第p話-5
◇
目標はある。
なのに遅々として進まない。
冷たい雨が容赦なく体温を奪う。
頭上を遮るものはない。あるはずがない。ここは土手の草むらだ。土砂降りの雨粒をもろに受ける。
打たれ疲れて、意識が朦朧とする。
屋根が欲しい。
高架下はダメだ。車が、自転車が、歩行者が、いつ来るかわからない。かといって、商店街や地下鉄なんてもっての外だ。即、通報される。
今、何月何日だ?
凍える。歯がガチガチと鳴って止まらない。
深夜まで耐えたところで、飯を探すことに必死で、
腹は満たされる。それだけだ。どれだけ満腹でも食堂から離れることができない。本能が許さない。
腹をさすった。胸よりデカい膨れっ腹。唯一の安心材料。けど詰め込んだ飯が熱に変わるより早く、雨が体温を奪っていく。
寒すぎる。食っても、食っても、寒い。
これ、このまま眠ったら、死ぬ。
私、死ぬのか?
直哉が、私の腕を掴んだ。
「……おい、結衣。……あれ」
食いながら見る。シャッターが閉まった商店街の、アーケードの隅。
誰かが忘れていったのか、まだ新しい、大きめのダウンジャケットが二着、畳んで置いてあった。
「……は?」
奇跡? 罠?
どうでもいい。私たちはそれに飛びつき奪い合った。直哉を突き飛ばして袖を通す。……あったかい。さっきまでの地獄みたいな寒さが、嘘みたいに消えていく。
「……ラッキーじゃん」
「……ああ」
直哉はおこぼれのダウンジャケットを羽織る。
私たちは連日の奇跡に縋りついた。
この土手を拠点と定めた。アーケードでは期待通りのことが起きる。
まるで専用の配給口のように、毎日欠かさずに充填される
ダウンジャケットの次の日は、雨風をしのげる厚手で巨大なブルーシートが見つかる。その次の日は錆びてはいるが頑丈な物干し竿が数本。
土手の草むらに運んで、雨風を防ぐ豚小屋を必死に組み上げた。そこで来る日も来る日も次の奇跡を待った。
ある日は保存用のタッパー。別の日には鍋。おあつらえ向きに、カセットコンロとガスボンベまで「忘れられて」いた。
「……おい、火、つくぞ」
「……あったかい」
残飯を漁る日々は変わらない。
だが、手に入れた鍋で、冷え切った残飯を温め直すという、人間じみた行為を覚えた。
狙い通り、それらの奇跡は、そのたびに、私たちを人間だった頃に引き戻していく。
この場所には、何かある。
◇
「……なあ、結衣」
直哉が、ボソリと言った。
「もう、いいんじゃねえか? ここで、こうして……」
「……うるさい。黙れ」
こいつは、もうダメだ。
日当50万のギラギラした光を忘れて、目の前の奇跡で満足しやがった。家畜堕ちしたクズが。
でも、私も、この生ぬるい地獄から抜け出す気力がなかった。
寒くない。飢えてない。ただ、臭くて、汚くて、明日がないだけ。
私の腹も、この新しい生活に順応するように、順調に成長した。
豚小屋で待っていれば、飯も、物資も、奇跡が運んでくるから。
ただでさえ移動しないのに、人目を気にせずくつろげて、余分な体力を使わなくなった身体は、貪った飯のカロリーを、すべて腹に溜め込んでいく。
胃袋はパンパンに膨れ上がってる。それでいて、備蓄した飯を起きている間ずっと食べ続ける。もはや常時苦しいのがデフォルトになった。座ってても、横になっても、重い内臓がズンと圧し掛かる。身動ぎするたびに腹の肉がドスンと揺れる。臨月の妊婦の腹より、醜く突き出てる。
このままじゃ、ジリ貧だ。
飼い殺しにされる。誰にかは分からない。
「……行くぞ」
「は……? どこへ」
「便所だよ!!」
「……馬鹿かお前! ここから離れたら、また、飢えるんだぞ!」
そうだ。飢える。
ここから離れたら地獄が待ってる。
世間の冷たい目。
犬のフンを食うまでになった、強烈な飢えが。
――記憶がフラッシュバックする。
口の中に、アンモニア臭と砂利の感触が蘇る。吐き気がした。あんな思いをするくらいなら、今、ここで家畜になったほうがマシ?
いや、違う。
あんな思いをしたからこそ、掴まなきゃいけないんだ。日当50万を。
「う、うう……うううううううううっっっ!!!」
私は、泣き叫びながら、直哉の胸ぐらを掴んで無理やり立たせた。
「行くんだよ!!!」
◇
奇跡を捨てた。ブルーシートで作った豚小屋も、鍋もタッパーもガスコンロも、全部捨てて、私たちは再び飢えの中を歩き出した。
この季節は寒い。腹が減った。だが、もう残飯は漁らない。今だけ我慢だ。日当を手にして、身体を清潔にしたら、この身体で稼ぎまくって、飯を食いまくるんだ。吐くほど。吐いても。
そして、ついに辿り着いた。
指定の公衆便所。駅前広場の丸時計は、23時を指している。ツイてる。風は私たちに吹いてる。
「……男便所……。一番奥の個室……」
直哉が、震える声でつぶやく。
悪臭漂う男便所に飛び込んだ。
「……は?」
一番奥。そこにあったのは、小便器と、壁。
個室が、ない。
この便所には、そもそも個室が一つもなかった。
「……嘘……?」
金。金。
金金金金金金金。
犬のフンを食う地獄に戻ってまで、掴もうとした希望が、ただの、イタズラ書き?
小便器を蹴り付け、液体石鹸の容器を引き剥ぎ、破片が飛び散るのも構わず、鏡に叩きつける。洗面台のハンドル全てをかかとで落とした。水が出っぱなしになる。直哉が、その場に崩れ落ちて、赤ん坊のように泣き始めた。うるさい。頭カチ割るぞ。
怒りのままに隣の女子便所へなだれ込んだ。
「……!」
個室が、ある。それは当然。
一番奥の個室だけが、閉まってる。
「……おい!!!! 開けろやオラァ!!!!」
ドアを蹴り付ける。ガンガンと便所中に響く。
「金だ!! 金よこせ!!!! 中にいんだろ!!!」
何度もドアノブごと破壊する勢いで蹴り付けた、その時。
ガチャリ、と鍵が開いた。ドアが、ゆっくりと開いた。
「こんばんは。相川結衣さん」
――何でだよ。
そこに立っていたのは。
どうして。どうして。清潔なシャンプーの匂い。シワ一つない綺麗なコート。
水族館の日以降、一番欲しかった、人間の世界のすべて。
それが、なんで、よりにもよって、こいつなんだよ。
水族館で、私が殴りつけた、あのブス。
幸村陽菜。
「今日までお疲れ様でした。底辺以下の生活、いかがでしたか?」
「……何で、お前、ここ……」
陽菜は、天使の顔で、言った。
「差し入れは、いかがでしたか?」
――。
「差、し、入、れ……?」
奴が指さしたのは、私の胸元。
ダウンジャケット。
ブルーシート。タッパー。鍋。それどころか、毎日の飯。
あれは、奇跡じゃ、なくて。
「こちら、前払いです」
品のいいバッグから財布を取り出して、1万円を渡される。
「お仕事を受けてくれれば、残りをお渡しします。日当50万円ですから」
誘導、された、のか?
あのフリーペーパーの走り書きも?
全部、こいつに。
犬のフンを食って、化物に堕ちて、家畜に成り下がって、それでも最後の希望に縋りついて、必死にここまでたどり着いたこと、全部?
こいつの手のひらの上で、踊らされてただけ。
「あ」
膝から、力が抜けた。
寒い。
雨に濡れてるわけじゃない。
何かが、プツン、と切れた。
「あはは」
おかしい。全部おかしい。
がくんがくん揺らされる。振り向くと、直哉だ。パクパクと口が動いているだけ。水の中にいるみたいに、何も聞こえない。別に聞かなくていいや。
口の中にいつもこびりついていた、酸っぱい胃液の味が、しない。いいことだ。アンモニア臭と砂利の感触を思い出さなくていい。
「あはは。あはは。あはは」
あはははは。
私、醜い身体になっちゃった。
腹、出過ぎ。皮膚、ガチガチ。
こんなの、バケモンだ。
私の夢。
モデル。海外旅行。セレブ! 世界中から注目されて、もてはやされる。
こんなバケモンじゃ、無理。
夢。夢。夢。消えた。
だって満腹感がバグっちゃった。
膨れた腹の、鋭い痛みと、灼熱の飢餓感。
きっと一生、お腹が空いてる。
爆食いしないと、イキてる実感、感じられなくなっちゃった。
まるでこれが、この生涯で私が感じられる、最後の匂いだ、とでも言うような、本能的な危機感が襲った。
目の前の匂い。
清潔な、シャンプーの匂い。
私を、ここまで追い詰めた、悪魔の匂い。
幸村陽菜、様が、天使の顔で、口を動かした。
「―――――――」
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