第24話 驚愕のSSD その2
オープニングラップから3時間が経過。
フランスに於いても日常が本格的に始まる時間帯となる朝7時。この間も、SSDは全く崩れることなくトップを独走。しかも、ラップタイムは何と150マイル (240㎞/h)を悠に超えていた。
当初、最も懸念されたのは、四人のドライバーがいずれも海外レースは初めてのみならず、いきなり24時間を走ることにあったのだが、問題はないようだ。
それにしても予想外のハイペースであり、このままだと一周13.6㎞のコースを390周以上、走行距離にして5700㎞を超える計算であり、その後安全性向上のための改修を繰り返しているのもあるとはいえ、21世紀現在も届かない水準である。
間もなくピットで交代が迫りつつあり、ピットには既に福沢、漆原の二人が待機していた。にしても、当時のピットにはピットウォールがなく、マシンが飛び込んでくる可能性があったのだが、敢えてこの方式だったのには、ある大惨事が関係している。
それが1955年のルマンであり、ピットインしようとしていたジャガーを避けようとしたベンツが別のマシンに接触しピットウォールに衝突。それがジャンプ台となって観客席に飛び込み、ドライバーは即死、更に200人以上の死者を出し、600人以上が負傷する未曾有の大惨事となった。
この時もレースは続行されたのだが、これには理由がある。直ちに中止にすると、観客が大混乱を起こし、更なる大惨事を引き起こす恐れがあったのだ。
そもそもレース中の事故は事件として扱われるため、警察案件なのだが、関係者が全員取調を受けたのは当然で、レース中の間ベンツワークスは散在しているパーツを大急ぎで回収し撤収。フランス警察が国境を封鎖した時には既に国境を越えた後だったことが後に物議を醸したものの、監督のノイバウア以下関係者は事情聴取に応じており、あれは機密保持のため仕方なかったの一点張りであり、レース中のアクシデントとして避けようがなかったと、誰の非も問えないと主張している。
実際、他の関係者からの証言でも、誰の非も問えないことが判明するのだが、このレースが落した影は大きく、ベンツはその後長い間ワークスとしてレースに出ることはなく、スイスに至ってはモータースポーツ開催が一部を除いて禁止となり、加えて独仏間の外交問題にまで発展した。
当時、ドイツは敗戦国であったため、欧州に於いて一層肩身が狭くなることに。
また、その後も57年のミレミリアでは、フェラーリがキャッツアイを踏んだばかりに恐らくは250㎞/hに達していたであろうスピードでコントロールを失い沿道の観客を多数巻添えにし、伝統ある公道レースが次々と廃止に追い込まれるなど、50年代はモータースポーツにとって、根本的な変革を迫られた時代と言えよう。
因みにこれ以降、イタリアの道路でキャッツアイの使用は禁止となった。なので、イタリアの夜の山道は恐い。
尚、21世紀に入って、改めてシミュレートして明らかとなったこととして、もしもコンクリートウォールがあと20㎝後方にあった場合、死者は1000人を超えていただろうという。
その場合、モータースポーツの歴史そのものが終わっていたかもしれない。亡くなられた方や遺族には不謹慎を承知で言うなら、あれでもまだ幸運な方だったのだ。
そして、最大の皮肉は、図らずも事故の原因を作り出したそのジャガーが優勝したことであった。しかし、その時の勝者であり、後にイギリス人初のF1ワールドチャンピオンとなるマイク・ホーソーンも、引退翌年の59年に事故死することになるのだが、一部ではその時の怨霊が原因ではないかと言われる程に、物議を醸したレースだったのである。
しかし、あの事故に最も心を痛めていたのは当人であった。
尚、彼がチャンピオンとなった翌年引退したのは、持病の腎臓病悪化のためであり、もしかしたら、事故死の原因もそれである可能性は否定できない。
どのみち、あの事故がなかったとしても余命は長くなかったと言われていたのだが。それで亡くなった場合でも、同じ誹りを受けた可能性は高い。
あの大惨事は、彼の人生に消しようのない大きな影を落とした訳で、不運にも程があるとしか言いようがない。
話を戻そう。
コンクリートウォールのないピットで、危険と隣り合わせの中交代し、燃料補給とタイヤ交換を済ませると、頃合いを見計らってピットアウトしていく。
SSDのマシンの燃料タンクは120ℓ程度しかなく、1800㏄とはいえ3時間も走ればタンクが空になるのは避けられない。
しかし、3時間毎の交代は不可避であるため、最初からそれを前提として設計していたのだが。
また、WMEでは一回のピットインにつき、3分以上停車が義務となっていたので、ピットの様子はのんびりしたもの。だが、これが図らずもピットの安全性確保にも寄与していた。
それにしても、当時のピット規則は本当に緩い、というよりも無いに等しく、狭いピットロードを全速で駆け抜けていくのも当たり前だった。
ピットに於いても様々な規制が入るようになった最大の理由は、それまでピット戦略なんてものは耐久以外存在せず、83年にF1でブラバムが持ち込んだことが切っ掛けでピット戦略が有効と分かると挙って取り入れるようになり、ピットが混雑するようになったことである。
要はそれまで安全面を考慮する必要性がなかったのだ。
SSDのピットインが切っ掛けの如く、トップグループのマシンが次々とピットインしていく。フェラーリのピットワークは、まるで一つの生き物の如く見事だ。
タイヤ交換の間、他のメカニックがマシンを隈なく調べている。異常はなさそうで、係員が3分経ったところでロリポップを赤から青に翻すと、そそくさと復帰していく。
「さすがに世界はピットワークも見事だな」
しかし、フェラーリは事実上トップを走っているにも関わらず、まるで前にいるマシンを追うような動きであった。無理もない、遥か前に信じられないようなスピードで走っているマシンがいるのだ。
シングルシーターの上、リバーストライクスタイル (一応後ろは二輪だが、実質そうなる)と、これまでの常識を覆すマシンであり、到底ここに出てくるのは認められないシロモノなのだが、その高性能振りは際立っていた。
まさに怪物である。
フェラーリの関係者は、しばしばSSDのピットを睨んでおり、不快さを隠そうともしない。
その間もリードは拡がる一方であり、且つ破綻の兆候すら見えないまま、レースは12時間を過ぎ、やがて日が降り始めていく……
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