クトゥルフ短編集05 閉架書庫で【肉の魔導書】を拾った男の話~好奇心は死の誘い~
NOFKI&NOFU
第1話 閉架書庫の奇妙な肌触り
閉架書庫の空気は、いつも澱んでいる。カビと古紙の臭い――いや、微かに鉄錆のような生臭い匂いが奥歯にまとわりつく。まるで、生き物の肺の中にいるみたいだ。
俺、中野ユウタは、この場所で誰にも顧みられない厄介事、古い資料の整理を押し付けられている。要するに、厄介事の押し付けだ。
「あーあ、またこれか。明治時代の広報誌なんて、誰も読むわけないっての」
この部屋自体が息をひそめているみたいだ。こんな場所で正気が保てるか?
一番奥の、高さ三メートルもあるスチール棚。その最下段の、誰も見向きもしないはずの隙間に、それはあった。他の資料とは明らかに異質な、まるでスチール棚から生えてきたかのような、黒い異物。
「なんだ、これ……本? いや、違う、手記か?」
震える指先で、それを引き抜く。
表紙は黒ずんだ革――いや、生皮だ。不気味な形に鞣された「何か」の皮膚を思わせる、ざらつきと湿り気を帯びた手触り。思わず指を滑らせると、皮膚の下に血管が脈打っているような、寒気を感じる錯覚に襲われた。
装飾の煤けた金属は、ただの金具ではない。複雑にねじれ、どこか蠕動する触手のような、グロテスクな紋様を描いている。まるで、図書館の闇の中でひっそりと育った、生命を持った「肉の資料」だ。
「触りたくねぇな……本当に。こんなもの、分類する必要なんてないだろ」
一瞬、元の隙間に戻そうとした。だが、そんな行動を許さない禁断の知識への渇望が、毒の針のようにチクリと俺の理性を刺した。これは仕事ではない。これは発見だ。
そして、俺だけが見つけた、この町の、図書館の秘密の断片だ。
俺は誰にも見つからないよう、それを私物のバッグの奥深くに押し込んだ。もはや、引き返す選択肢はなかった。
その夜、アパートの自室。淹れたてのコーヒーの湯気も、この異物から立ち上る冷たい威圧感を拭い去ることはできない。
改めて黒い魔導書と、隣に挟まっていた古びた羊皮紙の手記に向き合う。
「……本当に、意味が分からん。これは英語でも、ラテン語でも、日本語でもない」
手記の冒頭ページに、どうにか読み取れそうな日本語の古文が書かれているのを見つけた。それは、儀式めいた動作を指示する記述だった。
「夜明けの前の刻、自らの内なる声に耳を澄まし、三度、星の向きを模した印を胸の前に描くべし。然る後、『アザトホス』と囁き、深淵を覗くべし」
「アザトホス? なんだ、狂った神様の名前かよ。中二病の極地だな」
こんな馬鹿馬鹿しいこと、やるわけがない。頭ではそう理解しているのに、俺の指は勝手に、あの閉架書庫で触れた「生皮」の感触を探っていた。この本は、俺の思考回路を、少しずつ侵食している。
抗えない。どうせ誰も見ていない。
俺は自嘲しながらも、書かれた通りに胸の前で妙な印を描いた。そして、誰もいない部屋で「アザトホス」と、囁くように呟いた。声が、異様に響いて、部屋の隅の闇を揺らした気がした。
「はは、これで何か起こったら、それこそ世紀の大発見だ」
もちろん、何も起こらない。当たり前だ。俺は手記を閉じ、全身の力を使い果たしたように、そのままベッドに倒れ込んだ。
(――なんだ、この星の並びは。頭が割れそうだ)
強烈な吐き気と、脳を直接掴まれるような激痛に襲われて、俺は夢の中で目覚めた。
そこは、俺の知る夜空ではなかった。空には赤、紫、そして腐敗したような緑に光る、歪んだ幾何学構造の星々が、異常な密度で犇めいている。
眼下に広がるのは、鉄でも石でも肉でもない、全てが混ざり合った非ユークリッド的な建築物群だ。嘔吐を催す景色が、無限にねじ曲がっている。
「ここ、は……どこだ……俺の精神が、負けている……」
遠くから、ゴオオオオという、粘着質な潮の満ち引きのような、世界の終わりを告げる音が聞こえてきた。その音は、知性を持たない巨大な意思が、何かを咀嚼している音に似ていた。
そして、その音の源、空の最も暗く、黒い一点から、何かが降臨した。それは形を持たず、しかし視覚を焼くほどに無限に色を変える巨大な塊だった。触手めいたものが、星々を引き裂きながら、ゆらりと蠢く。
そして、その異形の存在は、俺に向かって、言語ではない響きを送りつけてきた。その響きは、俺の『名』を、宇宙の最も忌まわしい場所で、呼び出していた。
「――っく、やめ、ろ……俺を、見るな……!」
俺は恐怖で声も出せず、ただ、その異形の『視線』を一身に浴びる。まるで、宇宙の深淵そのものに、内臓を鷲掴みにされ、存在の根源を否定されているような感覚だった。
――ドクン!
激しい動悸と共に、俺は飛び起きた。汗だくで、アパートの天井を見つめる。
「夢……ただの、悪夢だ」
そう自分に言い聞かせたが、部屋の隅、さっきまで手記を置いていた机の上。そこに、夢の中のあの腐敗した緑色の光が、一瞬だけ残像として残ったのを、俺は確かに見た。日常は、もう完全にひび割れている。
俺は改めてバッグの中の魔導書を見た。
――こんなものが、ただの市立図書館に、誰にも見つからず眠っていたのか? いや、誰かが、俺に見つけさせたのか?
その時、脳裏に浮かんだのは、いつも閉架書庫の鍵を無言で渡してくる、あの老いた館長の、無表情な顔だった。
いや、違う。彼の目は、いつも深淵を覗いているようだった。そして、俺にこの場所と、この「肉の資料」を見つけさせたのは、他でもない――あの館長だったのではないか?
俺の背筋を、冷たい確信が走り抜ける。
この恐怖の扉を開けたのは、俺ではない。――誰かに、仕組まれたものだった。
次回 第2話「老館長の密告」
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