第4話

 デパートでみらいと共に謎のかなたを見たあの日以降も、彼女の行動が変わることはない。


 それどころか、俺と過ごす時間を少しずつだが確実に増やしに来ている。


 そんな日々を過ごすなかで俺の胸の内にあった緊張感らしいものはすっかり無くなったが、どうしてあの日あんな時間に駅の方へ駆けて行ったのか。


 それだけは聞けずにいた。


 そして、かなたに声をかけられてから一か月と少しが経った本日……。


「し、しまったな……」


 梅雨入りとなったこの日。


 珍しく部活が休みで、いつも一緒に下校するみらいも別の友達と用事があるため早々に帰ったという状況にある俺は、人がまばらになった教室にいた。


 窓の外でいまも濡れていく校庭を眺めながら、今朝の記憶を思い出す。


 

***


「ちょっとはるか、遅刻するわよ」


 という母の声で目覚めた俺は数年ぶりに寝坊しかけたのだった。


 慌てて飛び起きた時点でいつもより三十分遅い起床だったが、幸いまだ遅刻確定という時間ではない。


 しかし、普段はとっくに朝食まで終わっている時間だったので、俺の心に平静を保てるだけの余裕など無くて当然と言えよう。


「うっわしまった! やっちまった」


「ご飯もう机に置いてるからね」


「ありがとう、すぐ行く」


 俺はわざわざ部屋の前までたたき起こしに来てくれた母に感謝し、文字通り最速で準備を済ませた。


 着替えと最低限の洗顔を終わらせて食卓に着き、いただきます詠唱と同時に居間の掛け時計を確認する。


 時計の針は七時四十五分を指していた。


「仕方ない、こうなりゃ奥義解禁だ」


 俺は通常、十分から十五分ほどかけて平らげる朝食(和食時)を五分で食べる『秘儀・汁かけかきこみ食い』を発動し、その五分後には玄関で靴を履き終えていた。


 だがこの時点でいつもより五分遅い。


 慌てた俺は玄関扉を開けると同時に振り返る。


「母さん、行ってきま……」


「ちょっとはるか、傘――」


「え、この見事な快晴だよ? 降らないでしょ。行ってきます」


 と、俺は心急くあまり、母の配慮を断って朝の町へ飛び出したというわけだ。


 そして五時間目の終わりから降り出した雨は、今も一向にやむ気配を見せない。


「……はあ、昼からこうもどしゃ降りになるのか……。母さんに悪いことしたな」


 俺はそう呟き、反省とともに後頭部を軽く掻いたが後悔先に立たずというもの。


 教室を見渡してみても、帰宅方向が同じクラスメイトもいないようだ。


「仕方ない。ダメもとで職員室行ってみて、だめだったら諦めて梅雨入りを全身で体感しながら帰るか……」


 俺は自分と相談するように小声でそう結論を出すと、荷物を肩に担いで教室を後にした。


 職員室には俺のような哀れ人のために、ビニール傘がいくつか用意されている。


 もちろん数がそんなにあるわけでもないし、すでに下校が始まって時間が経っているので正直あまり期待はできない。


 三時五十分を回ったころ俺は校舎の入り口に立っていたが、あえて言うと傘は入手できなかった状態だ。


 どんよりとした分厚い雨雲に覆われた天を仰ぐが、まとまった梅雨時の雨はやむ気配なく大きな雨音を伴って降り続いている。


「……はあ、しょうがない。小走りで帰るか」


 そう決意を固め、ついに濡れてしまう領域へ踏み出そうとしたとき。


「あれ、はるか?」


 ふいに、背後からもはや聞き慣れすぎた声がかかった。


 驚いて振り返ると、そこには思ったとおりの人物、俺とみらいの間で今ちょっとした話題であるかなたがきょとんとしたような表情で立っている。


「かなた。お前もいま帰りか」


「うん。でも珍しいね、今日はみらいと一緒じゃないんだ」


「あ、ああ、あいつは他の友達と約束があるらしくてな。――そう言うかなたも珍しいな。いつもはほら、誰だっけ……えーっと」


「もしかして、れなのこと?」


「そう、その子だ。たしか西宮さんだっけ。彼女と帰ってるよな」


 俺が何とか記憶を掘り返して尋ねるとかなたは、


「れなも他の友達と帰ったんだ」


 と、いつも通りの天真爛漫な笑顔で答えてくれた。


 そこで会話が一瞬切れたとき、かなたが何かを確認するように首をかしげ、俺を観察してくる。


「ど、どうしたんだ?」


「うん……。もしかしてはるか、――傘、忘れたの?」


「「…………」」


 その場にちょうど俺たち以外誰もいなかったので、数秒のあいだ無言の時間が流れる。


「いや……ほら、朝は天気良かったろ?」


 と、正直に答える俺。


 かなたはなぜか一瞬泣きそうなぐらい嬉しそうな、形容しがたい無言の笑みを浮かべて雨に濡れていく校庭を眺め、それから優しい笑顔で俺を見た。


「しょうがないなあ。はるかのためにお姉さんが一緒に帰ってあげる。ねっ、良いでしょ」


 と言って綺麗な赤い傘を見せる彼女の提案を、俺はもちろん否定などできない。


「あ、ああ。悪いな、頼む」


「うんっ、ありがと!」


 必死のおねだりが功を奏し、欲しかったおもちゃを買ってもらった子ども。


 それに通じるような弾ける笑顔を見せるかなた。


 こうして俺は、幼馴染と十何年ぶりに『あいあいがさ』をして帰ることになったのだ。


 なんでお前の方が『ありがとう』なんだよ。という疑問を投げかけるのは野暮な気がして、俺はそっと口を閉じる。


「それじゃ帰ろっか。はい、はるかがさして」


「あ、うん。……わかった」


 彼女から傘を受け取り、静かに開く。それを頭上に持っていくとかなたがそっと俺の傍に寄り添ってきた。


「――ッ!」


 説明しがたい気恥ずかしさと心拍数の高鳴りを全神経で感じながら、俺は幼なじみの少女と足並みを揃え一歩雨の世界へと踏み出していく。


 そんな俺たちを隠すように、雨は勢いを増していった。


 ***


 激しい雨が傘とコンクリートの地面に強く打ちつけられる。


 俺は雨音が会話をかき消すと思ったし、恐らくかなたも同じように考えたのだろう。


 毎日のように会い続けた結果、すっかり昔の距離に戻った俺たちはなに気兼ねなく会話できるようになっていたが、珍しく会話のない時間が流れていた。


 あいあい傘をしているがゆえの緊張感と恥ずかしさがあることも事実だが、会話がまったくないのはお互いがお互いを理解しているからだろう。


 俺も彼女もこの雨の轟音を貫いて会話できる声量を出せないということを。


 昔からみらいは声がでかいことで有名だが、俺たちは声を張り上げることが苦手だった。


 そんな俺とかなたの家は同じ住宅地にあるが、数軒ほど離れている。


 住宅地の入り口付近にある公園まできたところで、俺は会話のないひと時に終止符を打った。


「ありがとうかなた。ここで良いぞ」


 このタイミングを選んだのは、となりにある公園が帰路の分かれ目だからだ。


 幸い雨雲が陽光をわずかに通すぐらいまで薄くなり、雨の勢いも校舎を出るときと比べて穏やかになった。


 家もすぐそこなので、全力ダッシュで帰ればそこまで濡れずに済みそうだ。


 ――しかし俺は、幼なじみの少女から返ってきた言葉に驚きを隠せなかった。


「…………いて」


 と、かなたがうつむき加減に小声でボソッとなにか言ったので、一回目では聞き取れない。


 雨の音がさらに穏やかになっていくなか、俺は聞き返した。


「えっ? すまんかなた。聞こえなかったからもう一回言ってくれ」


「――――っ」


 俺のひと言でかなたの白い頬が紅く染まっていく。


 彼女は少しの間を開けて言葉を続けた。


 傘を持っていない俺の左手を、小さな両手でぎゅっと握って。


「――も、もう少しだけ、あと少しだけこのまま一緒にいて! ……この雨が過ぎ去ったら、言いたいことがあるの……」


「な――」


 俺は今年いちばんの衝撃に固まった。


 美人になった幼なじみに手を握られたこと、その時彼女が見せたおおよそ言葉にできない表情、そしてその口から放たれた言葉。


 それらすべてが俺の動きを封じる強力な楔となり、しばらく言動を封じられる。


「――――っ」


「あ……の。は、はるかっ!」


「は、はいっ!」


 普段かなたに対して絶対に使わない『はい』という言葉と、裏返りかけた自分でも驚くような声。


 俺はハッとしてかなたの両手から解放された左手を口元にあてる。


「い、嫌だったら……嫌だったら、帰っていいから」


 と続けるその声は、いつもの彼女からは考えられないほど震えていた。


 俺は思わず首の後ろを掻きながらすかさず答える。


「いや、ちょっと驚いただけだ。――その、嫌なわけは……ない」


 恥ずかしさを押し殺して言ったとき、ふっと傘に当たる雨音が消えた。


 俺は傘を頭上から逸らし天を仰ぐ。


 それに続けてかなたも空に視線を送ったとき、完全に雨がやみすっかり薄くなった雲の切れ間から穏やかな木漏れ日を思わせる陽光が差し込んだ。


 どうやらどしゃ降りをもたらした雨雲は過ぎ去ったらしい。


「いや、良かったなかなた。晴れたぞ……」


 思わず弾むような口調で飛び出した俺の言葉は、最後まで出ないうちに引っ込んだ。


 ふいを突くようにかなたが飛びついて来たのだから無理もない。


「――な、おい、かなた⁉」


 反射的に彼女を引き剝がしかけたが、俺の背に回されているかなたの両手にぎゅっと力が込められる。


 俺が動きを止めると、太陽の光が俺たちの頭上を静かに照らした。


「……ねえはるか。あの日の約束、覚えてるって言ってくれたよね」


「あ、ああ……」


「そ、その……私、あの……」


 俺は普段なら絶対に見ることのできないかなたのあたふたする姿に新鮮さを感じながら、静かに彼女が落ち着くのを待つ。


 かなたは少し経って俺から離れると、ふうーっと深呼吸をして落ち着き、いつもの笑顔を取りもどす。


「よし、落ち着いた。急に抱きついてごめんね、はるか。でもこれはね? 女の子にとってすっごく大事な瞬間なんだから。――私でも少しぐらい、そう、少しぐらい取り乱しちゃうんだよ」


 かなたはそう言ってから、俺に穏やかで可愛らしい笑みを見せると。


「あの日言った『将来本当のお嫁さんにしてほしい』って気持ちはね、本気だったしその気持ちはもちろん今も変わってない。――もうはっきり言うね」


「…………」


「――昔から無口で、不器用で……。でも時々面白くて、誰より優しいあなたがずっと好きでした。良かったら、結婚を前提に私とお付き合い……してくれませんか」


「な――――」


 数分まえ、かなたに手を握られたことを今年いちばんの衝撃と思ったが、さっそく撤回だ。


 真に今年一番の衝撃を受け、俺の手から赤い傘が舞い落ちた。


 まさかこんな形で人生初のプロポーズを経験するとは……。


 これまで恋愛経験の一つもしてこなかった俺がその場ですぐに平常心を取り戻せるはずもなく、ただただ硬直するしかない。


 その間にかなたはふっと微笑を浮かべ、俺が落とした傘を拾って畳んだ。


「大事なことだからゆっくり考えてね。お返事はまた明日、お昼にいつもの場所で」


 彼女はそう言い残すと、何度も何度も俺に手を振りながら、足取り軽く帰って行った。


「…………いや、マジか」


 こうしてひとり残された俺は、しばらくの間その場でフリーズするのだった。

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