」


「おけ~」


 笑い合いながら注文を済ませたあと、ふと間が空いた。


 そんなときだった。


「ねぇ、さっきの電話、誰だったの?」


 レイは、あくまで何気ないふりを装って聞いてきた。けれどその声色は、妙に静かで。だから余計に、答えるのが気恥ずかしくなる。


 俺はわざとらしく笑って、グラスの水を一口飲んだ。


「……内緒」


 その返事に、レイは「ふーん」とだけ呟いて、それ以上は何も言わなかった。


 けれど、言葉を飲み込んだまま目を伏せたその横顔は、どこか少しだけ寂しそうにも見えた。


 そのとき、タイミングを見計らったかのように、厨房から「チャーシュー麺とラーメン、前から失礼しまーす!」という声が響いた。


 運ばれてきた丼を目にした瞬間、レイがぱっと顔を上げた。


「おお~来た来た!うわ、チャーシュー厚っ!」


 箸を構えてテンション高めに身を乗り出すレイにつられて、俺も自然と口元が緩んだ。


「お前、それ絶対食いきれねぇだろ」


「いけるんだな、これが!」


「喉詰まらせんなよ~。あとで背中叩かされんの俺だからな」


「それはそれで……よろしくね?」


「はいはい、調子乗るな」


 くだらないやり取りと、立ち上るスープの香り。ついさっきまで胸のどこかに引っかかってた気持ちは、もう湯気の中に紛れていた。


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