第22話 河野洋平という漢 その2

  一行は、ル・マンの地で観光を大いに堪能した後、いよいよ現地入りした。


「さすがにスゴイ熱気だなあ」

 初夏とはいえ、まるでサウナにいるかのような熱気には、耕平も圧倒されていた。公開車検からしてコレであり、聞きしに勝る光景とは、まさにこのことであろうと思った。


 次々と登場するマシンに、観客も一喜一憂している。


 当時、WMEにエントリーするのは、大まかに言って生産台数35台以上のプロトタイプ。言わば純粋なレース仕様はこれだと思っていいだろう。 主要メーカーが最も力を入れており、二座席であればオープンだろうがクローズドだろうが問わない。排気量に関しても当時は緩やかで、最低規定重量が450㎏と定められていた以外、事実上何でもアリと言ってもいい。

 何でこんなことが可能だったのかと言えば、耐久はゴールまで何が起こるか分からないのと、走る実験室としての性格を最も帯びているが故、技術的アプローチは最大限認める必要があるという建前のためであった。

 様々な規定が入って来るようになるのは、大方80年代に入ってからのことだ。

 尚、出雲が出走を予定していたのもこのクラスだ。


 次いで、スポーツカークラスであり、エントリーの大半を占めていたのと、メーカーにとっては実はプロトタイプ以上に力が入っている。それもそうだろう。市販車がベースなのだから。

 このクラスは排気量別にざっと3クラスに分かれていた。2000㏄以下、2000~3000㏄、3000㏄以上である。後には5000㏄以上のスポーツカーの参戦も増えるに及んで、4クラスに分かれることに。

 また、排気量別に生産台数が異なっているものの、概ね年間500台以上が目安となる。

 総合優勝ではなくクラス優勝という表現が一般的であるが、日本以外では寧ろこっちの方が盛り上がる傾向にある。


「どのマシンも素晴らしい限りだなあ」

 と、耕平は見惚れていたが、内心考えていることは全く違う。どのマシンも空力的に宜しくないと感じていたのだ。見惚れるとはまた別である。


 そんな中、取り分けフラッシュを浴びる注目の一台。

「やはり来たか」

 それは、SSDのマシンであった。見た目は三輪であったが、途中で後輪はダブルタイヤのように接近して装着する構造に変更しており、これはピットでのタイヤ交換に対処したものであることは明らかだった。

 かのイセッタを彷彿とさせる後輪構造で、デフは備えていない。

 そしてこのマシン、ワイルドカード枠での出場であるため、結果はつかない。そしてドライバーも注目であった。

 二台エントリーしていたのが、一台は福沢幸雄、浮谷東次郎。もう一台は生沢徹、漆原徳光であった。既にWMGPで前例はあったとはいえ、四輪の世界に日本人がエントリーするのは容易なことではなかった。

 その意味では奇跡とも言えよう。

 この四人、後に日本のモータースポーツを様々な形でリードする存在となる。


「それにしても、よくエントリーが認められたなあ。SSDは実績があるからまだしも、ドライバーまでもが日本人とはなあ……」

 因みに、日本人ドライバーが国際格式のレースに出場するのは、大倉喜七がブルックランズを走って以来、実に半世紀ぶりのことである。

 耕平にとっては、いくらワイルドカードとはいえ、奇跡の光景に他ならない。 


「それを可能とするため、父が随分骨を折りましてね」

 突然耕平の背後から声を掛けてきたので、振り向くとそこには快活な青年。しかも日本人。だが、耕平には見覚えがあった。

「ま、まさか、洋平くんではないかね!?」

「ええ。私が大学に入学して以来ですか」

 そう、河野洋平である。彼は、父一郎に替わり、ルマン24時間の視察に来たのであった。無論、事前に出雲の一行がルマンを視察に行っていたことも知っていた。


 実は、耕平もまた政界との関連は深い。決して政商ではなかったが、農業は国を支える基盤産業であり、それに関わる企業が政界と無関係でいられる筈がなかった。

 洋平の父、一郎とは親の代からの付き合いであり、強烈な個性で知られた一郎と腹を割って話し合える数少ない一人が耕平であった。

 洋平と会ったのは、彼が生まれたばかりの時であり、耕平はその時まだ大学進学目前だった。


 それから24年。この間様々な波乱があったが、今では立派な青年に成長したように見えた。

「見ない内に変わったなあ。男子三日会わざれば刮目せよとは、よく言ったものだよ」

 つい世間話に華を咲かせる二人であったが、話題は次第に核心へと移っていく。

「やはり、SSDのルマン参戦には、キミの父の尽力があったようだね?」

「勿論。父を無視できる人間なんて、この世には存在しませんから」

 と、随分自信ありげな物言いをする洋平。だが、そこには傲慢というより、戦後の日本人が失った矜持があった。

「しかし、東奔西走しているのは洋平くんもなんだろう?」

「そんな、私は父程ではないですよ。FIAにちょっと掛け合ってきまして……」

 洋平は控えめであったが、言葉を詰まらせた辺りに、かなりの大仕事をしてきたのだろうと耕平は読んでいた。

「勿体ぶらずに言いなさい。大したことないなら聞いてあげよう」

 そう言われ、これを今言っていいのかと洋平は躊躇いながらも旧知の仲なので、控えめに言葉を継いだ。


「実は、今年の11月、WMEにもう一戦加わることが決まりまして、最終戦が我が日本の富士スピードウェイに決まったんですよ」

 もしもこの時、お茶でも飲んでいたら、間違いなく噴き出すレベルである。無論、耕平もさすがにこの決定には驚かざるをえなかった。


「な、な、何だと!?ルマンも組み込まれているこの権威あるレースが日本で!?」

「そうなんですよ。まだ完成ではなかったのですが、こけら落としをした甲斐がありましたね」

 控えめながらも、そこにはやったぜと言わんばかりの自信が覗いていた。実際、骨折りの大半は一郎であったが、コースが完成したばかりの中でレースイベントを企画したのは洋平である。

 洋平も大学での顔は広く、当人は陸上競技にのめり込んでいたものの、その過程で得た知己には、サークルレベルとはいえ、モータースポーツに関わっていた者も多かった。

 そのコネを最大限に活用し、イベントを企画したのである。確かに内容はお粗末であった。しかし、洋平の思惑は別の所にあった。


 要は、関係者にコースを見てもらうことにあったのだ。コースを見れば、さすがに納得するだろうと。この場合、実際にレースをしている様子を見せることが肝要であったため、サークルレベルのお粗末な内容でも問題なかった。

 余談ながら、実はこのレースが意外と面子を重んじがちな通産省の顰蹙を買うハメにもなるのだが。何しろ初代クラウンの輸出が惨憺たる結果に終わったため、輸出許可を出した通産省は大恥をかいたことを、未だに忘れてなかったのだ。


 実は、日本の二輪メーカーの世界への参戦についても大いに渋った経歴があり、クラウンがトラウマになっていたであろうことは想像に難くない。

 そして、通産省としては、日本の自動車業界発展には大いに賛成であったものの、それならきちんと体裁を整えてからにすべきだろうというのが彼の主張であった。

 そうかんがえるのは、中央省庁としては当然であろう。ヘタをすると、何が自国の立場を危うくするか分からないのだから。


 だが、河野父子は違った。とにかく、一刻も早く世界を日本へ認識させることが重要だと考えていたのである。体裁云々を待ってくれるほど世界は甘くはないのだと。

 それにしても、これ程の大仕事を24歳の身でやってのけるのだから、恐ろしい限りである。


 そして、驚いた次にはもう冷静になっている耕平がいた。

「成程。つまり、我々に逸早くマシンを完成させ、且つチーム体制を整えろというのが一郎さんのメッセージだと受け取ってもいいのかね?」

 洋平は無言で首を縦に振った。


 渦海と風也たちが夢中になっている間、二人の間で交わされる大人の会話。だが、この時歴史が動き始めていたことを、誰も知ることはなかった。


 それにしても、河野洋平。恐るべき漢である……

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