第16話『執行人の朗報と警告』
楽屋の扉が、静かに開く。
そこに立っていたのは、スーツ姿の橘梓さんだった。
さっきまでの祝祭の空気が、一瞬で凍りつく。
彼女の表情は、前回のような気まずそうなものではなく、法の執行人としての、厳しい顔つきだ。
俺は、ごくりと喉を鳴らした。
彼女は、まっすぐに俺を見つめると、静かに告げた。
「佐藤悠真さん。少し、よろしいでしょうか」
緊張が走る中、橘さんの厳しい表情が、ふっと和らいだ。
それは、ほんのわずかな、プロフェッショナルな微笑みだった。
「…まず、お見事でした。素晴らしいパフォーマンスです」
その意外な言葉に、俺たちは全員、目を丸くした。
彼女は、俺たちの芸を、まず賞賛してくれたのだ。
「あ、ありがとうございます…」
俺がそう答えるのが精一杯だった。
彼女は、こほんと一つ咳払いをすると、本題に入った。
その瞳は、再び鋭い光を取り戻していた。
「先ほど、裁判所から神木レイ-ジの所属事務所に対する、捜査令状が発行されました」
「!」
捜査令状。
それはつまり、警察が強制的に捜査に入れるということだ。
俺たちの、法的な勝利だった。
「おおっ!」
「やった…!」
俺とサヤは、思わずハイタッチを交わす。
玲子さんやバンドメンバーたちからも、歓声が上がった。
橘さんは、そんな俺たちの様子を静かに見つめ、さらに続けた。
「同時に、今回の扇動に乗って、匿名掲示板などで悪質な個人情報の拡散に加担した主要なアカウントも、すでに身元を特定済みです」
「本当ですか!?」
「はい。彼女らにも、法に基づき、然るべき処罰が下されることになります」
その言葉は、何よりもサヤの心を救ってくれたはずだ。
顔の見えない、匿名の悪意。
その一つ一つが、きちんと裁かれる。
サヤの瞳に、安堵の涙が浮かんでいた。
しかし、歓声の中、橘さんは冷静に言葉を続けた。
「しかし、これで終わりではありません。これから神木レイジ本人への聴取も始まります。だからこそ、注意が必要なんです」
その言葉に、俺たちの喜びの空気は、すっと引き締まる。
「法的な手続きには、時間がかかります。その間、追い詰められた神木レイジ本人が、何を仕掛けてくるか分かりません。彼の『ファン』ではなく、彼自身が、です」
橘さんの警告は、俺たちの背筋を凍らせた。
ネットの王様が、今度は直接、俺たちに牙を剥いてくるかもしれない。
「くれぐれも、身の回りには注意してください。特に、佐藤さん、あなたは」
「…分かりました」
橘さんは、俺に視線を固定したまま、言った。
「さて、本題はここからです。佐藤悠真さん。今回の事件の、正式な被害届を受理させていただきたい。つきましては、男性保護課本部まで、ご同行願えますか」
「本部へ…」
「はい。あなたから、直接詳しい話を聞く必要があります」
サヤが、不安そうな顔で俺の服の袖を掴む。
俺は、その手を優しく握ると、毅然とした態度で橘さんに向き直った。
「分かりました。行きます。これも、サヤを守るためですから」
俺の言葉に、サヤはハッとした顔で俺を見つめた。
橘さんは、そんな俺たちを一瞥すると、静かに頷いた。
「橘さん」
玲子さんが、前に進み出る。
「こいつのこと、頼んだよ」
「…承知しています」
二人の間に、短い、しかし確かな信頼の視線が交わされた。
◇
俺は、橘さんの運転する公用車に乗り込んだ。
この街に来てから、初めて《Second Beat》の周辺を離れる。
車は、夜の街を滑るように走っていく。
窓の外を流れる景色を、俺はぼんやりと眺めていた。
行き交う人々は、やはり女性ばかりだ。
光り輝くネオンサインも、ショーウィンドウのマネキンも、全てが女性向けに作られている。
最初にこの街に来た時は、ただただ不気味で、恐怖しか感じなかった。
だが、今は違う。
不思議な感慨が、胸にこみ上げてくる。
俺には、相方ができた。
笑ってくれる仲間ができた。
そして、倒すべき敵ができた。
俺はもう、ただ迷い込んだだけの、孤独な芸人じゃない。
この世界の社会と、そして法と、俺はこれから本格的に向き合っていくことになる。
俺は、車の向かう先を、まっすぐに見据えた。
県警本部。
ここからが、俺の新しい戦いだ。
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