第3話 八つの祈り
素戔嗚尊は腰に剣を帯び、湯村の郷をあとにして、斐伊川の上流へと歩みを進めましたが、クシナダが「お待ちください。」と彼を呼び止めました。そして、ふたつの小さな布包みをそっと差し出したのです。
「これは?」
「……こちらは、父様と母様から。ここより下流、神庭(かんば)の郷の鏡作部(かがみつくりべ)、天糠戸命(あめのぬかどのみこと)様が磨き上げた鏡です。穢れを祓い、真実の姿を映し出す力があると伝えられています。何かお役に立てれば、と言付かりました。」
素戔嗚尊が黙って受け取ると、クシナダはもう一方の包みを、ぎゅっと両手で握りしめながら、少し口ごもります。けれど、決意したように、語り始めました。
「……そしてこちらは、姉さまたちが、私に託してくれたものです。」
その瞳には、うっすらと涙がにじんでいました。
「私たち八人姉妹が、まだ小さかった頃。父様と母様、姉さまたちと一緒に玉湯の郷に行ったときに、私たち姉妹にそれぞれ一つずついただいたお守り……八つの勾玉(まがたま)です。」
包みを開くと、そこには色とりどりの小さな勾玉が並んでいました。形も大きさも少しずつ違いますが、どれからも不思議な温もりが感じられ、手のひらにのせれば、まるで命が宿っているかのようでした。
「玉湯の郷の玉造部(たまつくりべ)、玉祖命(たまのおやのみこと)様から譲ってもらったそうです。姉さまは、生贄として連れて行かれる前に、私にこう言い残されました。」
『いつか、あなたの前に、すべてを託せる、信じられる方が現れるでしょう。それまでは、あなたが、大切に持っているのですよ。』
クシナダは顔をあげて、素戔嗚尊をまっすぐに見つめました。
「だから、あなたに託したいのです。姉さまたちの想いを。八つの命の祈りとともに。」
素戔嗚尊は、しばし言葉を失ったまま勾玉を見つめ、やがて静かにうなずくと、それを懐深くにしまいこみました。
「……八つの想い。八つの命。八つの祈り。重いものを預けられたな……娘御。必ず守ってみせよう。」
そして彼は、再び歩き出しました。
向かう先は、斐伊川の源流・船通山。
そこに待ち受けるのは――八つの頭を持つ大蛇、八岐大蛇。
神と魔との決戦、日本神話最大の激闘の幕が開かれようとしていたのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます