外伝①『完成品 百八番』


 午前四時〇〇分〇〇秒。

起床ラッパが鳴り響く、その百万分の一秒前。『生徒番号108』の意識は、設定された通りに覚醒した。ラッパは単なる確認信号に過ぎない。彼の体内時計は、学園の基準時計と寸分の狂いなく同期している【第124条】。

身体が自動的に最適な動作を実行する。起床【第61条】。寝具を完璧な直方体に成形【第62条】。国防色の制服を装着【第31条、第38条】。彼の身体にシワや汚れという概念は存在しない。それは皮膚の一部であり、精神の表層だからだ。鏡に映る頭頂部から3mmの頭髪【第32条】、白い部分の一切ない爪【第33条】、そして入学時から±0kgを維持する身体【第34条】を確認し、彼は部屋を出る。

廊下は『第四種匍匐』にて、毎秒50cmの速度を維持して移動する【第12条】。他の生徒たちの僅かな速度の揺らぎ、呼吸の乱れが、彼にはノイズとして認識される。なぜ彼らは最適化された動作を維持できないのか。理解不能なバグだ。

授業中、彼の身体は完璧な彫像と化す。背骨は床に対し垂直【第24条】。視線は常に正面15度上方の未来を捉え【第18条】、まばたきは正確に20秒に一度【第17条】。呼吸は吸気4秒・閉塞8秒・呼気6秒の統制呼吸法【第16条】を寸分違わず実践し、脳への酸素供給量を最適化する。教官が発する情報は、彼の脳という名の記録媒体に直接書き込まれ、忘却はあり得ない【第49条】。質問は教官の指導を妨げる非効率な行為であり【第44条】、知的好奇心は精神的脱走に他ならない【第50条】。彼は、与えられた情報のみを、与えられた通りに受け入れる。それが彼の機能だからだ。

昼食は固形レーション。彼はこれを『食事』として認識しない。『エネルギー補給』だ。左右の顎で均等に30回ずつ咀嚼し【第63条】、規定の時間内に嚥下を完了する。味覚は単なる化学反応の認識に過ぎず、分析や評価は思考の無駄である【第114条】。

あの日、転校生『生徒番号441』が引き起こした革命の日でさえ、彼は揺らがなかった。

校内に突如として流れ始めた音楽という名の高周波ノイズ。彼の聴覚選択機能は、それを学習の妨げになる不要な環境音として即座に遮断した【第112条】。周囲の生徒たちが動揺し、システムにエラーが頻発する中、彼だけがただ一人、規定通りの学習プログラムを継続していた。他の生徒たちのパニック、解放を喜ぶ涙、それらは全て、彼の論理回路においては理解不能なエラーコードの羅列に過ぎなかった。彼にとっての『秩序』とは、校則そのものであり、それ以外は全てカオス、すなわちバグの集合体だった。

卒業の日。いや、学園が閉鎖される日、彼は初めて『混乱』という状態に近いものを経験した。彼のオペレーティングシステムであった校則が、その絶対性を失ったのだ。それは、物理法則が突然消滅するようなものだった。

他の元生徒たちが、ぎこちない笑顔や涙で解放を分かち合う中【第92条・第93条違反】、彼は一人、その場に立ち尽くしていた。これから、何を基準に思考し、行動すればいいのか。指針を失った彼は、機能停止した機械だった。

社会に放出された彼は、異物だった。

人々の歩行は歩幅も速度もバラバラで非効率極まりない。会話には無駄な比喩や冗談が多く【第53条違反】、感情の起伏が激しく、論理的な思考を阻害している。恋愛【第77条】、友情【第78条】、共感【第79条】。全てが、彼が学園で除去されるべきバグとして学習したものであり、社会はそれらのバグで満ち溢れていた。

彼は大学にも企業にも適応できなかった。それらの組織は、あまりにも非論理的で、非効率的な『人間』という要素に依存しすぎていた。彼は、自らが機能するための新たな『校則』を必要としていた。

そして、彼は見つけたのだ。唯一、彼の能力が完璧に適合する世界を。

それは、人間の感情、すなわち『欲望』と『恐怖』という二つの巨大なバグが渦巻く、金融市場だった。

数年後。

東京の超高層ビルの一室。壁一面が数十台のモニターで埋め尽くされ、無数の数字とグラフが滝のように流れ落ちている。部屋に生活感はない。ベッドすらない。床には最適化された栄養素を含むジェルのパックが箱で積まれ、壁際には仮眠用のポッドが一つあるだけだ。

その中央に座る男こそ、かつての『生徒番号108』だった。

彼は世界有数のデイトレーダーとして、あるいは市場そのものを動かす謎のAI『ユニット108』として、畏怖の対象となっていた。

彼の瞳には、もはや外界の景色は映らない。ただ、高速で変動する市場のデータだけが、光の粒子となって網膜に焼き付いている。彼の脳は、人間の感情が引き起こす市場の歪みを瞬時に検知し、完璧なタイミングで数千億の金を動かす。彼は決して熱狂しない。絶望もしない。それは、彼のプログラムが導き出した最適解を、ただ実行しているに過ぎない。

食事は、一日に必要な栄養素を秒単位で計算されたジェルを摂取するだけ。睡眠は、脳のパフォーマンスを最大化するための90分周期の仮眠を日に数回。彼の生活は、私立・大日本規律学園のそれと、本質的に何も変わっていなかった。彼は自らのために、より厳格で、より効率的な、たった一人のための『校則』を構築し、それを完璧に遵守して生きているのだ。

彼は、窓の外に広がる東京の夜景に目を向けた。無数の光が、まるで生命のように瞬いている。人々が笑い、泣き、愛し合う、非効率で矛盾に満ちた世界。

彼の顔は、あの頃と変わらない『標準無表情』【第19条】のまま、その光の海を見下ろしていた。

あの狂気の学園が目指した、国家の礎たる純粋な鋼鉄。

その唯一にして完璧な完成品は、今この瞬間も、誰にも理解されることなく、ただ一人、世界の頂点で静かに稼働し続けている。

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