第17話『県警本部と狂信者の影』
橘さんの運転する公用車は、静かに夜の街を滑っていた。
俺は、助手席で窓の外を流れる景色を、ただぼんやりと眺めていた。
この街に来てから、初めて見る《Second Beat》以外の風景。
どこまでも続くビルの灯りも、行き交う人々のシルエットも、そのほとんどが女性のものだ。
やがて、車はひときわ高くそびえ立つ近代的なビルの前で停まった。
『県警本部』と書かれた、重々しいプレートが掲げられている。
ここがこの世界の法の頂点か。
俺はごくりと喉を鳴らした。
「着きました。降りてください」
「は、はい…」
車を降りると、ひんやりとした夜気が緊張した肌を撫でる。
重厚な自動ドアが、俺たちの前で音もなく開いた。
一歩足を踏み入れると、そこはドラマでしか見たことのないような広大で無機質なロビーが広がっていた。
夜だというのに、多くの職員が忙しそうに行き交っている。
その誰もが俺の姿を一瞥し、そして二度見した。
彼女たちの視線に、好奇や侮蔑といった色はなかった。
ただ、そこにいるはずのないものがなぜここにいるのか、という純粋な驚きだけがあった。
「こちらです」
橘さんは、そんな視線を気にも留めず俺の前を歩く。
彼女が職員証をかざすと、厳重なセキュリティゲートが音もなく開いた。
彼女の背中を追って、俺はこの世界の「法」の中枢へと足を踏み入れた。
◇
通されたのは取調室と呼ぶにはあまりに清潔で、どちらかといえば会議室に近いような部屋だった。
それでも、壁に一つだけあるマジックミラーが普通の部屋ではないことを物語っている。
「では、正式に事情をお伺いします」
テーブルを挟んで向かい合った橘さんは、録音機器のスイッチを入れるとプロフェッショナルな口調で質問を始めた。
「まず、あなたの身元について、もう一度。名前は佐藤悠真。生年月日は平成15年…」
俺は、自分の知る限りの「自分」の情報を再び語った。
橘さんは、それを淡々と端末に打ち込んでいく。
「次に、神木レイジの件です」
話題が本題に入り、部屋の空気が少しだけ張り詰めた。
「彼に扇動され、あなたの相方であるサヤさんが受けた被害。その詳細を、時系列に沿って、できるだけ正確に説明してください」
俺は、真琴さんたちが見せてくれた掲示板の内容、盗撮された写真、そしてそれを見た時のサヤの様子を言葉を選びながら説明した。
サヤがどれだけ傷ついたか、どれだけ怯えていたか。
俺の言葉に自然と熱がこもる。
「…なるほど。被害状況は理解しました」
橘さんは、全ての入力を終えると顔を上げた。
「こちらの端末で、あなたが証拠として保全したスクリーンショットも確認しました。神木レイジの扇動行為および、それに加担した匿名ユーザーたちによるプライバシー侵害。どちらも、男性保護法および関連法規に明確に違反しています」
「そ、それじゃあ…!」
「はい。神木レイジ本人への事情聴取、および事務所への家宅捜索。そして、拡散に加担した主要なアカウントの所有者に対する法的措置。その全てを、明日付で正式に開始します」
その力強い言葉に、俺は胸をなでおろした。
法は、俺たちの味方なんだ。
「聴取は、以上で終了です。お疲れ様でした。ロビーまでお送りします」
「あ、ありがとうございます」
安堵した俺は、椅子から立ち上がった。
これでひとまずは安心だ。
そう思っていた。
◇
再び広いロビーを歩く。
時刻はもう午後11時を回ろうとしている。
ロビーの人影も、さっきよりはまばらになっていた。
「ああ、橘君、ちょうどよかった」
その時、いかにも上司といった雰囲気の威厳のある女性が、橘さんに声をかけた。
「例の神木レイジの件だが、少し報告を」
「はい、課長」
橘さんは、俺に向き直った。
「佐藤さん、申し訳ありません。ここで少し待っていてください」
「あ、はい。大丈夫です」
俺は、その場に立ち止まり二人の邪魔にならないよう、数歩離れた場所で壁に寄りかかった。
橘さんが上司らしき女性と、真剣な表情で何事か話し合っている。
その時だった。
「…お疲れ様です」
何気ない様子で、制服を着た女性警察官が俺の横を通り過ぎようとした。
俺も会釈くらいはした方がいいのかと、そちらに顔を向ける。
しかし、すれ違いざま。
その警察官は、俺の視界の端で不自然に動きを止めた。
そして次の瞬間、俺の腕を鉄のような力で掴んでいた。
「えっ」
「見つけた」
その瞳は、狂気的な光を宿していた。
さっきまでの、普通の警察官の顔ではない。
何かに取り憑かれたような、焦点の合わない危険な目。
「レイジ様に逆らうなんて、許さない…!」
「なっ…!」
まずい! こいつ、神木レイジのファンだ! しかも警察官!?
「やめろ!」
「うるさい!レイジ様を怒らせる、汚れた存在!あたしが、あたしが処分する!」
警察官は俺を近くの誰もいない廊下へと、引きずり込もうとする。
この世界の女性のとんでもない腕力。
抵抗もできず、俺はパニックに陥った。
「た、助け…!」
「佐藤さん!」
俺の短い悲鳴に、橘さんとその上司が瞬時に反応した。
二人は信じられないほどの速度で、こちらに駆けつけてくる。
「何をしている貴様!」
上司の怒号が響く。
狂信者の警察官は、俺を盾にするようにして、さらに強く腕を引いた。
だが、その一瞬の隙を、橘さんは見逃さなかった。
彼女は、俺と狂信者の間に、まるで滑り込むように突進する。
そして狂信者の腕を捉えると、流れるような動きでその関節を捻り上げた。
「ぎゃあああっ!」
甲高い悲鳴。
腕を完全に極められ、狂信者の警察官はその場に崩れ落ちた。
「……っ!」
ロビーは、騒然となった。
「おい、今のは…!」
「保護対象の男性が、庁舎内で当直の警官に襲われたぞ!」
「前代未聞だ!」
上司が、駆けつけた他の警官たちに怒号を飛ばす。
「全員、こいつを拘束しろ!何が起こったか、徹底的に調べ上げろ!」
俺は、恐怖で足の力が抜けその場にへたり込んでいた。
心臓が、激しく警鐘を鳴らしている。
その俺の前に、橘さんが青ざめた顔で立ち、深く深く頭を下げた。
「佐藤さん、申し訳ありません…!」
彼女の声は、震えていた。
「まさか所内で、身内からこのような蛮行に及ぶ者が出るとは…
私の…完全に見通しが甘かったです」
俺は、何も答えられなかった。
敵の狂気はネットの中だけではなかった。
そしてその狂気は、法を守るべき砦のその中核にまで及んでいた。
俺は、その恐ろしい事実に改めて戦慄していた。
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