名も知らぬ 花の香にさへ 惑ふとは 匂ふ御前の 風に消ゆべし 1
二条院の長い廊下
秋の気配を感じる夜風が、袖をそっと揺らす
外には、眩いばかりの月が遠くに輝いていた
読み物や琴にも集中出来ず、わたくしは一人、足音も立てず歩いてゆく
それもこれも、全部あの女のせい
扇を持つ手に力が入り、唇を噛む
あの素性の知れない女…
『これは…秋の、月の夜を思わせるような…切なくも甘い香…』
『花の宴のような…肌寒くも暖かい…夜の香』
『沈香が静けさを語り、龍脳が月光のように照らしております…』
つかみどころのない巧みな香を調合しおって…
源氏様の眼差し、あの微笑み
『この香を、また焚いていただけますか』
賞賛の言葉…
それらは、本来、わたくしのものであるはずだったのに
「素性の知れぬ、名もなき女ごときが、わたくしを凌ぐなど…許せようか」
廊下の柱に寄り、わたくしは一瞬立ち止まる
遠くに見える香の間では、誰かが焚いている香の煙がのぼっていた
立ち上る煙を忌々しく睨み据えるように見つめる
わたくしが丹精込めて調合した香は、確かに雅やかだったはず
なのに、源氏様の心はあの女の香に奪われた
あの女の、妙にふてぶてしいまでの落ち着き
それがわたくしの癪に障る
ふと、匂い立つ香に思い至る
「そうだ
あの御方なら…藤壺の女御様なら、あの女の香など軽く凌駕する…」
藤壺の女御様に仕えた日々を思い出す
あの方の、几帳の向こうで、沈香や白檀を調える姿
その手つきは、まるで和歌を詠むが如く優雅であった
女御様の香は、宮中でも随一と謳われる
気高さ、深みのある香の前では、あの女の香など、ただの児戯にすぎぬ
なにより…
唇に笑みが浮かぶ
扇を開き、口元を隠して、そっと笑う
「ふふ
藤壺の女御様の香を前に、そなたはどんな顔を見せる?
あの軽やかな笑みが、どんな風に歪むか見物ではないか」
さっそく、藤壺の女御様のもとへ参ろう
あの方に、今日の香合の話を、それとなくお伝えするのだ
「名もなき女の香が、源氏様を魅了した」と
女御様の心が動かぬはずはない
源氏様への思慕を、わたくしは知っている
あの方なら、きっと名もなき女の香を超える妙香を調合なさるだろう
廊下の先、月の光が淡く畳を照らす
わたくしの足音は、まるでこの企みを隠すように静かだ
この香合はまだ終わってはおらぬ
藤壺の女御様の香が、あの女の自信を打ち砕く瞬間を、わたくしは見届けるのだ
二条院の廊下を抜け、わたくしは藤壺の女御様の御殿へと急ぐ
夜の帳が下り、月の光が庭の花を銀色に染める中、わたくしの心は燃えるように熱い
藤壺の女御様の御殿は、静謐そのもの
几帳の向こうから、かすかに沈香の薫りが漂ってくる
わたくしは膝を折り、恭しく頭を下げる
「橘の君、参りました」と、女房に告げさせ、ゆるゆると御簾が上げられる
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