第2話
しばらくのあいだ程よい静寂が場を支配し、互いの弁当箱が半分ほど空になったところで、ふいにかなたが箸を置く。
そしてみごとな飲みっぷりで茶を飲むと、ふう、と穏やかな息を吐いて俺のほうを向いた。
俺も思わず食べることを中断し、次に放たれる言葉に備える。
「私ね、今でもたまに思い出すんだぁー。あの結婚式ごっこのこと」
「はは、まあな。あの記憶はたぶん一生忘れられないだろう」
「やっぱりそうだよね。いま思い出すと少し恥ずかしいもん」
そう言って明るく笑ってみせるかなたに、俺は平静を装ってそうだなと返す。
内心はまったく穏やかではないんだが。
なにせかなたの言う『結婚式ごっこ』というのは、この歳になって思い出すと本当に恥ずかしいのだから。
「はるか見て。ほら、ここから見えるんだよ、金星台公園」
彼女が指さす方を見て、俺はうなずいた。
「ああ。あの公園、町の最北端にあるからな。それも高台の上。俺ってあんまり屋上に来ることないから知らなかったけど、こんなによく見えるんだな」
「うんっ。私はね、時々友達とここでお弁当食べるんだよ」
そこで言葉を切ると、かなたはまた箸を動かした。
しばらく食事タイムが続き、ふいにまた公園の方を眺める彼女につられ、俺も昔の記憶を思い出しながら北に目を向ける。
金星台公園は町の中心からけっこうな距離があるうえに、小高い山の頂上にある。
つまり、程よいハイキングと短い登山を経験しなければたどり着けないが、その苦労に見合うだけの景色を拝むことができる。
公園自体も広く、遊具や広場のほか遊歩道も整備されているので、老若男女が楽しめる憩いの場というべきだ。
そして幼い俺はその公園で、かなたの希望によって『結婚式ごっこ』をしたのだ。
神父役を買って出たみらいに、散々恥ずかしい言葉を言わされながら……。
俺が脳内で過去を回想していると悟ったのか、ふいにかなたがくすりと笑う。
「たしかあの時、指輪まで作ってお互いに交換したんだよね」
「ああ、これもみらいの計らいだったっけ」
「うん、『お前ら、やるなら本気でやれ、お互いに指輪作って交換しろ』ってね」
「かなたが作ってきた指輪、サイズがでかすぎて俺の指に対してぶかぶかだったよな」
「あははは! はるかのやつだって私の指には大きすぎたじゃん。私のあれはね、お母さんが自分の指で測った方が良いって言うのを聞かずに、はるかは男の子だからってお父さんの指で大きさ調節したんだ」
「そういうことだったのか――」
俺はふいに気づいた。
昔みたく、かたなと楽しく話しているという事実に。
どうやらほぼ同じタイミングでかなたも我に返ったらしく、はっとして口に指を当て、頬を少し紅潮させる。
「――やだ、私ったら、子どもみたいにはしゃいじゃった……」
「――な、なんかはずいな……って、やばい、時間が!」
俺は言葉にしがたい感情をごまかすため頭の後ろを搔きながら、ふと校舎入り口にある時計を見て声を上げた。
それに反応したかなたもはっとして俺が見たものに視線を合わせる。
「う、うそお! 五時間目まであと五分もないじゃん! 早く戻ろ」
「あ、ああ!」
幸いなことに、ふたりとも弁当はほぼ食べて終えていたので急いで残りを平らげ、ベンチから立ち上がり走り出す。
しかし――。
「あうぅ……ちょ、はるかぁ――」
「え、ど、どうしたんだかなた。あと二分きったぞ!」
急にふらつき、そのままよろよろと歩くかなた。
「ご、ごめん。私、食べて急に動くとおなか痛くなるの……あ、ああ~~っ」
彼女はそれでもなんとか走ろうと努力したが、無理なものは無理というもの。
かなたは校舎の入り口まで頑張ったものの、いよいよその場にしゃがみこんでしまった。
「だ、大丈夫か」
「あ、あははは……だ、だいじょぶだいじょぶ。すぐに落ち着くから。――て、ちょっと待って、五時間目って世界史……」
「ま、まじだ!」
なぜ俺たちが青ざめたかと言うと、世界史担当の安成先生は、『鬼の安成』という異名を授かった生徒指導部の先生だからだ。
貫禄ある四十代の先生で、遅刻と授業中の私語に対して特に厳しい。
さすがに一時間廊下に立たされることはないが、授業が中断し、やらかしてしまった生徒は近くにある階段の踊り場に連行される。
そうして数分間、生徒指導部の名にふさわしい怒号という名の轟雷を浴び、教室に残された生徒もまた、その怒りの声を聞きながら待つことになるわけだ。
遠雷におびえる小動物のごとく……。
さらに言えば授業中に先生の機嫌が直ることは稀で、説教後は恐ろしく張り詰めた空気が支配する空間で、授業が進んでいくことになる。
「や、やばい、一分もないぞ」
「――痛っ! は、はるかだけでも先に行って。今ならまだ――ふぐぅ!」
「ば、ばか言え! こんな状態のお前を置いていけるか。それに――」
キーンコーンカーンコーン…………。
「「あっ…………」」
この瞬間、俺とかなたの運命は確定してしまったのである。
その後……。
地獄のような時間を耐え抜き、俺は窓側の一番後ろの自席でノートにペンを走らせていた。
いつもより二割増しで静かな教室に、泣く子も黙るほどの不機嫌オーラを纏う安成先生の声が響く。
もう少し配慮があってもいいじゃんか、と俺は心の目で先生を睨んだ。
その瞬間、先生がこちらを向いたときは口から心臓が飛び出るかと思ったが……。
心を落ち着け、資料集のページをめくりながら、つい先ほど経験した胸の奥を握られるような不快感を伴うできごとを振り返る。
***
チャイムが鳴ったあと、かなたの腹はすぐに調子を取り戻し俺たちは急いで教室に向かった。
到着したときすでに教室内の空気は死んでいたが、クラスメイトと先生に謝って頭をさげると、『鬼の安成』と化した先生に恐ろしい声で『来い』と言われ、階段の踊り場でみっちり話を聞かれた。
かなたの腹が痛かったという、俺たちにとって頼りない唯一の免罪符は予想通り一撃で破り捨てられたのだ。
「じゃあなんで余裕持って教室帰れるよう、時間みて飯食わんねん! しょうもない言い訳すんなや!」
「「は、はいいっ! ごめんなさい」」
「あぁ? ごめんなさい? すいませんちゃうんかいっ!」
「「す、すみませんでした!」」
あの時見た震えるかなたと彼女の涙目は忘れんぞ、と、先生に言いたい。
そりゃあ論ずるまでもなく悪いのは俺たちだが、もう少し言い方というものがあるだろう。
はなから期待などしていなかったが、いつもは絶対に遅刻や忘れ物をしない真面目な俺たちだからと言って、初回特典で優しくなるわけでもなかった……。
五時間目が終わると、かなたは何ごともなかったかのように女子の友達とともに教室を出ていき、俺にとってはまさに嵐が来ていつの間にか去って行ったという感覚だ。
彼女が教室からいなくなると、恐らくそのタイミングを待っていたであろうみらいが教室前方からすっ飛んできた。
「おいはるか、いったいなにがどうなってんだ? 急にかなたに連れて行かれたと思ったらまさかの遅刻。お前たちが教室出てってから、ちょっとした騒ぎになったんだぞ」
「や、やっぱりか。でも、そう言われたところで俺にも分からない。正直に言って、誰よりも混乱したのは俺だ」
「うーむ……。そりゃあますます分からんな。一応聞くが、俺が知り及ばないところでお前とかなたが付き合い始めていた、なんて事実はないんだろ? その様子だと」
「俺が自分から女子にグイグイ行くわけがない。それはお前なら言わなくても分かるだろ。仮にかなたから告白を受けたとしたら、俺はたぶん、真っ先にお前に相談した」
一切の偽りなく思いを告げると、みらいは『そうだよな』と納得を示したうえで、彼らしくもなくしばらくのあいだ首をひねっていた。
その後もかなたが接近してくることはなく、俺は普段通り部活に勤しんで帰宅することになった。
しかし、なにがどうなっているのかと思考にあまり、俺の内心は穏やかとはほど遠い。
帰宅中も何かと金星台公園が気になって、挙動不審に陥ってしまうありさまだ。
「……た、ただいま」
「おかえりはるか。……あら、どうしたの? そんな落ち着かないような顔して」
平静を装って帰宅したつもりだったんだが、玄関で鉢合わせた母にまで則バレしてしまうことに。
「あ、いや……なんでもない」
「あらそう? 彼女とかなら隠さなくていいのよ~、おほほほ」
「――っ! それはない! あまりからかわないでくれよ、母さん」
俺は妙に嬉しそうに笑っている母の声を背中で聞きながら、足早に自分の部屋を目指した。
――大きくなったら、今度は私を本当のお嫁さんにしてね。約束だよ!
うっとうしい制服から部屋着に着替えてベッドに転がり、静かに天井を見上げていると、かなたの無邪気な声が脳裏に響く。
昼に本人と話したからか、その声は夢で聞くよりずっと鮮明であいつの笑顔が浮かんだ。
「……何だってんだ、いったい」
かなたと一緒にいて嫌なことなど当然ない。
数年のあいだ交流がほぼなかったとはいえ、俺にとって大事な幼なじみなわけだし、いつも天真爛漫で笑顔を絶やさず優しい彼女といることは楽しいのだから。
俺が今どうも落ち着かない理由は今日のできごとゆえだ。
予知夢のごとくかなたとの記憶……それも『結婚式ごっこ』なんて場面を鮮明に思い出し、その日にあいつの方から声をかけてきたという、偶然とは言い難いことを経験したせいだ。
――しかし。
「……なにかが、違う」
俺はごろっと横向きになり、ふとつぶやく。
心のざわめきが止まらない理由は、予知夢が当たったからというだけじゃない。
まだ距離はある。
だが決してそう遠くもない未来になにか起こるような、それ以外では言語化が難しい虫の知らせのような感じが胸の奥に張り付いている。
「何なんだ、この感覚は――!」
たまらず上体を起こした俺の視線の先には、大きな窓があった。
そこに映る町はゆっくりと夜の闇へ落ちていくようで、急いでカーテンを閉める。
その時、一階から夕飯ができたことを知らせる母の声が響き、俺は静かに立ち上がって自室を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます