第7話
「シキー!起きてー朝だよー」
呼ばれる声にうっすら意識が浮かび、重たいまぶたを持ち上げる。
視界の先に立っていたのは、ジャケットを羽織った“見知らぬ青年”の姿だった。
(……誰?)
寝起きの頭では一瞬理解が追いつかなかったが、仕草や声をよく聞くとようやく誰かわかった。
「あぁ……姉ちゃんか」
男装している姿を見るのは初めてじゃないはずなのに、やっぱり見慣れなくて妙に間抜けな声になった。
「お、よくわかったね~……ってまた寝ようとしてる!起きろ!朝だってば!」
肩を揺すぶられて、渋々まぶたをこじ開ける。
ソファに沈み込んだ体を引きずるように起き上がると、姉は満足げに頷いた。
「よし、そのまま顔洗ってきな。ついでに歯磨きもね。朝ごはん作っとくから」
「……作るって、姉ちゃんが?」
「そう。文句ある?」
男装姿のままキッチンへ向かっていく背中は、妙に頼もしい。まるで兄だ。
けれど、漂ってくるエプロンのひもを結ぶ仕草はやっぱり姉で、思わず苦笑が漏れた。
洗面所で顔を洗い、歯を磨いてリビングへ戻ると、すでにキッチンから包丁の小気味よい音が響いていた。
同時に、じゅうっと油がはねる音とともに香ばしい匂いが漂ってくる。
(……ほんとに作ってる)
エプロン姿でフライパンを振る姉の背中は、男装と相まって妙にサマになっていた。まるで料理上手な兄貴を見ているような気分になる。
けれどエプロンのリボンを揺らして鼻歌を口ずさんでるところをみると、ちゃんと姉ちゃんなんだなと安心する。
自然と口の端がゆるみ、空っぽの胃袋が小さく鳴った。
「何作ってんの?」
「ん~?サンドイッチとスムージー」
フライパンから取り出されたふわふわの卵が、トーストしたパンにのせられていく。
その上にスライスしたトマトとシャキシャキのレタスが重なり、カラフルな層を作っていった。
マヨネーズの香りと野菜の瑞々しさが混じり合って、思わず唾を飲み込む。
姉は手際よくサンドイッチを切り分けると、ガラスのグラスに注がれたスムージーと一緒にテーブルへ運んでくる。
グラスの中のバナナとヨーグルトの甘い香りがふわりと漂い、部屋の空気が一気に朝らしくなる。
「はい、できたよ~」
目の前に並んだ皿には、断面から黄色と赤と緑がのぞくサンドイッチ。
その彩りの鮮やかさに、空腹を通り越して少し感動すら覚えた。
「すご、カフェのモーニングみたい」
「でしょ?うちの腕、なめないでよ」
得意げに胸を張る姉を見て、思わず苦笑する。
サンドイッチを手に取り、かぶりつく。ふわふわの卵にトマトの酸味、レタスの食感が重なって、思わず目を細めた。
「……うま」
「でしょ~?」
得意げに笑う姉を横目に、つい口が動いた。
「姉ちゃんって、いつも朝ごはんちゃんと作ってんの?」
姉はスムージーを飲みながら首を振る。
「いーや?いつもはスムージーだけ~。今日は久々に弟と朝ごはんだから、ちょっと張り切ってみた!」
「……ふーん、そっか」
照れ隠しのように素っ気なく返すと、姉はにやにや笑いを浮かべながらサンドイッチを頬張った。
ひと呼吸置いて、思い出したように声をかけてくる。
「で、今日お店に鍵取りに行くんでしょ? 私も行くから、それ終わったら買い物付き合ってよ!」
「なるほど」
ようやく合点がいった。朝から男装していた理由はそれか、と。
「栞季くん的には、チャラ系ホストか正統派王子様系ホストかどっちが良いと思う?」
今ならウィッグ変えられるからさ!金髪チャラい系か黒髪王子様か悩んでるんだよねぇ~とスムージーを飲む姉に、なぜホスト限定……?と思いつつ、脳裏にはなぜかキラキラと光るシャンデリアの下でポーズを決める姉の姿が浮かぶ。
金髪でにやけたチャラ男風か、黒髪で気取った王子様風か。どっちも似合いそうなのがまた腹立つ。
「……王子様系で」
「さすが、わかってるじゃん! 伊達にうちの弟やってないねぇ~」
姉のドヤ顔に、思わず視線を逸らす。
昔からオタクだった姉はコスプレにハマっていた時期があり、そこで男装にも興味を持ち始めたようだ。
女性にしては少し高めの身長のせいでシークレットシューズを履かれると俺の身長を越してしまう。だから、できれば隣に並びたくはない。男の尊厳がなくなってしまうからな、
しかも姉は、なぜか仕事先に顔を出すときは必ず男装だ。姉曰く「お嬢様たちから嫉妬されないため」だが、真相はわからない。姉は可愛い女の子も大好きだからチヤホヤされたいんだろうと俺は思っている。
そして一番納得がいかないのは、姉ちゃんは身内の贔屓目かもしれないが、整った顔立ちをしている。
だから男装して俺と街を歩いていても、女の子から声をかけられるのは決まって姉の方だ。
……心底許せない。
小さくため息を吐き、残っていた最後のサンドイッチを頬張る。
卵の甘さとレタスのしゃきしゃきした食感が、妙に悔しさを誤魔化すみたいで腹立たしい。
視線を上げると、姉はすでに席を立ち、大きな姿見の前で髪や服の乱れをチェックしていた。
鏡越しに目が合った瞬間、何かを思い出したようにいそいそと部屋に引っ込み、数分後、両手に何かを抱えて戻ってきた。
「栞季の服まだ乾いてないから、今日はこれを着ようね」
不敵な笑みとともに差し出されたものをみて、俺はピクリと口角を引きつるのを感じた。
返事をする間もなく、姉は勝手に段取りを進める。
その勢いに押されるように身支度を整え、気づけばもう玄関へと立たされていた。
こうして俺と姉は並んで外に出て、鍵を取り戻すために再び職場へ向かうことになった。
ほんとに、この格好で大丈夫なのか?
胸の奥に重たい不安を抱えたまま、乗り込んだ車はあっという間に目的地へと到着した。
車から降り、窓に反射した着慣れない服を纏った自分を見て思わずぼそっと口にする。
「姉ちゃん……これ、やっぱり似合ってない気がするんだけど」
すぐ隣でロックを閉めた姉が、ぱっと笑顔を向けてきた。
「ばっちり似合ってるよ!」
軽い調子で断言する声に、全然安心はできない。むしろその言葉が逆に不安を煽ってくる気さえする。
ちらりと横目で見上げると、案の定だった。
黒ジャケットに身を包んだ姉は、シークレットシューズのおかげか俺より少し目線が高い。
背筋をすっと伸ばし歩くその姿は“王子様系ホスト”そのもので、俺が女だったら惚れてしまいそうなほど綺麗な横顔だ。
俺が見つめているのことがわかったのか、こちらに笑みを浮かべてくる。
ぐっ……悔しい。同じ血が通っているはずなのに、自分では絶対に出せないこの色気。思わず嫉妬しそうになり、せめてもの抵抗にジト目で「こっちを見ないでください」と無言の視線を返す。
もうすぐ店舗に着くというところで、ピタッと足を止めた姉にどうしたの?と声をかけると体ごとこちらに向けて顔を近づけてくる。
「栞季くん、リップ塗ろっか」
唐突に差し出された色付きリップ。
「唇の血色なさすぎよ、貴方~」と悪びれもなく笑いながら、ぐいっと俺の顎を持ち上げて塗りつけてくる。
「ほら、こっちの方が綺麗じゃない?」
差し出された小さな鏡に映る自分の顔。
そこには赤いリップを引かれた俺の姿があった。白い肌に浮かぶ赤が、思った以上に目立って――どこか艶っぽく見える。
言葉が出ずに固まる俺に、姉はさらに満足げに頷いた。
「白には黒と赤が一番映えるの。栞季は色白だから。……うん、とてもエッチ!」
「ねぇ、その表現なんか嫌、やめて」
顔を背ける俺を見て、姉はくすくすと笑いながら懐から小瓶を取り出した。
そして躊躇いもなく、俺の首元にシュッと振りかけてくる。
ふわりと甘い香りが広がり、鼻腔をくすぐる。
「これお気に入りなんだ~。せっかくだしお揃いにしよ」
見た目だけは完璧なイケメンの姉に言われ、思わず唾を飲んでしまう。
そんな俺を傍目に姉は数歩下がると、両手の指で四角いフレームを作り、片目を閉じる。
舞台監督さながらに俺の姿をじろじろと眺め、満足げに口角を上げた。
「うんうん、これでよし!」
ぱん、と手を叩く仕草までついてきて、俺は思わず深いため息を吐いた。
「完璧すぎるビジュだよ!さすが栞季~」
得意げな笑みを浮かべる姉を見て、返す言葉もなく視線を逸らす。
その時、姉がふと「あっ」と声を漏らした。
「……ん?」
「アキトくんに渡す書類、車に置いてきちゃった」
額に手を当てて、苦笑いを浮かべる。
「やっちゃったなぁ」とでも言いたげな表情で俺を見やると、すぐに切り替えたように指をひらひらと振ってきた。
「ごめん、栞季。ちょっと取りに戻るから、あんた先に入ってて」
「えっ、俺一人で?」
「平気平気。どうせ店の中は顔見知りばっかりでしょ?」
わざとらしくウインクを飛ばしてくる。
軽口を叩く姉に返す言葉も見つからず、俺はただ深いため息を吐き、覚悟を決めて扉を押し開けた。
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