第9話 守られた者の義務

夏姉なつねぇ! 夏姉なつねぇに酷いことをするな!」


 小次郎は、はっと目を覚ました。まだ夜明けには遠く、辺りは静まりかえっている。


 ウェリスとプエラはテントで寝ている――そう思いながら、小次郎はアロン村の村人を起こさぬようにそっと起き上がり、燠火に小枝をくべて火をおこした。


「嫌な夢だ。あの賊のねぐらで見た、殺された女性たちの光景のせいだろうな。さぞ無念だったろうに」


 小次郎は無念という言葉に、夏姫を重ねた。その手は硬く握られ、炎に照らされた顔は橙色に染まる。

 ふと、テントの方に目をやると、微かな寝息が聞こえる。小次郎は再び焚き火に目を向けると、心に誓った。


「姉さんとの約束は必ず守る」


 焚き火の揺らめきの中で、幼い日の記憶が小次郎の胸を締め付けた。あの一幕が、鮮烈に蘇る。


 ◇ ◇ ◇


「小次郎、脇が甘い。それでは父に近づくどころか、私にも追いつけませんよ。将来誰かを守る時に備え、もっと精進しなさい。それに、刀はそんなに堅く握ってはだめと言ったでしょ。さあ、もう一度掛かってきなさい」


 稽古場で夏姫が声を上げる。


「えー、夏姉様、もう無理だよ」

「夏、もう勘弁してあげなさい。それよりほら、頂いた梨を切ったからお食べ」

「もう、袖姉そでねぇ様は小次郎に甘いんだから」

「あー、春姉はるねぇ様、それ僕の梨。持っていかないでよ」

「へへ、小次郎、隙あり。悔しかったら、取り返してみなよ」

「えー」

「もう、春、お止めなさい。貴方の晩ご飯は抜きにしますよ」


 小次郎には三人の姉がいた。長女の袖姫は器量がよく、病弱な母に代わって家事を取り仕切り、妹弟の面倒をよく見ていた。次女の夏姫は女にしては武芸に秀で、小次郎の稽古相手であった。容赦ない稽古に小次郎はいつも泣きべそをかいた。三女の春姫は悪戯好きで、よく大人たちを手こずらせていた。小次郎は春姫に扇動されて大人たちに悪戯を仕掛け、一緒に追い回されていた。


 ◇ ◇ ◇


 小次郎が十一歳のころ、天下分け目の決戦が起きた。結果は西軍の敗走で、佐々木家は主君に従って西軍に与していたため、東軍になびいた者どもに狙われることになった。


 父・種元たねもとが敗戦後の所領安堵のために奔走している間のことだった。


(シュッ、タン、シュッ、タン)


 矢が突き刺さる音が屋敷に響く。


「奥方様、三姫様、小次郎様、お逃げください!」


 火の手が上がり、佐々木の館は混乱した。弓を取る者、抜刀する者。主人が不在の郎党は統制を欠き、右往左往するばかりだった。


「ええい、者ども、狼狽えるな。父に代わり私が指揮を取る。賊どもを撃ちはたせ。・・・袖姉様、母上と春、小次郎を頼みます」


 たすきを取り出し、袖を纏め、薙刀を持って踊り出たのは夏姫だった。父譲りの剣術に加え、厳しい鍛錬を課してきた夏姫にとっては、百姓上がりの賊どもなど敵ではなかった。刃を交わせば相手を叩き伏せ、旋回すれば血飛沫が舞った。まさに羅刹女のごとき働きである。


 しかし、その前に立ちはだかった者がいた。その佇まいは洗練され隙がない、田舎侍とは別格の実力を持つ侍だった。すでに佐々木の郎党は、この侍一人を止められず切られていた。


 夏姫はその侍を睨み付けた。


「種元の力量を測りに来たが、いないのなら仕方が無い。とはいえ、雌猿に恐れを成したと噂が立つのも心外だ。勝負してやろう」

「賊如きに負ける夏ではない。いざ尋常に勝負」

「威勢だけはいい」


 幾度か薙刀と刀が交差したが、常に夏姫が押し込まれ、最後には薙刀をたたき落とされて鳩尾に拳が入る。夏姫は息ができず、その場に倒れた。


「女にしては、まあまあだ。お前ら、私は帰る」

「細川様、此奴はどうしましょうか?」

「さあ、煮るなり焼くなり、勝手にしろ」


 侍は踵を返して去った。残された賊どもは夏姫のめくれ上がった裾から見えるふくらはぎに涎を垂らした。


 一方で、小次郎たちは春姫の秘密の抜け道を使い、屋敷の裏山に出て様子を窺っていた。屋敷の喧噪は止んでいる。小次郎は夏姫が賊を懲らしめ、自分たちを探していると思い込んでいた。


 探しに行くと言う小次郎の肩に母が手を置き、低く言った。


「気をつけるのよ。まだ残党がいるかもしれないから」


 屋敷に戻ると、火はまだくすぶっていて、目にするのは死体ばかり。夏姫の姿が見えない。小次郎は庭へ回り、夏姫の薙刀を見つけた。そのとき、初めて胸の奥に嫌な予感が広がった。


「止めろ、下郎。汚い手で触るな」――納屋の奥から夏姫の声がした。小次郎はその声に狼狽える。


「手を離せ、貴様……!」


 小次郎が納屋へ駆け寄り戸を開けようとしたとき、大きな腕が襟首を掴み、身動きが取れなくなった。


「離せ!」


 宙に浮いた脚をバタつかせても、何もできない。


「兄貴、外にこいつがいたよ」


 戸が開けられ、小次郎は夏姫の名を叫ぶ。


「夏姉!」


 しかし夏姫は困惑した顔で答えず、年長の男がにやにや笑っている。


「あーん。そうか。お前、ここの夏姫だったのか。ということは、この小僧は長男だな。おい姫様よ、舌を噛もうなんて思うんじゃねぇぞ。小僧がどうなっても知らねぇぜ。三次、そいつを縛っとけ」

「し、知らぬ。そんな小僧のことは知らぬ」


 もし小次郎が佐々木家の長男だと分かれば、何処に連れて行かれるか分からない。そう思った夏姫は小次郎を庇う方法を必死に探し、足に力を込めて賊の一人を蹴った。しかし他の賊が夏姫の顔に容赦なく拳を入れ、鈍い音が響いた。


「暴れんじゃねえ。あいつがどうなってもいいのか?」


 小次郎を押さえる大男とは別の男が小次郎の首に匕首を当てた。夏姫は一瞬力を失い、男たちに押し倒される。


「止めろ、このクソ共! 許さないぞ!」


 小次郎は必死にもがくが、大男の腕はびくともしない。さらに猿ぐつわで口を塞がれ、声は出せなくなった。切迫した思いで、夏姫に取り付く大男たちを罵倒するが、彼らは夏姫の衣服を剥ぎ取り、胸や脚を無理やり開かせ、冷酷に嘲笑った。


「へへへ、見てみろ。ひんむいてみたら、結構良い体してるぜ。おい、ちゃんと抑えてろ。此奴、女にしては力が強い。お前とお前、此奴の足をひろげろ。さあ、拝ませて貰うか。ひひひ」

「兄貴、俺も混ぜてくれよ」

「お前は最後だ。それをぶっ込んだら、この女のあそこは当分使えなくなる」


 大男は褌を外し、いきり立っているものを隠すこともなく指をくわえて立っていた。賊たちは夏姫を押さえつけ、衣服を剥ぎ取り、胸や脚を無理やり開かせて嘲笑を続けた。痛みと羞恥、絶望が夏姫の体を引き裂き、夏姫は息が止まりかけた。


 その脳裏には『小次郎を誰かが助けに来るまで時間を稼ぐ』と、このことだけを思った。


 それからは、小次郎は何も聞こえず、何も見えていなかった。彼の心は自我と切り離され、視界は真っ赤に染まった。鬼の形相の種元が全身の毛を逆立てて戸を蹴破り、男達を一人残らず惨殺し終えるまで、時間は止まっていた。


 助け出された時、小次郎は大声で泣いたが、程なくして意識を失う。三日後に意識を取り戻すと、屋敷は深い悲しみに沈んでいた。母と袖姫、春姫が代わる代わる看病してくれ、憔悴しきった種元が時折顔を見せたが、夏姫は来なかった。その事実の意味を、幼い小次郎は理解した。


 自分が納屋に近づかなければ、自分が夏姫の名を呼ばなければ、自分が捕まらなければ、夏姫は逃げられたのではないか――罪の意識が小次郎を苛んだ。食べても吐き、夜ごとにうなされ続けた。


 体調が戻らぬまま半年が過ぎ、小次郎は十二歳になった。種元は周囲の反対を押し切り、まだ寒さ残る春に小次郎を元服させた。


 その午後、種元は火鉢の横に正座していた。炭の赤が揺れ、障子越しの淡い光が室内を満たす。小次郎は頭を深く垂れ、父の前に座る。二人は、障子の明るさとは対照に影の中に沈んでいた。やがて、父の手から一片の紙が小次郎に差し出された。


 種元は重い口を開く。


「夏は、助け出された翌日、皆が目を離した隙に自害した。娘を守れなかった責任は全て儂にある」


 小次郎は床に両手を付き、顔を伏せた。涙が頬を伝い床に落ちる。


「お前の元服にあたって、皆はまだ早いと反対した。しかし、儂はそうは思わぬ。お前は、あの夏の犠牲を無駄にしないよう、守られた者の義務を果たすべきだと考えたからだ」


 小次郎は黙って父の言葉を聞く。


「命を懸け、女の尊厳を賭してお前を守った。お前がそれに応えねば、夏の人生は何だったのだ?」


 嗚咽をこらえながら、小次郎は父に問いかけた。


「守られた者の義務とは、何をすれば果たせますか?」


 種元は静かに答えた。


「守ることだ。お前が大切にする誰かを、二度とあのような目に遭わせぬよう、守り抜くことだ」


 小次郎はそのとき、稽古場での夏姫の言葉を思い出した。


『将来、誰かを守るために精進しなさい』


 ガツンと、夏姫の拳が頭に落ちた気がした。


「分かりました」


 小次郎は涙を拭い、父の顔を見た。種元は頷き、小次郎の前の紙片に目を落とした。


「それは、自害の直前に、夏が書き残したお前へのふみだ」


 小次郎は、その日からただ一心に剣を振った。人は彼を「剣聖の才あり」と持ち上げたが、彼の剣の根底にあったのは名誉でも栄達でもない。ただ「守るため」である。異国の地にあって「用心棒」と名乗るのは、その誓いの表れであった。


 ◇ ◇ ◇


 焚き火の前で、小次郎は首から下げたお守り袋を取り出した。小さな油紙を取り出して開くと、そこには一片の短い文があった。


『小次郎、助けに来てくれてありがとう。 夏』



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