第p話-5


 目標はある。

 なのに遅々として進まない。 


 冷たい雨が容赦なく体温を奪う。

 頭上を遮るものはない。あるはずがない。ここは土手の草むらだ。土砂降りの雨粒をもろに受ける。

 打たれ疲れて、意識が朦朧とする。

 屋根が欲しい。

 高架下はダメだ。車が、自転車が、歩行者が、いつ来るかわからない。かといって、商店街や地下鉄なんてもっての外だ。即、通報される。

 今、何月何日だ?

 凍える。歯がガチガチと鳴って止まらない。


 深夜まで耐えたところで、飯を探すことに必死で、便所目的地には一歩も近づかない。

 腹は満たされる。それだけだ。どれだけ満腹でも食堂から離れることができない。本能が許さない。

 腹をさすった。胸よりデカい膨れっ腹。唯一の安心材料。けど詰め込んだ飯が熱に変わるより早く、雨が体温を奪っていく。

 寒すぎる。食っても、食っても、寒い。

 これ、このまま眠ったら、死ぬ。

 私、死ぬのか?


 直哉が、私の腕を掴んだ。


「……おい、結衣。……あれ」


 食いながら見る。シャッターが閉まった商店街の、アーケードの隅。

 誰かが忘れていったのか、まだ新しい、大きめのダウンジャケットが二着、畳んで置いてあった。


「……は?」


 奇跡? 罠?

 どうでもいい。私たちはそれに飛びつき奪い合った。直哉を突き飛ばして袖を通す。……あったかい。さっきまでの地獄みたいな寒さが、嘘みたいに消えていく。


「……ラッキーじゃん」

「……ああ」


 直哉はおこぼれのダウンジャケットを羽織る。




 私たちは連日の奇跡に縋りついた。

 この土手を拠点と定めた。アーケードでは期待通りのことが起きる。

 まるで専用の配給口のように、毎日欠かさずに充填される宝箱ダストボックス

 ダウンジャケットの次の日は、雨風をしのげる厚手で巨大なブルーシートが見つかる。その次の日は錆びてはいるが頑丈な物干し竿が数本。

 土手の草むらに運んで、雨風を防ぐ豚小屋を必死に組み上げた。そこで来る日も来る日も次の奇跡を待った。

 ある日は保存用のタッパー。別の日には鍋。おあつらえ向きに、カセットコンロとガスボンベまで「忘れられて」いた。


「……おい、火、つくぞ」

「……あったかい」


 残飯を漁る日々は変わらない。

 だが、手に入れた鍋で、冷え切った残飯を温め直すという、人間じみた行為を覚えた。

 狙い通り、それらの奇跡は、そのたびに、私たちを人間だった頃に引き戻していく。

 この場所には、何かある。





「……なあ、結衣」


 直哉が、ボソリと言った。


「もう、いいんじゃねえか? ここで、こうして……」

「……うるさい。黙れ」


 こいつは、もうダメだ。

 日当50万のギラギラした光を忘れて、目の前の奇跡で満足しやがった。家畜堕ちしたクズが。

 でも、私も、この生ぬるい地獄から抜け出す気力がなかった。

 寒くない。飢えてない。ただ、臭くて、汚くて、明日がないだけ。


 私の腹も、この新しい生活に順応するように、順調に成長した。

 豚小屋で待っていれば、飯も、物資も、奇跡が運んでくるから。

 ただでさえ移動しないのに、人目を気にせずくつろげて、余分な体力を使わなくなった身体は、貪った飯のカロリーを、すべて腹に溜め込んでいく。

 胃袋はパンパンに膨れ上がってる。それでいて、備蓄した飯を起きている間ずっと食べ続ける。もはや常時苦しいのがデフォルトになった。座ってても、横になっても、重い内臓がズンと圧し掛かる。身動ぎするたびに腹の肉がドスンと揺れる。臨月の妊婦の腹より、醜く突き出てる。


 このままじゃ、ジリ貧だ。

 飼い殺しにされる。誰にかは分からない。


「……行くぞ」

「は……? どこへ」

「便所だよ!!」

「……馬鹿かお前! ここから離れたら、また、飢えるんだぞ!」


 そうだ。飢える。

 ここから離れたら地獄が待ってる。

 世間の冷たい目。

 犬のフンを食うまでになった、強烈な飢えが。

 ――記憶がフラッシュバックする。

 口の中に、アンモニア臭と砂利の感触が蘇る。吐き気がした。あんな思いをするくらいなら、今、ここで家畜になったほうがマシ?

 いや、違う。

 あんな思いをしたからこそ、掴まなきゃいけないんだ。日当50万を。


「う、うう……うううううううううっっっ!!!」


 私は、泣き叫びながら、直哉の胸ぐらを掴んで無理やり立たせた。


「行くんだよ!!!」





 奇跡を捨てた。ブルーシートで作った豚小屋も、鍋もタッパーもガスコンロも、全部捨てて、私たちは再び飢えの中を歩き出した。

 この季節は寒い。腹が減った。だが、もう残飯は漁らない。今だけ我慢だ。日当を手にして、身体を清潔にしたら、この身体で稼ぎまくって、飯を食いまくるんだ。吐くほど。吐いても。

 便所目的地だけを目指して、何日も、何日も、死んだように歩いた。


 そして、ついに辿り着いた。

 指定の公衆便所。駅前広場の丸時計は、23時を指している。ツイてる。風は私たちに吹いてる。


「……男便所……。一番奥の個室……」


 直哉が、震える声でつぶやく。

 悪臭漂う男便所に飛び込んだ。


「……は?」


 一番奥。そこにあったのは、小便器と、壁。

 個室が、ない。

 この便所には、そもそも個室が一つもなかった。


「……嘘……?」


 金。金。

 金金金金金金金。

 犬のフンを食う地獄に戻ってまで、掴もうとした希望が、ただの、イタズラ書き?


 小便器を蹴り付け、液体石鹸の容器を引き剥ぎ、破片が飛び散るのも構わず、鏡に叩きつける。洗面台のハンドル全てをかかとで落とした。水が出っぱなしになる。直哉が、その場に崩れ落ちて、赤ん坊のように泣き始めた。うるさい。頭カチ割るぞ。

 怒りのままに隣の女子便所へなだれ込んだ。


「……!」


 個室が、ある。それは当然。

 一番奥の個室だけが、閉まってる。


「……おい!!!! 開けろやオラァ!!!!」


 ドアを蹴り付ける。ガンガンと便所中に響く。


「金だ!! 金よこせ!!!! 中にいんだろ!!!」


 何度もドアノブごと破壊する勢いで蹴り付けた、その時。

 ガチャリ、と鍵が開いた。ドアが、ゆっくりと開いた。


「こんばんは。相川結衣さん」


 ――何でだよ。

 そこに立っていたのは。

 どうして。どうして。清潔なシャンプーの匂い。シワ一つない綺麗なコート。

 水族館の日以降、一番欲しかった、人間の世界のすべて。

 それが、なんで、よりにもよって、こいつなんだよ。

 水族館で、私が殴りつけた、あのブス。

 幸村陽菜。


「今日までお疲れ様でした。底辺以下の生活、いかがでしたか?」

「……何で、お前、ここ……」


 陽菜は、天使の顔で、言った。


「差し入れは、いかがでしたか?」


 ――。


「差、し、入、れ……?」


 奴が指さしたのは、私の胸元。

 ダウンジャケット。

 ブルーシート。タッパー。鍋。それどころか、毎日の飯。

 あれは、奇跡じゃ、なくて。


「こちら、前払いです」


 品のいいバッグから財布を取り出して、1万円を渡される。


「お仕事を受けてくれれば、残りをお渡しします。日当50万円ですから」


 誘導、された、のか?

 あのフリーペーパーの走り書きも?

 全部、こいつに。

 犬のフンを食って、化物に堕ちて、家畜に成り下がって、それでも最後の希望に縋りついて、必死にここまでたどり着いたこと、全部?

 こいつの手のひらの上で、踊らされてただけ。




「あ」


 膝から、力が抜けた。

 寒い。

 雨に濡れてるわけじゃない。

 何かが、プツン、と切れた。


「あはは」


 おかしい。全部おかしい。

 がくんがくん揺らされる。振り向くと、直哉だ。パクパクと口が動いているだけ。水の中にいるみたいに、何も聞こえない。別に聞かなくていいや。

 口の中にいつもこびりついていた、酸っぱい胃液の味が、しない。いいことだ。アンモニア臭と砂利の感触を思い出さなくていい。


「あはは。あはは。あはは」


 あはははは。

 私、醜い身体になっちゃった。

 腹、出過ぎ。皮膚、ガチガチ。

 こんなの、バケモンだ。

 私の夢。

 モデル。海外旅行。セレブ! 世界中から注目されて、もてはやされる。

 こんなバケモンじゃ、無理。

 夢。夢。夢。消えた。

 だって満腹感がバグっちゃった。

 膨れた腹の、鋭い痛みと、灼熱の飢餓感。

 きっと一生、お腹が空いてる。

 爆食いしないと、イキてる実感、感じられなくなっちゃった。


 まるでこれが、この生涯で私が感じられる、最後の匂いだ、とでも言うような、本能的な危機感が襲った。

 目の前の匂い。

 清潔な、シャンプーの匂い。

 私を、ここまで追い詰めた、悪魔の匂い。


 幸村陽菜、様が、天使の顔で、口を動かした。


「―――――――」

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