第45話
森を覆う朝霧が、いつもより濃く感じる。
昨晩の雨のせいで少しぬかるんでいる足元に気をつけながら、ふたりは先を急いだ。
「署長さんに知らせないのか?」
前を歩くトビーが、振り返らずに尋ねてきた。
「……この森には誰も入らせるわけにはいかないよ」
「毒霧のことなんて気にしてる場合かよ。状況わかってるのか? 誘拐事件だぞ?」
「まだ決まったわけじゃない。それに、今は誰を信頼していいのかわからない」
伯父が誘拐犯だという確信をもってはいない。それでも、ウォルターの足は迷わず進んていく。この森に誘拐するなら連れていきそうな場所に心当たりがあるからだ。
「悪人は守り神に裁かれて、地獄へ落ちる」
唐突なフレーズは、森でレイラに襲われた時に彼女が言っていたものだ。
立ち止まって振り返ったトビーは真剣な顔をして、「犯人の言葉なんだよな?」と続けた。
「……トビーは、伯父さんがシリアルキラーだって思ってる?」
犯人の言葉から読み取れる信仰心。レイラ誘拐の疑い。
当然だろうと返されると思っていた。だが、予想に反してなにやら考え込む様子を見せた。
「犯人が伯父さんだとしたらさ、なんか矛盾しないか?」
「え……だって、伯父さんはレイラを悪人だと思ってて、だからこの町の平和のために……」
「それだよ。レイラを悪人扱いしてるのは、お前の兄ちゃんを殺した犯人だって疑ってるからだ。まぁ、そういうふりをしてるだけかもしんねぇけどさ……俺としては、さすがにあの人が自分の甥を殺したなんて思いたくねぇな」
言いながら歩き出す背中を、ウォルターは混乱しながら追う。
「それに、もし伯父さんが信仰心を拗らせて殺してたとしたら……」
「なんだよ」
「憎くて憎くて堪らないって感じじゃなくね?」
「それは、俺も気になってたけど……」
レイラが抗っている殺意は、信仰心からくる使命感のようなものとは違う気がした。
ウォルター自身がぶつけられた怒りは、かなり感情的で激しかった。もっとも、悪人への恐怖心の裏返しで憎しみが膨れ上がった結果かもしれないが。
〝代行者〟の動機は伯父に当てはまる。
選ばれた被害者はダニエルの妹の元恋人たちや、なんらかの関りがある人物。
「……連続殺人はふたりの共犯とか?」
ふと浮かんだ考えを口にする。
「組む理由はなんだ? ダニエルは守り神なんて信じてないんじゃなかったか? 実は信仰深かったのか? それとも、信仰心があるふりをして妹の恋人たちを伯父さんに殺させた?」
「わからないよ……でも……」
殺人犯がふたりなら、ひとつの疑問が解消する気がする。
ダニエルは本当に自殺だったのか。
遺書が見つかった今もなお疑いを捨てきれないウォルターは、何度も彼の死を思い返しているうちに違和感に気づいた。
彼もまた、トビーの時のように両手首が切れていた。血が流れ落ちる手でもう片方の手首を切ったにしては、シャツに広がる血の染みが少なかったように思う。
些細な引っかかりだと思っていたが、もしも、伯父がダニエルを殺したのだとしたら。そう考えると腑に落ちる。
(でも、なんで殺す……?)
濃い霧で迷いそうになる森の中を歩いていると、なんだか頭の中まで霧がかかったようで思考力を奪われそうだ。そもそも、今こんなことを考えたって……。
はっとして、逃避癖を追い払うように頭を振った。
憶測でもなんでも、現状を把握するヒントを少しでも多く得たい。
「溺愛、信仰心……なんだろう、なんだかどっちの動機も現実味がないっていうか、ドラマとか映画の話みたいだ」
「現実味か……そうだよ、そうなんだよなぁ。あれはやっぱり、ちょっと無理があるんじゃねぇのか」
少し考えて、何についてか訊こうとしたが、先にトビーが口を開いた。
「八年前、犯人はオオカミのマスクをつけてたんだよな? ただでさえ濃い霧の中で、マスクを被った奴の感情が声だけでわかるのか?」
数歩先を歩くトビーの姿すらはっきりとは見えない。
あの日も、こんな濃い霧が出ていただろうか。
「声だけでも共感が避けられない時はあるよ。それでダイナーでは、二度もパンケーキを頼む羽目になったし……」
「一時的にメニュー選びに影響が出るのとは訳が違う。たった一言で、八年も続く殺意だぜ」
「……でも、実際聞こえたから共感してしまったんじゃないか」
「〝ごめんなさい。私はトビーを助けられなかった〟」
一瞬、心がざわつく。それは何度も読み返した置手紙の一文。
振り向いたトビーはどこか悲しそうな、淋しそうな顔をしていた。
思わず立ち止まったウォルターを促すように、足元の悪い森の中を器用に後ろ向きで進んでいく。
「なぁウォルター。ひょっとしてあの時、〝地獄へ落ちろ〟って願ったのは、俺なんじゃねぇのかな」
「……え?」
「あぁ、悪い。俺じゃなくて、お前の兄ちゃんのほうな」
「それって……」
「レイラが犯人を見たとき、トビーはまだ生きてたんじゃねぇのか?」
「……じゃあ……レイラが共感したのって……」
「自分を殺す殺人鬼への殺意。シンプルに強烈だろ?」
ふと思い出す。レイラはクロエの一目惚れの相手がウォルターだと勘違いしていた。
あの日の殺意も、犯人のものだと思い込んでいたのだとしたら……。
――悪人は守り神に裁かれて、地獄へ落ちる。
死が迫りくる絶望の中で、希望を見出そうとした。
視界を遮る霧などものともせず、憎悪にまみれた希望は、彼女の心に深く深く根付いてしまった。
「……マスク……」
昨日レイラは、街中でサングラスを外した。
いつもならすぐにかけ直すのに、あの時彼女は平気そうだった。
「必要なかったんだろ」
「レイラは気づいたんだ……いや、思い出したのかも」
その声が、トビーの口から出たものだったと。
もしかしたら、犯人を睨みつけるトビーの目を見たのかもしれない。
だから、〝助けられなかった〟と書いた。
「マズいな」
「え……?」
「伯父さんに誘拐されたとして、この状況をレイラはどう考える?」
「どうって……」
「自分を誘拐する目的は? もしこの森に連れてこられたんなら、どうしたって考えるんじゃないか? オオカミ男は本当にダニエルだったのか? って」
伯父は八年前、殺意に駆られたレイラからウォルターを助けた。あの場にいたのだ。
「そしてこう思う。目の前の男が真犯人で、ダニエルはこいつに殺されたんだって」
「タイミング的に通報がバレたのかもって……いや、その前に目撃者なわけだし――」
「それよりもさ」
遮るように言うトビーの意図に気づく。
(ああ、そうか。レイラの気持ちになって考えないと……)
「捜してた犯人のほうから来た」
口にすると一層、とてもまともではないと感じる。それでも。
レイラの心に寄り添おうと思えば思うほど、その考えに至ってしまう。
最悪の状況でも、彼女にとっては絶好の機会なのではないか。
「ウォルター。きっとあの子は、トビーの代わりに復讐する気だ」
――私はべつに、復讐しようなんて考えてなかった。
「まさか……それが〝やるべきこと〟?」
――この殺意だけは消えない。これは他人のものだけど、私にとっては他人事じゃないの。だから、知りたかった。どうして人を殺したいのか。本人に会えば、この憎しみの理由を知ることができたら……もしかしたらなにか変わるかもしれないって……。
目的地への近道になっている獣道の前に、見慣れたペンダントが落ちていた。
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