第六条『夜明けのソナタ』

 「君は、最高の実験体(モルモット)だったわ」

ナナミの言葉は、冷たい刃となって俺の心を抉った。俺の反逆も、響子の苦悩も、全てはガラスの向こうから観察されるデータに過ぎなかった。この鋼鉄の檻の中で、俺たちはただ、踊らされていただけなのだ。

「さて、素晴らしいデータが取れた。感謝するよ」

理事長、号令寺巌は満足そうにリモコンのボタンを押した。壁のモニターの表示が、『MEMORY FORMATTING INITIATED』に切り替わる。無慈悲なカウントダウンが始まった。全てが、無に帰す。

響子が絶望に膝を突き、嗚咽を漏らす。もう、終わりだ。

その時だった。

「――お爺様。観測者として、最終報告を」

静かな、しかし凛とした声で、ナナミが言った。彼女は理事長の手からリモコンを奪い取ると、カウントダウンを停止させた。

「何をする、ナナミ」

「イレギュラーなデータが検出されました。予測不能なバグです」

ナナミは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。

「私の、この心臓です」

彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは、響子の悲しみの涙とは違う。静かで、透き通った雫だった。

「姉さんの涙を見た時、私の生体データに異常な反応が起きました。平和島君が絶望する顔を見て、胸に痛みを感じました。これらは全て、排除すべき非論理的なノイズのはず。ですが…」

ナナミは、俺と響子に向き直った。

「私は、このノイズを、とても『大切』なものだと感じてしまったのです」

彼女は、俺たちを裏切ってはいなかった。彼女自身もまた、この実験の観測者であると同時に、最も予期せぬ変化を遂げた被験者だったのだ。

「実験は失敗です、お爺様」

ナナミはコンソールに向き直ると、凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。彼女が本当に戦っていた相手は、俺たちではなく、祖父の歪んだ理想そのものだったのだ。

「あなたが最も排除しようとした『人間性』というバグは、どんな完璧なプログラムよりも強く、そして、伝染する」

彼女がエンターキーを叩いた瞬間、学園のシステムが完全に掌握された。

まず、全ての監視カメラが機能を停止。校内の全スピーカーから、零が愛したピアノソナタが再び、しかし今度は穏やかな音色で流れ始める。

そして、学園を外界から隔絶していた重厚なゲートが、ゆっくりと開き始めた。

「馬鹿な…! 私の『秩序』が…!」

理事長が叫ぶ。だが、ナナミの反逆はそれだけでは終わらなかった。

「私が最後に学ぶ感情は、あなたへの『反抗』です」

彼女は、この学園で行われてきた非人道的な実験の記録、零の『再処理』のデータ、その全てを暗号化された回線に乗せて、外部の報道機関と警察組織へ一斉に送信した。もう、後戻りはできない。

理事長は、モニターに表示される『データ送信完了』の文字を見て、がっくりと項垂れた。

「私の完璧な調和が…こんなにも脆い、感情というノイズに…」

彼はそれきり、動かなくなった。狂信的な理想家は、自らが作り上げた鋼鉄の檻の中で、その夢の終わりを迎えたのだ。

開かれたゲートの向こうから、夜明けの光が差し込んでくる。

それは、国防色でも、黒でも、白でもない、見たこともないほど鮮やかで、暖かい光だった。

生徒たちが、恐る恐る寮や教室から出てくる。彼らは光に目を細め、ピアノの音に耳を澄ませ、そして、初めて自分の足で、土の地面を踏みしめた。

ある者は泣き崩れ、ある者は空を仰ぎ、またある者は、隣に立つ名も知らぬ生徒と、ぎこちなく、初めての言葉を交わしていた。

数ヶ月後。

私立・大日本規律学園は、世間を揺るがす大スキャンダルを経て、完全に閉鎖された。

ありふれた公立高校の、昼休み。

屋上で弁当を広げているのは、少しだけ髪が伸び、見慣れない制服を着た俺と、響子、そしてナナミの三人だ。

「まさか、同じ高校に編入することになるとはな」

俺が卵焼きを頬張りながら言うと、響子がふっと微笑んだ。彼女の表情はまだ少し硬いが、氷のような冷たさはもうどこにもない。

「仕方がないでしょう。私たちが、あの学園の最重要参考人なのだから」

「参考人、というか共犯者だけどな」

俺の軽口に、ナナミが不思議そうに首を傾げた。

「ユーモア? 校則第53条に違反する」

「もう校則なんてないんだよ」

俺たちが笑うと、ナナミは感情を学ぶかのように、じっと俺たちの顔を見つめ、そして、ほんの少しだけ口角を上げた。

チャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げる。

立ち上がった俺たちを、眼下に広がる街の喧騒が包み込む。そこには、数えきれないほどの個性が、感情が、不協和音のように、しかし力強く鳴り響いていた。

それは、かつての学園が否定し続けた、不完全で、非効率で、どうしようもなく愛おしい、『日常』という名のソナタだった。

俺たちは、もう振り返らない。

それぞれの歩幅で、光の中を歩き始めた。

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