第2話 老館長の密告

(吐き気がする。昨日の悪夢は、現実の残渣だ。俺の頭は、あの「肉の資料」に喰われ始めている)


寝不足と、異形の光景の残像に耐えながら、俺は市立図書館に出勤した。受付の臨時職員はいつものように愛想笑いを浮かべているが、俺の目には、その顔の下に結社の仮面が見える気がした。閉架書庫の空気が、まるで内臓に直接触れるように重い。


「くそ、逃げなきゃいけないのに、なぜ戻ってきたんだ、俺は」


「中野くん」


すぐに、老館長に呼び止められた。館長は普段から存在感を消しているが、今日は俺から目を離さない。その視線はまるで、汚染された物を見るように、深い諦観に満ちていた。


館長は静かに、俺の机の上に置かれた、魔導書と手記のコピーを指差した。


「それは、開けてはならぬ箱だ。触れてはならぬ毒だ。なぜ君は、そこまでして好奇心を貫こうとするのかね?」


「館長……ご存知なんですか? これは一体……単なる古い資料じゃない」


俺は息を詰めて問うた。


館長の声は、まるで枯れた木の葉のようにかすれていた。


「……この町は、いにしえの『涜神的とくしんてきな秘密』の上に築かれている。この書は、それを奉じる結社の遺物だ。彼らは、地下深くに眠る『古きグレート・オールド・ワン』を信仰している」


館長は低い声で言葉を区切った。


「そして、書に記された儀式に触れた者は……神への『花嫁』、あるいは『最も尊い生贄』として、選ばれてしまうのだよ。君は、もう、深淵に声を届かせてしまった」


俺の心臓は、昨夜の悪夢の時と同じように、不規則に脈打ち始めた。


「選ばれた……? 俺が? そんな馬鹿な話があるか! 夢で見ただけの、妄想じゃないですか!」


「いいや、本当だ。君の目はもう、現実ではないものを見始めているだろう? それが証拠だ。そして何より、君の姓が『中野』だからだよ」


「中野……?」


館長は、ここで初めて俺と視線を合わせた。その目に宿るのは、哀れみと、そして恐怖。


「この町の裏の歴史によれば、水源近くの『神の眠る場所』に古くから仕える一族がいた。君の血統は、結社にとって特別な意味を持っているのだよ。君はもう、引き返せない『終焉のプロット』に組み込まれてしまった」


老館長の言葉は、静かな日常に、冷たい刃物のように非日常を突き立てた。俺は、この運命に抗うため、そして理由を知るために、魔導書と手記を、決して手放すまいと決意した。それは、すでに狂気の淵へと傾き始めている、俺自身の最後の抵抗だった。


「中野くん、もう止めなさい。深みに嵌るだけだ」


館長の忠告を振り切って、俺は手記の解析を続けた。デスクに広げたコピーの山。コーヒーの湯気は、今や異界への薄い霧に見える。


その時、閉架書庫の奥、埃の臭いの下に隠れていた湿った音が響いた。


ビチャ……


ビチャ……


ズウ……


粘液を踏みつけるような、湿気を帯びた異音だ。


「誰かいるのか!」


俺は声を絞り出したが、返事はない。ただ、書庫の棚の隙間から、腐敗した緑がかった、奇妙な光が漏れてくる。俺の部屋で見た、あの夢の残像の色と、まったく同じだ。


「まさか、もう……奴らが……」


俺は呼吸を止め、棚に体を隠した。ビチャ、ビチャ……と、その『何か』が近づいてくる。


恐怖が、俺の理性を麻痺させる。俺はただの臨時職員だ。こんな非現実的な事態に対処できるはずがない。


だが、俺の目の前を、黒いローブの裾が通り過ぎた。ローブの生地は滑らかで新しい。そして、その裾から覗く足元は、靴を履いていない、複数の関節を持った異様な形状をしているように見えた。


「――っ」


俺は口を塞ぎ、音が遠ざかるのを待った。冷や汗が全身を流れ落ちる。


(秘密結社……奴らは人間じゃない。いや、日常に溶け込んだ、人の形を借りた狂気だ)


俺の日常と非日常の境界は、完全に破壊された。


翌日、俺は開館前に館長を掴まえ、強く問い詰めた。


「館長、なぜ、俺が中野だから選ばれたと知っていたんですか? あなたは、結社の関係者なんですか?」


館長は疲れた目で俺を見つめ返した。


「私は結社の者ではない。だが、監視役だ。この町と、この場所を、神の介入から守るための……最後の防人だ」


館長はそう言って、自らの手首に巻かれた、古びた数珠を見せた。それは、魔除けというよりは、鎖に見えた。


「防人……なら、俺を助けてくれるんですね!?」


俺は縋るように言った。


館長は力なく首を振った。


「もう遅い。手記を読んだ時点で、君は神の関心を引いてしまった。私も、もう長くは『その場』を維持できない」


メキィッ!


突然、背後で硬い何かが割れるような鈍い音が響いた。図書館の入口のドアが、内側から力任せに破壊されて開いた音だ。


「しまった。奴らが来た!」


館長は絶望の表情を浮かべた。俺たちは顔を見合わせ、そのまま書庫の陰に身を潜めた。


外から、数名の低い話し声が聞こえてくる。


「――『花嫁』はどこだ? ここに隠れているはずだ」

「すぐに連れ出せ。御大が、お目覚めになりかけている」


彼らは、ローブ姿ではない。現代のスーツ姿だ。ネクタイを締め、どこにでもいる地方公務員のような格好をしている。


(どこにでもいる、日常に溶け込んだ狂気――それが、奴らの正体か)


俺は、館長に最後の質問を投げかけた。


「結社の目的は何なんですか? 何を望んでいる!?」


館長は息を整え、唇を震わせて囁いた。


「虚無だよ、中野くん。全てを無に帰すこと。そして、その最初の生贄として、君の血筋が……」


グチャッ!


湿った肉が潰れるような、嫌な音が響いた。


俺は恐る恐る目を向けた。


館長が、胸をサバイバルナイフで貫かれて倒れていた。彼を刺したのは、図書館の制服を着た、別の臨時職員だった。


「これで、唯一の証言者は消えた。さあ、中野ユウタ」


臨時職員は冷たい笑顔で、俺に近づいてくる。その目は、光を失い、虚ろな狂気だけが宿っていた。


「儀式の時間だよ。早く、夢の支配者様のもとへ行こう」


(――逃げろ! この本さえあれば、まだ抗えるはずだ!)


俺は、血の海に倒れる館長を横目に、ポケットに魔導書と手記のコピーを押し込み、図書館の裏口に向かって全速力で駆け出した。


「俺は、おまえらの言う『花嫁』なんかじゃない!――絶対に、深淵に魂を渡してたまるか!」


日常の皮が剥がれ落ちた世界で、俺の孤独な逃亡が始まった。



次回 第3話「夢の支配、逃亡の終わり」

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