第27話 抱いて……ください

 気絶したエクレールを彼女の家まで連れて帰り、ベッドに寝かせて、ようやく一息ついたときには、もう夜になっていた。


 ランタンの明かりが壁に揺れ、静かな影を落としている。

 その下で、エクレールはすうすぅと寝息を立てていた。


「エクレール、大丈夫でしょうか?」

「ええ、緊張の糸が切れただけよ。――テオ君こそ平気? 殴られたところ、まだ腫れてるけど」

「あ、はい。さっきもらったポーションで、痛みは引きました」

「そう。でも無理はしないでね」


 そう言うと、ミルフィさんは少しだけ目を伏せ、静かに立ち上がった。


「それじゃ、私は帰るわ」

「えっ? もう?」


 思わず声が出た。

 少しだけ冷たいような気がしたからだ。

 そんな思いが伝わったのか、ミルフィさんは柔らかく微笑んだ。


「今、エクレールにとって必要なのは、キミよ。私の可愛い”妹”を、よろしくね」


 そう言って僕の肩をポンと叩き、部屋を出ていく。


 静かになった部屋の中、ランタンの炎がかすかに揺れた。


(僕が、エクレールに必要……?)


 その言葉の意味を考えていると。


「……エロザル」

「わっ?」


 ベッドからの声に、飛び上がる。

 エクレールが、いつの間にか目を開けていた。


「びっくりした。起きてたの?」

「ん。ミル姉は気づいてたっぽいけど」


 僕はあわててコップに水を入れ、差し出した。

 エクレールは上体を起こして「ありがと」と言い、こくりと喉を鳴らした。


「……やだ。あんた、ほっぺた腫れてるじゃない」

「大したことないよ」

「あるわよ、バカ。なんであんな無茶したの?」

「無茶じゃないって」

「無茶よ。ヘタしたら殺されてたかもよ?」

「でも、エクレールが助けてくれたじゃないか。カッコよかったよ」

「た、たまたまよっ。……それに、最終的に助けたのはミル姉だし」

「まあ、たしかに」


 僕が苦笑すると、エクレールは青紫の瞳を伏せ、毛布を指でつまみながらため息をついた。


「ほんと、やっぱりミル姉にはかなわないな」


 その声には、あきらめと少しの寂しさが混じっていた。


「……アタシね、ずっとミル姉に憧れてたの」

「え?」

「同じ村で育ってきて、強くて、優しくて……いつもキラキラしてた。アタシも、あんなふうになりたかった」


 ランタンの灯が、彼女の横顔に影を作る。

 膝の上で、細い指がぎゅっと固まった。


「この街に来たのも、ミル姉の背中を追いかければ、アタシも変われる気がしたから」

「……」

「でも全然ダメだった。ダンジョン探索はちっとも上手くいかなくて、結局いつもミル姉に助けてもらってばっかりで……」


 エクレールは、指先でシーツの端をいじりながら、うつむいた。


「発情の呪いのときもそう。アタシが無理言って、あのダンジョンに連れてってもらったせいで……ミル姉まで巻き込んじゃった」


 ぽつり、ぽつりとこぼれる言葉には、悲しみの色がにじんでいた。


「……最低よね、アタシって。自分の都合で人を振り回して、迷惑かけて。今日だって……アタシのせいで、あんたが殴られてさ……」

「エクレール……」

「だ、だから、あんたも……もう……アタシに構わなくていいよ……。アタシのせいで、誰かが傷つくの、見たくないから……」


 最後の言葉は、涙でかすれていた。

 握りしめた拳が小刻みに震えている。


(……そうか)


 どうして僕が、エクレールを放っておけなかったのか――その理由が、ようやく分かった。


 彼女は、僕と同じなんだ。


 僕も、自分のことが嫌いだった。

 カッコいいスキルも、仲間を守る力もなくて。

 理想の自分からどんどん遠ざかっていくのが怖かった。


 努力しても報われなくて、いつしか自信のなさはあきらめに変わっていった。

 「僕なんか」って、何度も心の中で繰り返して。

 まるで、今の彼女みたいに。


 ――でも。


 そんな僕を、ミルフィさんが救ってくれた。


 『自信を持って、テオ君。キミは素敵な人よ。……キミが思うよりずっと』


 その言葉に、どれだけ救われただろう。


 だから今度は、僕の番だ。

 僕と同じように、自分を嫌いになりかけている彼女を――救いたい。


 僕はそっと口を開いた。


「エクレール。そんなに自分を責めないで」


 エクレールが、ゆっくりと顔を上げる。

 ランタンの光が、涙の跡をきらりと照らした。


「僕は、君のせいで殴られたなんて思ってない。自分がそうしたくてやったことだから」

「で、でもっ、アタシがミル姉みたいに強かったら、あんなことには……」

「ミルフィさんはミルフィさんで、エクレールはエクレールだよ」


 言いながら、少し笑ってみせる。


「素直じゃないし、強がりだし、口も悪いけど。本当は頑張り屋で、ちょっと不器用で、寂しがり屋で……それも全部ひっくるめてエクレールなんだよ」

「……っ」

「だからもう、自分を嫌いにならないで。君は素敵な人だよ。――君が思うよりも、ずっと」


 それは、かつて僕がミルフィさんからもらった言葉。

 心の奥でずっと、灯のように消えずにいた、救いの言葉。


 今度は、それを彼女に渡したいと思った。


 エクレールは、ひと言も発さないまま、じっと僕を見つめていた。

 月が雲に隠れ、部屋の中はさらに暗くなる。

 頼りないランタンの明かりの下、彼女がどんな顔をしているのか――はっきりとは見えなかった。


 やがて、自分の言葉の重さが恥ずかしくなってきた。


「え、えっと……あはは。なんか、くさかったかな。そ、それじゃ……今日はもう休んで――」


 そう言って、椅子から立ち上がりかけた、そのとき。


「待って」


 その一言が、僕の背中をぴたりと止めた。


「まだ……帰らないで」


 震える声。

 けれど、その奥に、確かな意志が宿っていた。


「エクレール……?」

「アタシ……やっぱり、そんなすぐには自分を好きになれない。でも――今日だけは、少しだけ、自分に素直になってみようと思うの」

「う、うん……?」

「だから、その……協力してくれる?」


 問い返す僕に、彼女は顔をそむけた。

 猫耳の根元まで真っ赤に染まっているのが、ランタンの灯りにもわかる。


「えっと……つまり、どういうこと?」

「……も、もうっ! ニブいわね!」


 さっぱり分からない僕を見て、彼女は恥ずかしそうに唇をとがらせ――そして、震える声で言った。


「だ――抱いて……ください」











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