第p話-4
フリーペーパーを握る、黒ずんだ指先が、震えた。
日当50万。なら、二人で100万。
その数字が、犬のフンを口にした絶望で死んだ脳を、無理やり再起動させる。金。金。金。そうだ、金さえあれば。私は人間に戻る。清潔なシャワーも、ふかふかのベッドも、私を崇める男も、全部、全部、金さえあれば取り戻せる。
私みたいな特別な存在が、こんな汚物にまみれた世界で、獣と同じ残飯を漁ってること自体が、バグだったんだ。
これは、そのバグが修正される、通知だ。
「……行くぞ」
先に動いたのは直哉だった。
脂でテカテカに光る髪。洗ってない服が肌に張り付き、異臭を放つ。もはやホームレスそのもの。だが、落ち窪んで濁った瞳だけが、ぎらぎらとした欲望で、不気味に燃えてた。
きっと私も同じ瞳をしてる。
これ以外に、私たちが人間に戻る方法は、もう、ない。
◇
炎上のきっかけになった忌まわしい街。
ここからどれだけ離れているかなんて知るわけがない。スマホも、金も、地図もない。あるのは、糞と残飯の吐瀉物でベタベタになった体と、ボロボロのスニーカー。そして希望。
やっぱり。やっぱり私たちはツイてる。
日当50万。たった一日働くだけで、クソみたいなネカフェ生活より、よっぽどいい暮らしができる。まだ終わってない。私たちは、こんなところで終わるタマじゃない。
これでまた人間に戻る。
今頃ぬくぬくと生きてるゴミども――ATM《湊》も、ブス《陽菜》も、私たちを笑った日本中のクズども全員を、今度こそ、見返してやる。
一刻も早く公衆便所に向かいたい。
だが、太陽が出ている間は、動けない。
水族館のクズ、ネカフェの獣の顔は、この国で最も有名な指名手配写真だ。
だから光のある時間は、拷問だ。
公園から移動した土手の隅。人目につかない、鬱蒼とした草むらの中で、ゴキブリみたいに息を潜め、ただひたすら夜を待つ。
世界が眠りにつき、人間が活動を終える深夜。待ち望んだ、獣の時間。
まずは腹ごしらえだ。土手から
そして土手道の暗闇を亡霊みたいに歩く。
目印は川。「土手沿いに行けば、いつかあの駅に着く」。直哉が、唯一残った大学の知識みたいに言った。それが合ってるかなんて知らない。信じるものがそれしかない。
足の裏が焼けるように痛い。スニーカーの底はとっくにすり減って、時折踏む鋭い小石の感触が、薄いゴム底を突き破ってダイレクトに伝わる。
朝日が昇る。また虫のように草むらへ避難する。
それを何日も繰り返した。もう指を折って数えてない。食うことに専念するせいで、距離はろくに進んでない気もする。
ずっと風呂に入ってない。
体が、酸っぱいなんて生易しいレベルを超えて、人を殺せそうな悪臭を放ち始めた。
鼻がバカになる。いや、もうなってる。その強烈な臭いすら、どこか麻痺して、受け入れてる。いずれ感じなくなったら、私は、人として、おしまい。
危機感とは裏腹に、これが「私」の臭いだと、脳が受容する準備をしてる。
息を、吸う。
むわっと、自分の体から発せられる腐敗臭が、酸っぱい胃液と、土手のドブ臭さと混じって、肺を満たす。
吐き気がするはずだ。
なのに。
「……んッ……」
背筋が、ぞわ、と粟立った。
吐き気じゃない。これは、もっと、熱い。
下腹部の一番奥が、きゅうと絞られるみたいに熱を持つ。
最近、おかしい。
汗と脂が混じった獣の臭い。人間だった頃の私なら気絶してた。なのに今、この汚さが、どこか私を興奮させる。
汚ければ汚いほど、惨めであればあるほど、脳が、身体が、勘違いして、喜んでる。
◇
今日も陽が消えた。だが、まだ動かない。
やがて川沿いの夜釣りの連中が引き上げた。頃合いだ。
「……行くぞ、結衣」
一日一度のチャンス。草むらから這い出て、土手から降りる。
商店街を見つけた。飲食店の裏口にある
「……うん。うまい」
直哉が、隣で同じように漁りながら言った。
喋る余裕があるなんて、どうかしてる。喋るくらいなら、一欠片でも多く飯を口に詰め込む。次の瞬間、通報されて、もうありつけないかもしれない。
でもご馳走ってのは認める。
ほんと日本人ってバカばっかり。こんなうまいもん、平気で残すなんて。店も店だ。捨てるなんて信じらんない。見てよ、このパスタ、ちゃんと味が染みてる。こっちの肉はまだ脂が甘い。そこらの貧乏人が、なけなしの金で食ってるコンビニ弁当なんかより、よっぽどカロリーが高くて、味が濃い。ていうかこれタダじゃん?
私、才能あるわ。金なんか一円も払わずに、こんなご馳走にありつけるんだから。
ATM《湊》が必死に稼いだバイト代で食わされてた、クソまずいファミレスのハンバーグなんかより、よっぽど濃密で、本物の味がする。
「……結衣。お前、オレより食うよな」
は?
「食わないでどうすんの? 次の深夜まで何も食えないのに。ていうか次はありつけないかもしれないんだよ? 食わなきゃ、死ぬじゃん。バカなの?」
直哉が恨めしそうな目で私を睨み、けど言い返せず、両手の残飯を口に運ぶ。んだよ、アンタも同じことやってんじゃん。
今日は大当たりだ。宝箱いっぱいに、尽きそうにないほど飯がある。
今はダイエットどころじゃない。どんなに満腹でも、吐き気が止まらなくても、飯を胃袋に詰める。もう一口も入らないって思えてからが本番だ。トントンと上下に屈伸する。胃を振って、無理やり詰められる余白をつくる。
ギッチギチの胃袋に、限界を遥かに超えて詰め込むと、呼吸するだけで戻しそうなほど苦しくて、達成感が脳を麻痺させる。喉の奥まで酸っぱい胃液がせり上がってくる。食道まで飯が詰まってる感覚。下を見ると、丸々でっぷりと膨れた、すっげえイカ腹。可能なときは欠かさず、何日も何週間も限界まで詰めた証。
手を添えると皮膚がパツパツに硬くて、張ってる。シャツをめくって肌をむき出しにした。夜風に冷える膨れ上がった腹を撫でると気持ちいい。愛おしむように撫でながら、えずきながら、まだ食べる。まだ足りない。腕を動かすだけで、満杯の腹がミシッと軋むけど、それでも食べる。
苦しさこそが「生」の実感。
空腹の恐怖を、汚れてしまった自分という認識を、物理的な痛みで上書きする快感。
胸よりも腹がデカくなる。意識が、大量の脂と炭水化物で酩酊する。あ、そろそろだ。快楽の波。最近気づいた。ドカ食いすると、その先に待ち受けているのは、絶頂。
もう一口、脂の塊を、無理やり喉にねじ込んだ。
瞬間、胃が、限界を超えた悲鳴を上げた。こぽぽぽっと、喉の奥が鳴った。
吐き気よりも早く、強烈な奔流が、脳天を突き抜けた。
「うあああ……ッッ♡」
苦しい。苦しい。苦しい。
苦しすぎて身体をよじることもできない。
限界を超えた痛みが快感に反転する。
ああ、ダメ。脳が焼ける。
胃袋どころか、腹ごと破裂しそうな激痛と、全身が弛緩していく幸福感が、 同時に私を襲う。
「……あああああああああッ……♡♡♡♡」
残飯と、涎と、胃液まみれの、汚れた口から、喘ぎ声が漏れた。
全身が痙攣する。視界が白く明滅した。
チョーカーを買った店で、直哉に腹をトントンされたときより、ずっと、気持ちいい……♡
「おい!? またかよ! こんなところで倒れんな!! 運ぶのオレだぞ!? 結衣……」
遠のく声。
朦朧とする意識。
これが、幸福。
残飯? ……ううん、違う。
これは、
私みたいな特別な人間は、黙ってても、こうして世界から食わせてもらえるんだ。
◇
――ぐっちゃぐちゃの思考で目覚めたとき、私は草むらにいた。
眩しい。朝だ。そう思った瞬間、知覚する。
胃が捩れるような激痛。加えて、全身を殴られたような倦怠感と、喉を焼く酸っぱい吐瀉物の臭い。
思わず、腹をさする。
……すごい。
昨夜詰め込んだかいあって、まだパンパンのままだ。
まるで石か鉛でも飲み込んだみたいに、カチカチに硬い。汚れたシャツの上からゆっくりと撫でると、薄い皮膚一枚を隔てて、膨れ上がった内臓そのものを直接愛撫しているような感触。痛い。苦しい。でも、限界まで膨らんだ圧迫感が、昨夜の幸福の証だ。
指先で硬い腹の頂点をそっと押す。
ズン、と奥に響く鈍い痛み。
「……ん……っ♡♡♡」
昨夜の
そして、臭い。
この激痛ですら誤魔化せないほど、酸っぱくっせえ、私自身の体臭。
恐る恐る、確かめるように、汚れたシャツの襟元を掴み、顔を近づける。
「ン゛ッ!!! オ゛エッッ……!!♡♡」
息を吸った瞬間に押し寄せる、圧倒的な腐敗と酸味。
汗と脂が何週間も放置され、熟成された臭い。昨夜の吐瀉物の残り香。土手の湿った泥の臭い。もはや生物が発していい領域を超えた激臭。人間だった頃の私なら、一秒も耐えられない地獄。
私の脳を、直接、灼いた。
「……んん、……ふ、ぅ……っっ」
ガチンガチンに硬く膨れた腹の激痛が、悪臭に呼応する。
汚い。臭い。苦しい。痛い。
――ああ、最悪。最高。
四つの感覚が、濁流みたいに一つになって、私の理性を押し流す。
「……っ、……ぁ……、あああ……ッ!!!!」
「うるせえな。起きたか、結衣。……見ろ」
――は?
いいところだったのに。
波がさあっと引いていく。最悪だ。殺してやろうか、コイツ。
直哉が無表情で、真っ黒になったスマホをかざした。
正気に戻った途端、ぶり返す激痛と吐き気で苦しすぎて、無理だ。覗き込めない。
直哉は、電源の入ってないスマホを、もっと私に近づけた。色んな角度から見せてくる。
黒い画面の向こう側には、私が映る。
今まで必死に保ってたモデルみたいな体型は、もう、ない。
垢で黒ずんだ顔の肉は不健康に削げ落ち、手足は木の枝みたいに細い。なのに腹だけが、まるで別の生き物みたいに、異常に膨れ上がってる。不気味なほど丸々と突き出た、妊婦みたいな腹。栄養失調の餓鬼かよ。
「だから何?」
腕でスマホを突き返す。うぷっ、動くだけで吐きそう。
こんな身体は、一時的なものだ。人間に戻るための通過儀礼。日当50万を手にするまでの我慢だ。
人間に戻ってから努力する。必ず取り戻せる。だから今は、生きることを最優先にする。機会があったら必ず貪るに決まってる。
それに歩き進むためには備蓄が必要でしょ。だから、そう、生きるために必要があってやってる。単なる暴食じゃない。
昨日も、ろくに進んでないけれど。
◇
草むらで息を潜めて、深夜をじっと待つ。
日が暮れた。けど、これからが長い。静まり返るまで待たないと、道端で誰かに出くわすだけで通報される。
日中は全く動かない。ある意味、食っちゃ寝みたいな生活だ。ここが高級マットレスのベッドだったら、まあ、受け入れてもいいのかもしれない。人間に戻ったときの食費を考えるとゾッとするから。
直哉も私の隣で横たわる。アンタも随分、腹出たな。出会った頃の腹筋なんて見る影もない、ぶよぶよの贅肉だ。
……ん?
何だか直哉から匂いがした。
もう一度嗅ぐ。気のせいじゃない。腐敗臭と汗の臭い、土手のドブ臭さに混じって、確かに甘ったるい飯の匂いがする。隠し持ってる。
昨日の夜、私があれだけ
灼熱の吐き気が、灼熱の 怒りと飢餓感に変わった。
「直哉」
振り向いた直哉に、私は獣のように覆いかぶさった。ぶちゅ、と腐った果実が潰れるような湿った音が響く。
唇と唇が潰れる感触。口の中の胃液の臭いと、直哉の口の中の噛み砕かれた食べカスが混じり合う。やっぱりか。コイツ甘いパン食いやがったな。
砂糖の味が、互いの粘りつく唾液と溶け合って、ぬるぬると舌に絡みつく。もっと深く舌を差し込んだ。食いきれなかったパンのカスを、私の舌で根こそぎ抉り取り、自分の口に掻き込む。ああ、うまい。直哉の唾液でふやけた飯が、たまらなくうまい。
「……んふ……ッ」
直哉も、私の舌を貪るように吸い始めた。口内の味を確かめるように、激しく舌を動かして、密着する。カッチカチの腹部に硬いモノが当たる。ああそう、お望みかよ。上からのしかかって、圧迫してやった。
直哉が「うおおおおおおッッ」みたいな雄叫びをあげる。
「ぷはっ。……ひょっとしたら、アンタの体重より重くなってる腹はどう?」
「……さい、……こう……だっ」
直哉が、カチカチの腹に、下腹部を思い切り押し付けながら、腰を突き上げてきた。
「……っ、ん、いつもより激し……っ♡」
「お前の中より、気持ちいいよ……!! この腹、ガッチガチでさあ……っ!!!」
「そう!? じゃあ、もっとお腹大きくしようかっ! どんくらい大きくしてほしい!?」
「……もっとだ……。もっと、顔も腕も痩せたまま、腹だけ双子も三つ子も孕んだぐらいデカくしろッッ!!! 化物になれ!!!!」
化物。
その言葉が、引き金になった。
さっきイきはぐねた醜悪な快感が、脳の奥底から蘇る。
「……あ、……ァ、……化物に、なっちゃう……ッ♡♡♡」
こんな気持ちいいなら、化物でもいい。
胸よりも腹がデカくて、想像を絶するほど臭くて、稼働する時間のほぼ全てが食うか寝るかヤるかに成り下がった、爛れた化物で、いい。
直哉の汚い欲望が、私の醜い快感を肯定した。それがどうしようもなく、気持ちいい。
「……っ、……ぁ……、あああ……ッ!!!!」
もう、止まらない。昨日みたいな、気絶するほどの奔流に、ほぼ同じ。
けど違うのは、もっと、深く。重い。
ねっとりと。腹の奥、子宮のさらに奥の、魂の核みたいな場所が、ぐずぐずに溶かされていく感覚。
腹が痛い。胃が焼けてる。全身が臭い。それが、全部、快感に変わる。
「……っ、は、……ぁ……、……イ、ク……ッ」
直哉が何か叫んでる。
けど、聞こえない。
「……~~~ッッッ♡♡♡♡」
びくん、びくん、と硬直した腹が勝手に痙攣する。
灼熱のマグマが、背骨を伝って、脳天まで突き抜けた。視界が、白く、白く、焼き切れる。
「……は、……ぁ、……ふ、……ぅ……」
全身の力が抜け、ぐっちゃぐちゃの思考で快感の余韻に酔いしれる。全体重を、抵抗なく直哉の上に預けた。
「……ぐ、……ぉも……っ」
直哉が、私のでっぷりと膨れた腹と、全体重に圧迫されて、苦しそうに呻く。
あ? さっきアンタ、それが良いって言ったんだぞ。ざまあみろ。
改めて思う。
もう今の時点で、体重は太った直哉よりありそうだ。手足は痩せ細り、腹だけが異常に膨れた、アンバランスな身体。男よりも体重の重い女。
直哉のスマホに映った私を思い出す。
ああ、そうだ。
これが、今の、私。
この臭いと、この醜さと、この痛みが、私自身。
ぜえぜえと息を吐く直哉の顔を覗き込み、その唇に、もう一度自分の唇を押し当てた。
別に愛情じゃない。さっきの甘いパンの味が、まだ舌に残ってないか確かめただけ。もうキスじゃない。
唇を離すと、白く濁った唾液で汚れた糸が、口の間に醜く引いた。
その糸を舌で舐め取り、直哉の耳元で熱い息を吐きながら囁いた。
「今日も、食べるから。見てろよ」
腹は減ってない。
未だ満腹だ。でも食べたい。
昨夜、もっと食べたかった。まだまだ飯が残ってた。
今もなお、胃袋ごと裏返りそうな、焼けるような灼熱の吐き気がするけど。
いっそこのまま意識が戻らなければよかったと本気で願うほどの、強烈な嘔吐感が、行為の最中も、今も、ずっと続いてるけど。
それでもなお。
腹は、脳は、まだまだ食べたいと狂ったように叫んでる。
……ああ。
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