第4話 しゃべるぬいぐるみとスピ(仮)デビュー

時は遡りーーおよそ8ヶ月前。

あれは高校1年生の終わり際、3月のことだ。

その日春陽はるひは、がんばったはずの期末テストの結果が思いのほか悪くて、すっかり自信を失っていた。


気分転換のために、志部谷しぶやでショッピングを楽しんだりしていたのだが、やはり天ヶ瀬あまがせの家に帰ると、浮上しかけた気持ちがしおしおと萎む。

真紅の絨毯の敷かれた長い廊下に立ち並ぶ、6人の兄姉の部屋の前を通り過ぎると、自然とため息が出た。


(やっぱり僕だけ、違うんだよなあ)


天ヶ瀬家のしつけや教育は、特別スパルタというわけではない。それなのにーー春陽の兄姉はそろいもそろってものすごく優秀なのだ。

春陽同様6人とも名門・星ヶ峯で育ったが、学校内では一番以外をとったことがないような頭脳レベルの高さである。

一方の春陽は、天ヶ瀬家の一員として己を厳しく律し、勉学に関しては決して手を抜かなかったけど、成績は常に首位とは行かなかった。

春陽は兄姉とは微妙に違いのある生まれなぶん、こういうことがあると心にくる。


けれど、くよくよしているとお兄様もお姉さまも松岡もみんなが心配してしまう。

買い物に付き合ってくれた松岡の前では明るく振る舞いつつ、部屋の前で別れを告げる。


なんとか元気を出そうと、部屋に入るなり先ほど気まぐれに買った秋田犬のぬいぐるみを袋から出してみた。

居室の机の上にちょこんと置いて目線の位置を合わせると、黒いつぶらな瞳が春陽を一心にに見つめてきて、愛おしさで胸がキュンとなる。


ぬいぐるみだけど、サイズはそんなに大きくないのもいい。背丈は文庫本くらいだろうか?

耳の下から目までの頭の部分が薄茶の色をしているけど、顔の部分は白いから黒い瞳と鼻がつやんと見える。

スマホで調べてみると、秋田犬とは実際にそういう模様が多いらしかった。


(でもなんか、物足りないかも?)


ぬいぐるみを観察しながら、春陽はうーんと首を捻る。ぬいぐるみには赤い首輪が巻いてあるけど、ちょっと平凡すぎる気がするのだ。

というか、このザ・素朴飼い犬ルックだと天ヶ瀬邸の優美な作りには似合わない。


春陽はこの犬にピオールの素敵なスカーフを巻いてあげようと思い立ち、部屋の左奥にあるクローゼットへ向かった。


ーーその瞬間。

背後からすっとんきょうな声が聞こえてきた。


「飼いムチ!どこに行くム!ムッチーとおしゃべりしてくれないム?もしかして、ムッチーの声、聞こえてないム?ムッチー、飼いムチとおしゃべりできるのとっても楽しみにしてたのにム!」


ーー春陽は名家・天ヶ瀬家の末っ子として、これまでの人生の中でこの世にある貴重なものや珍しいものは、ずいぶんたくさんお目にかかる機会をもらっていた。

例えば、漆塗りのトイレ。例えば、宝石でできたフルーツの指輪。例えば、500年前のレースで仕立てたドレス。

こないだなんかは、自家用ジェット機にのっていたら、偶然オーロラが見えて、とても感動した。


けれども、こんなに驚いたのは人生で初めてだった。


なんせ、振り返った先では、のだ。

しゃべっているのみならず、動いているし、もっと言えば表情もある。


(つまり、ぬいぐるみが生きてる?!)


春陽はストレスか何かでついに自分の耳がおかしくなったのかと思って呆然と立ち尽くした。あごに軽く手を添えて何が起きているのかを考えつつ、もう一度ピーピーと喚き立てるその声に耳を澄ますと、やはりどう考えても人語を喋っている。


「飼いムチ〜!無視しないでほしいム!ムッチー、悲しいム〜!!!ずーっと会いたかったんだム〜!」


ぬいぐるみはわめきながら机から飛び降りた。

フリーズしたままの春陽の元へ、ぬいぐるみが一心不乱に駆け寄ってくる。

そして、春陽の足元で、ぬいぐるみはムッチムッチと哀れな声をあげて泣き始めた。


その姿に春陽の心はきゅーんと絞られたようになった。

かわいそうで、なんとも可愛い。


春陽は、自身の驚きメーターを上回る勢いでかわいいメーターが振り切れるのを感じた。

そして、初動の遅れを反省しつつ、こほんと咳払いをしてムッチーに手を差し伸べた。


「泣かないで!きみ、お名前はムッチーっていうの?まさかしゃべれるなんて思わなかったんだよ、ごめんね」


春陽が優しく声をかけてそっと抱き上げる。

驚きと戸惑いは依然としてあるものの、まあ、この世には数多と珍しいものがあるのだから、このムッチーとやらもその中のひとつだろうといったん結論づけることにした。


まずはこのかわいそうでかわい生き物(仮)の涙を止めるのが先決だ。

その頭を撫でてやると、ぬいぐるみことムッチーの涙はぴたりと止まった。


「飼いムチ〜!やっぱり聞こえてたム!魔王様がもしかしたら聞こえないかもっておどかすムから、ムッチー、心配になっちゃったムよ!」


春陽の腕の中でぴょこぴょこ跳ねながらムッチーとやらが嬉しそうに喋っている。

魔王様って一体何のことだろうかと思い、春陽はムッチーに質問をしようと声を上げた。


「ムッチーとやら、魔王さ…」


その声を遮るようにムッチーがはっとした様子で続ける。


「もしかして、飼いムチ、ちょっとだけフィオリアの記憶戻ってるム? ムッチー見てもびっくりしないし、きっとそうムね! セオドアにはもう会えたム? もしかしてもう結婚したム?このお城にセオドアもいるム?」


怒涛の知らない単語のお出ましに、春陽はまたしても頭がクラクラしてきた。

フィオなんとかに、セド…なんとか?いったいぜんたい、このぬいぐるみはなんの話をしているのだろうか。


しゃべるぬいぐるみというトンチキな事態を受け入れたのだから、せめてその話す内容くらいはまともであってほしいものだが、そうもいかないようだ。


「ちょ、ちょっと待ってムッチー…とやら。さっきから、な、なんの話をしてるんだい?キミは。いくら頭が柔らかい僕でも、ちょっと何を言っているかわからないんだけど…」


「あわ、戻ってないムね?!まずいム!どうしよムー!」


「ムッチー!」


たまらず、春陽は大きな声で制した。

このぬいぐるみはどうやらパニックになりやすいらしい。


「ム!」


良いお返事をして、ムッチーが腕の中で姿勢を正す。よく調教されたぬいぐるみ(?)らしく、一喝するとキリリした表情になった。


春陽はこほんともう一度咳払いをする。

父・正隆のが役に立つ瞬間だ。目下のものが惑っている時こそ、威厳と余裕を持って接するべし。

なるべく、平静な表情を作ってから、貴族的なアルカイックスマイルを浮かべて話す。


「よろしい。君の言っていることをきちんを聞くから、順序立てて説明してくれるかな?」


「かしこまりム!」


その返事を聞いて、春陽はソファに腰掛け、ムッチーをソファの前のティーテーブルに置いた。

ムッチーの下には、目線が合うようにシルクのカバーのついたクッションを3つ重ねてやる。

ぬいぐるみだろうがなんだろうが、話をするときは目と目を合わせて話すといいはずだ。


「さあ、これでおしゃべりしやすくなったね。ムッチーとやら、話してごらん?」


微笑んで促すと、ムッチーは急に人見知りをしたのか、ちょっと照れたように口を開いた。

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