第p話-4


 フリーペーパーを握る、黒ずんだ指先が、震えた。

 日当50万。なら、二人で100万。

 その数字が、犬のフンを口にした絶望で死んだ脳を、無理やり再起動させる。金。金。金。そうだ、金さえあれば。私は人間に戻る。清潔なシャワーも、ふかふかのベッドも、私を崇める男も、全部、全部、金さえあれば取り戻せる。

 私みたいな特別な存在が、こんな汚物にまみれた世界で、獣と同じ残飯を漁ってること自体が、バグだったんだ。

 これは、そのバグが修正される、通知だ。


「……行くぞ」


 先に動いたのは直哉だった。

 脂でテカテカに光る髪。洗ってない服が肌に張り付き、異臭を放つ。もはやホームレスそのもの。だが、落ち窪んで濁った瞳だけが、ぎらぎらとした欲望で、不気味に燃えてた。

 きっと私も同じ瞳をしてる。

 これ以外に、私たちが人間に戻る方法は、もう、ない。





 炎上のきっかけになった忌まわしい街。

 ここからどれだけ離れているかなんて知るわけがない。スマホも、金も、地図もない。あるのは、糞と残飯の吐瀉物でベタベタになった体と、ボロボロのスニーカー。そして希望。

 やっぱり。やっぱり私たちはツイてる。

 日当50万。たった一日働くだけで、クソみたいなネカフェ生活より、よっぽどいい暮らしができる。まだ終わってない。私たちは、こんなところで終わるタマじゃない。

 これでまた人間に戻る。

 今頃ぬくぬくと生きてるゴミども――ATM《湊》も、ブス《陽菜》も、私たちを笑った日本中のクズども全員を、今度こそ、見返してやる。


 一刻も早く公衆便所に向かいたい。

 だが、太陽が出ている間は、動けない。


 水族館のクズ、ネカフェの獣の顔は、この国で最も有名な指名手配写真だ。

 だから光のある時間は、拷問だ。

 公園から移動した土手の隅。人目につかない、鬱蒼とした草むらの中で、ゴキブリみたいに息を潜め、ただひたすら夜を待つ。

 世界が眠りにつき、人間が活動を終える深夜。待ち望んだ、獣の時間。


 まずは腹ごしらえだ。土手から下界に降りて、どこかで残飯を漁る。どんなに腹いっぱいになっても、限界を超えて詰め込む。明日は食べられないかもしれない。食べれるときに食べる、それがこの世界の必勝法。

 そして土手道の暗闇を亡霊みたいに歩く。

 目印は川。「土手沿いに行けば、いつかあの駅に着く」。直哉が、唯一残った大学の知識みたいに言った。それが合ってるかなんて知らない。信じるものがそれしかない。

 足の裏が焼けるように痛い。スニーカーの底はとっくにすり減って、時折踏む鋭い小石の感触が、薄いゴム底を突き破ってダイレクトに伝わる。

 朝日が昇る。また虫のように草むらへ避難する。

 それを何日も繰り返した。もう指を折って数えてない。食うことに専念するせいで、距離はろくに進んでない気もする。

 ずっと風呂に入ってない。

 体が、酸っぱいなんて生易しいレベルを超えて、人を殺せそうな悪臭を放ち始めた。

 鼻がバカになる。いや、もうなってる。その強烈な臭いすら、どこか麻痺して、受け入れてる。いずれ感じなくなったら、私は、人として、おしまい。

 危機感とは裏腹に、これが「私」の臭いだと、脳が受容する準備をしてる。

 息を、吸う。

 むわっと、自分の体から発せられる腐敗臭が、酸っぱい胃液と、土手のドブ臭さと混じって、肺を満たす。

 吐き気がするはずだ。

 なのに。


「……んッ……」


 背筋が、ぞわ、と粟立った。

 吐き気じゃない。これは、もっと、熱い。

 下腹部の一番奥が、きゅうと絞られるみたいに熱を持つ。

 最近、おかしい。

 汗と脂が混じった獣の臭い。人間だった頃の私なら気絶してた。なのに今、この汚さが、どこか私を興奮させる。

 汚ければ汚いほど、惨めであればあるほど、脳が、身体が、勘違いして、喜んでる。





 今日も陽が消えた。だが、まだ動かない。

 やがて川沿いの夜釣りの連中が引き上げた。頃合いだ。


「……行くぞ、結衣」


 一日一度のチャンス。草むらから這い出て、土手から降りる。

 商店街を見つけた。飲食店の裏口にある宝箱ダストボックス、中身は宝の山黒いゴミ袋。袋を破る手つきは手早く。客が食い残した脂っこいパスタの切れ端。誰かの唾液がついたかもしれない唐揚げの衣。暗闇の中で貪り食う。


「……うん。うまい」


 直哉が、隣で同じように漁りながら言った。

 喋る余裕があるなんて、どうかしてる。喋るくらいなら、一欠片でも多く飯を口に詰め込む。次の瞬間、通報されて、もうありつけないかもしれない。

 でもご馳走ってのは認める。

 ほんと日本人ってバカばっかり。こんなうまいもん、平気で残すなんて。店も店だ。捨てるなんて信じらんない。見てよ、このパスタ、ちゃんと味が染みてる。こっちの肉はまだ脂が甘い。そこらの貧乏人が、なけなしの金で食ってるコンビニ弁当なんかより、よっぽどカロリーが高くて、味が濃い。ていうかこれタダじゃん?

 私、才能あるわ。金なんか一円も払わずに、こんなご馳走にありつけるんだから。

 ATM《湊》が必死に稼いだバイト代で食わされてた、クソまずいファミレスのハンバーグなんかより、よっぽど濃密で、本物の味がする。


「……結衣。お前、オレより食うよな」


 は?


「食わないでどうすんの? 次の深夜まで何も食えないのに。ていうか次はありつけないかもしれないんだよ? 食わなきゃ、死ぬじゃん。バカなの?」


 直哉が恨めしそうな目で私を睨み、けど言い返せず、両手の残飯を口に運ぶ。んだよ、アンタも同じことやってんじゃん。

 今日は大当たりだ。宝箱いっぱいに、尽きそうにないほど飯がある。

 今はダイエットどころじゃない。どんなに満腹でも、吐き気が止まらなくても、飯を胃袋に詰める。もう一口も入らないって思えてからが本番だ。トントンと上下に屈伸する。胃を振って、無理やり詰められる余白をつくる。

 ギッチギチの胃袋に、限界を遥かに超えて詰め込むと、呼吸するだけで戻しそうなほど苦しくて、達成感が脳を麻痺させる。喉の奥まで酸っぱい胃液がせり上がってくる。食道まで飯が詰まってる感覚。下を見ると、丸々でっぷりと膨れた、すっげえイカ腹。可能なときは欠かさず、何日も何週間も限界まで詰めた証。

 手を添えると皮膚がパツパツに硬くて、張ってる。シャツをめくって肌をむき出しにした。夜風に冷える膨れ上がった腹を撫でると気持ちいい。愛おしむように撫でながら、えずきながら、まだ食べる。まだ足りない。腕を動かすだけで、満杯の腹がミシッと軋むけど、それでも食べる。

 苦しさこそが「生」の実感。

 空腹の恐怖を、汚れてしまった自分という認識を、物理的な痛みで上書きする快感。

 胸よりも腹がデカくなる。意識が、大量の脂と炭水化物で酩酊する。あ、そろそろだ。快楽の波。最近気づいた。ドカ食いすると、その先に待ち受けているのは、絶頂。


 もう一口、脂の塊を、無理やり喉にねじ込んだ。

 瞬間、胃が、限界を超えた悲鳴を上げた。こぽぽぽっと、喉の奥が鳴った。

 吐き気よりも早く、強烈な奔流が、脳天を突き抜けた。


「うあああ……ッッ♡」


 苦しい。苦しい。苦しい。

 苦しすぎて身体をよじることもできない。

 限界を超えた痛みが快感に反転する。

 ああ、ダメ。脳が焼ける。

 胃袋どころか、腹ごと破裂しそうな激痛と、全身が弛緩していく幸福感が、 同時に私を襲う。


「……あああああああああッ……♡♡♡♡」


  残飯と、涎と、胃液まみれの、汚れた口から、喘ぎ声が漏れた。

 全身が痙攣する。視界が白く明滅した。

 チョーカーを買った店で、直哉に腹をトントンされたときより、ずっと、気持ちいい……♡


「おい!? またかよ! こんなところで倒れんな!! 運ぶのオレだぞ!? 結衣……」


 遠のく声。

 朦朧とする意識。

 これが、幸福。

 残飯? ……ううん、違う。

 これは、社会ゴミどもからの、当然のお供え物。

 私みたいな特別な人間は、黙ってても、こうして世界から食わせてもらえるんだ。





 ――ぐっちゃぐちゃの思考で目覚めたとき、私は草むらにいた。

 眩しい。朝だ。そう思った瞬間、知覚する。

 胃が捩れるような激痛。加えて、全身を殴られたような倦怠感と、喉を焼く酸っぱい吐瀉物の臭い。


 思わず、腹をさする。

 ……すごい。

 昨夜詰め込んだかいあって、まだパンパンのままだ。


 まるで石か鉛でも飲み込んだみたいに、カチカチに硬い。汚れたシャツの上からゆっくりと撫でると、薄い皮膚一枚を隔てて、膨れ上がった内臓そのものを直接愛撫しているような感触。痛い。苦しい。でも、限界まで膨らんだ圧迫感が、昨夜の幸福の証だ。

 指先で硬い腹の頂点をそっと押す。

 ズン、と奥に響く鈍い痛み。


「……ん……っ♡♡♡」


 昨夜の絶頂気絶とは違う、じわじわと内側から込み上げるような、醜悪な快感。

 そして、臭い。

 この激痛ですら誤魔化せないほど、酸っぱくっせえ、私自身の体臭。

 恐る恐る、確かめるように、汚れたシャツの襟元を掴み、顔を近づける。


「ン゛ッ!!! オ゛エッッ……!!♡♡」


 息を吸った瞬間に押し寄せる、圧倒的な腐敗と酸味。

 汗と脂が何週間も放置され、熟成された臭い。昨夜の吐瀉物の残り香。土手の湿った泥の臭い。もはや生物が発していい領域を超えた激臭。人間だった頃の私なら、一秒も耐えられない地獄。

 私の脳を、直接、灼いた。


「……んん、……ふ、ぅ……っっ」


 ガチンガチンに硬く膨れた腹の激痛が、悪臭に呼応する。

 汚い。臭い。苦しい。痛い。

 ――ああ、最悪。最高。

 四つの感覚が、濁流みたいに一つになって、私の理性を押し流す。


「……っ、……ぁ……、あああ……ッ!!!!」

「うるせえな。起きたか、結衣。……見ろ」


 ――は?

 いいところだったのに。

 波がさあっと引いていく。最悪だ。殺してやろうか、コイツ。

 直哉が無表情で、真っ黒になったスマホをかざした。

 正気に戻った途端、ぶり返す激痛と吐き気で苦しすぎて、無理だ。覗き込めない。

 直哉は、電源の入ってないスマホを、もっと私に近づけた。色んな角度から見せてくる。

 黒い画面の向こう側には、私が映る。


 今まで必死に保ってたモデルみたいな体型は、もう、ない。

 垢で黒ずんだ顔の肉は不健康に削げ落ち、手足は木の枝みたいに細い。なのに腹だけが、まるで別の生き物みたいに、異常に膨れ上がってる。不気味なほど丸々と突き出た、妊婦みたいな腹。栄養失調の餓鬼かよ。


「だから何?」


 腕でスマホを突き返す。うぷっ、動くだけで吐きそう。

 こんな身体は、一時的なものだ。人間に戻るための通過儀礼。日当50万を手にするまでの我慢だ。

 人間に戻ってから努力する。必ず取り戻せる。だから今は、生きることを最優先にする。機会があったら必ず貪るに決まってる。

 それに歩き進むためには備蓄が必要でしょ。だから、そう、生きるために必要があってやってる。単なる暴食じゃない。

 昨日も、ろくに進んでないけれど。





 草むらで息を潜めて、深夜をじっと待つ。

 日が暮れた。けど、これからが長い。静まり返るまで待たないと、道端で誰かに出くわすだけで通報される。

 日中は全く動かない。ある意味、食っちゃ寝みたいな生活だ。ここが高級マットレスのベッドだったら、まあ、受け入れてもいいのかもしれない。人間に戻ったときの食費を考えるとゾッとするから。


 直哉も私の隣で横たわる。アンタも随分、腹出たな。出会った頃の腹筋なんて見る影もない、ぶよぶよの贅肉だ。

 ……ん?

 何だか直哉から匂いがした。

 もう一度嗅ぐ。気のせいじゃない。腐敗臭と汗の臭い、土手のドブ臭さに混じって、確かに甘ったるい飯の匂いがする。隠し持ってる。

 昨日の夜、私があれだけ苦しんでるイッてる間に、コイツ隠してたんだ。

 灼熱の吐き気が、灼熱の 怒りと飢餓感に変わった。


「直哉」


 振り向いた直哉に、私は獣のように覆いかぶさった。ぶちゅ、と腐った果実が潰れるような湿った音が響く。

 唇と唇が潰れる感触。口の中の胃液の臭いと、直哉の口の中の噛み砕かれた食べカスが混じり合う。やっぱりか。コイツ甘いパン食いやがったな。

 砂糖の味が、互いの粘りつく唾液と溶け合って、ぬるぬると舌に絡みつく。もっと深く舌を差し込んだ。食いきれなかったパンのカスを、私の舌で根こそぎ抉り取り、自分の口に掻き込む。ああ、うまい。直哉の唾液でふやけた飯が、たまらなくうまい。


「……んふ……ッ」


 直哉も、私の舌を貪るように吸い始めた。口内の味を確かめるように、激しく舌を動かして、密着する。カッチカチの腹部に硬いモノが当たる。ああそう、お望みかよ。上からのしかかって、圧迫してやった。

 直哉が「うおおおおおおッッ」みたいな雄叫びをあげる。


「ぷはっ。……ひょっとしたら、アンタの体重より重くなってる腹はどう?」

「……さい、……こう……だっ」


 直哉が、カチカチの腹に、下腹部を思い切り押し付けながら、腰を突き上げてきた。


「……っ、ん、いつもより激し……っ♡」

「お前の中より、気持ちいいよ……!! この腹、ガッチガチでさあ……っ!!!」

「そう!? じゃあ、もっとお腹大きくしようかっ! どんくらい大きくしてほしい!?」

「……もっとだ……。もっと、顔も腕も痩せたまま、腹だけ双子も三つ子も孕んだぐらいデカくしろッッ!!! 化物になれ!!!!」


 化物。

 その言葉が、引き金になった。

 さっきイきはぐねた醜悪な快感が、脳の奥底から蘇る。


「……あ、……ァ、……化物に、なっちゃう……ッ♡♡♡」


 こんな気持ちいいなら、化物でもいい。

 胸よりも腹がデカくて、想像を絶するほど臭くて、稼働する時間のほぼ全てが食うか寝るかヤるかに成り下がった、爛れた化物で、いい。

 直哉の汚い欲望が、私の醜い快感を肯定した。それがどうしようもなく、気持ちいい。


「……っ、……ぁ……、あああ……ッ!!!!」


 もう、止まらない。昨日みたいな、気絶するほどの奔流に、ほぼ同じ。

 けど違うのは、もっと、深く。重い。

 ねっとりと。腹の奥、子宮のさらに奥の、魂の核みたいな場所が、ぐずぐずに溶かされていく感覚。

 腹が痛い。胃が焼けてる。全身が臭い。それが、全部、快感に変わる。


「……っ、は、……ぁ……、……イ、ク……ッ」


 直哉が何か叫んでる。

 けど、聞こえない。


「……~~~ッッッ♡♡♡♡」


 びくん、びくん、と硬直した腹が勝手に痙攣する。

 灼熱のマグマが、背骨を伝って、脳天まで突き抜けた。視界が、白く、白く、焼き切れる。


「……は、……ぁ、……ふ、……ぅ……」


 全身の力が抜け、ぐっちゃぐちゃの思考で快感の余韻に酔いしれる。全体重を、抵抗なく直哉の上に預けた。


「……ぐ、……ぉも……っ」


 直哉が、私のでっぷりと膨れた腹と、全体重に圧迫されて、苦しそうに呻く。

 あ? さっきアンタ、それが良いって言ったんだぞ。ざまあみろ。

 改めて思う。

 もう今の時点で、体重は太った直哉よりありそうだ。手足は痩せ細り、腹だけが異常に膨れた、アンバランスな身体。男よりも体重の重い女。

 直哉のスマホに映った私を思い出す。

 ああ、そうだ。

 これが、今の、私。

 この臭いと、この醜さと、この痛みが、私自身。


 ぜえぜえと息を吐く直哉の顔を覗き込み、その唇に、もう一度自分の唇を押し当てた。

 別に愛情じゃない。さっきの甘いパンの味が、まだ舌に残ってないか確かめただけ。もうキスじゃない。残飯排泄物唾液ごと摂取する、獣じみた確認行為だ。

 唇を離すと、白く濁った唾液で汚れた糸が、口の間に醜く引いた。

 その糸を舌で舐め取り、直哉の耳元で熱い息を吐きながら囁いた。


「今日も、食べるから。見てろよ」


 腹は減ってない。

 未だ満腹だ。でも食べたい。

 昨夜、もっと食べたかった。まだまだ飯が残ってた。

 今もなお、胃袋ごと裏返りそうな、焼けるような灼熱の吐き気がするけど。

 いっそこのまま意識が戻らなければよかったと本気で願うほどの、強烈な嘔吐感が、行為の最中も、今も、ずっと続いてるけど。

 それでもなお。

  腹は、脳は、まだまだ食べたいと狂ったように叫んでる。


 ……ああ。

 便所目的地には、一体、いつになったらたどり着けるんだ?


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