第6話

 マンションの前で立ち尽くしていると、夜風に混じってエンジン音が近づいてくる。


 やがて一台の車が止まり、運転席から身を乗り出した姉が、満面の笑みを浮かべて手を振った。


「栞季~!おまたせ!てか、がちで家入れてないのウケんね!」


「ほっとけ」

 

 助手席に乗り込むと、車内にはフレグランスの甘い匂いとほんのりコーヒーの香りが漂っていた。発車すると同時に、姉がこちらを横目で見てくる。


「それにしても、職場に鍵忘れて帰ってくるとかさ。あんた、体調悪いからってぼーっとしてたんじゃないの?」


「別にそんなことない。たまたま。」


 否定したはずなのに、返ってきたのは「ふ~ん、たまたまねぇ~。栞季がそう言うなられそういうことにしておいてあげましょうね~」という軽い声だった。


 まぁ、姉ちゃんの言うとおり、こんなミスをするのは久しぶりだ。十中八九、体調不良のせいだが、素直に認めるのも癪で、拗ねるみたいに口を閉ざす。

 

 視線を窓の外へ逸らし、流れていく街灯の光をぼんやりと追う。

 その間も、姉ちゃんは最近ハマっているアニメやゲームの話や舞台俳優が〜とか色んな話題を次から次へと振ってきて、俺は気の抜けた相槌で返す。

「へぇ」「ふーん」「そうなんだ」――どれも生返事みたいな声。


 けれど、こうして会話を続けていると、実家にいた頃を思い出し懐かしさを感じた。

 この絶妙な距離感はさすが姉弟といったところだろう。姉ちゃんのマシンガントークは変わってなくて少し安心感を覚えた。


 そうして気づけば車はあっという間に、姉が住んでいるというマンションに到着した。


「着いたよ~。ほら、さっさと降りて。車置いてくるから、ちょっとだけここで待ってて」

 

 言われるまま、外に出る。

 夜風が頬を撫で、ふと顔を上げた瞬間――思わず息を呑んだ。


 エントランスは磨き抜かれたガラス張りで、柔らかな照明が夜の空気に浮かび上がっている。床にはもちろんゴミ一つ落ちてないし、植え込みの緑まできっちり手入れされていた。


(これが、姉ちゃんの住んでるとこ?)


 言葉にならない驚きが胸に広がり、己の場違い感に少し落ち着かない。

ガラス越しに覗くロビーは、ソファや観葉植物まで揃っていて、ホテルみたいに整いすぎている。

 自分がここにいるのが不自然で仕方なく、無意識に肩に力が入った。


 頼むから早く戻ってきてくれ。

 そう心の中で繰り返しながら、足はその場に貼りついたみたいに動けなかった。


「なに固まってんの」

 

 背後から声がして、思わず振り返る。姉ちゃんが軽い足取りでこちらへ戻ってきていて、呆れたように口角を上げていた。


「いや、なんか場違い感がすごいなって」


「なんそれ、ほら、行くよ」


 そう言ってエントランスに向かって歩き出す背中を、慌てて追いかけるしかなかった。


「エレベーターこっち」


 そう促されて進むと、金属光沢のある扉が無機質に立っていた。


 乗り込むと、密閉された静けさの中で自分の靴音と心臓の鼓動だけがやけに響く。

 数字がひとつずつ上がっていく表示をぼんやりと眺めながら(ほんとに泊まっていいのか)と、妙な不安が頭をもたげる。


 やがて目的の階に着き、扉が開いた。

 廊下は、壁も床も落ち着いた色合いで統一され、ホテルの客室フロアみたいに小綺麗すぎて落ち着かない。

 

 姉ちゃんが立ち止まったのは、廊下の突き当たりにある一枚のドアの前だった。

 カードキーを取り出し、慣れた動作でセンサーにかざす。

 小さく電子音が鳴り、錠が外れる音が響いた。


「お先にどーぞ!」


 強引な口調にため息をひとつ漏らしながらも、俺は小さく「お邪魔します」と呟いて、扉をくぐった。


「ここが洗面所で……こっちがリビング」


 案内されて足を踏み入れたリビングは、思った以上に広くて整っていた。

 余計なものがなく片付いていて、明るい照明が白い壁に反射している。

 俺の部屋の倍はあるんじゃないかと思うほど広々していた。


「はい、これ」


 差し出されたのはTシャツとスウェット。きっちり畳まれていて、広げると柔軟剤の匂いがほのかに漂った。


「これ姉ちゃんの?」


「おん。栞季は細いから、うちの服でも入るでしょ。風呂入ったらこれに着替えな」


「いや、別に風呂はいいって」


「何?汚いまま眠らせるわけないでしょ。もうタオルは出してあるから。あ!脱いだ服は洗濯機に入れといて~」


 押しの強い声に、反論の言葉は喉でつかえて消えた。仕方なく服を受け取り、ため息をひとつ吐いた。


 視線の端で、姉ちゃんが顎で風呂場の方向を示しているのが見えて、逃げ場がないと悟って背を向けそちらに歩いていく。


 風呂場も案の定広いもので、浴槽はちゃんと足を伸ばせるほど大きいものだった。


 シャワーを浴びたおかげか体の重さが少し和らいだ。シャンプーもボディソープも高そうで使うのが憚られるも、使ってみたいという好奇心が勝ってしまった。


 浴室のドアを開けると、少し冷えた空気が湯気と混じって肌に触れる。

 火照った身体が一気に冷やされ、思わず小さく肩をすくめた。

 

 脱衣所に置かれたタオルへ手を伸ばす。

 さっきはろくに確認もせず浴室に入った為、気づかなかったが男ものの下着までも用意されている。

 黒のトランクスを手に取った瞬間、思わず眉をひそめた。


(これ、まさか姉ちゃんの彼氏のか?)


 普通、自分のの彼氏の下着を弟に穿かすか?なんて考えかけて、すぐに首を振る。


(まあいいか、とりあえず履いとこう)


 足を通すと、冷えた布が火照った肌に張りつく。そのまま服もありがたく借り、タオルで髪を拭きながらリビングへ戻った。


 ソファに腰かけていた姉が顔を上げる。


「おつかれ~。どう?少しは楽になった?」


「まあ、多少は」


 差し出された冷たいお茶を受け取りつつ、しばし迷った末、思い切って口を開く。


「……なあ、このパンツ。彼氏さんのやつ?勝手に使っていいの?」


 一瞬きょとんとした姉は、すぐににんまりと笑って親指を立ててキメ顔をしてくる。


「もちろん!もう彼氏じゃないやつが忘れてったやつだし!非常用に置いてあるだけ」


「元カレのって……そんなもん置いとくなよ、普通捨てるだろ、」


 呆れ混じりに返すと、姉はケラケラ笑いながら肩を揺らした。


「いいじゃん。今こうして役立ってるんだから」

 

 俺はため息をつきつつ、お茶を口に含む。冷たさが火照った体に心地よかった。ふぅと息をついていると、「はい」とふいに差し出されたのはドライヤーだった。


「髪の毛乾かしてきな。濡れたまま寝たらまた体調崩すよ」


 押しの強い声に反論する気も失せ、素直にドライヤーを受け取る。


「はいはい、わかりましたよ」


 小さくぼやいた俺の背に、すかさず姉の声が飛んできた。


「ドライヤー、そのままそっち置いといてー!」


「あいよー」


 半ば聞き流すように返事をして、視線を逸らす。

 背中を押されるみたいに、そのまま洗面所へ足を向けた。


 鏡の前に立ち、スイッチを入れると、低いモーター音とともに温風が髪を揺らす。

 タオルで拭いただけの髪が次第に乾いていくのを感じながら、ふと鏡に映る自分と目が合った。


 風呂上がりで少し赤みを帯びた頬、そして少しどこか眠たげな目。

 体調不良のせいもあるが――なんだか普段より頼りなく見えた。


 そのまま欠伸をかみ殺し、髪が乾いたのを確認してドライヤーの電源を落とす。


「じゃ、私はお風呂入ってくるから。栞季はそこでくつろいでて~」


 軽い調子でそう言い残し、バスルームへ消えていく姉を目で追いながら軽く返事をする。

 扉が完全に閉まったのを確認して、俺はソファに腰を沈めた。


(そういえば、スマホどこやったっけ)


 ふと不安になって辺りを見回すと、サイドテーブルの上で充電ケーブルにつながれているのが目に入った。


(さすが姉ちゃん)


 小さく吐息をもらし、膝を抱えたまま横に倒れた。気が抜けた途端、まぶたがずしりと重くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る