香を焚き 煙の道に 問いを置き ふと現るる 影の気配よ 3

声の主は、几帳の奥に控えていた人物


その立場は定かではないが、藤色の五衣に白梅の刺繍が施された唐衣を重ね、髪は艶やかに流れ、扇には金泥で描かれた橘の花が咲いていた

静かに座す姿には、ただならぬ威厳が漂っている


目を細め、私を一瞥するその瞳は、まるで獲物を狙う猛禽のように鋭く光り、思わず私は視線を逸らしてしまう


彼女は扇で口元を隠すと、視線を逸らしたまま静かに言った


「そなたの香は、確かに清らかではございますが…あまりに俗に寄りすぎておられると感じます」


なっ…!


扇をぱたんと閉じると、彼女は鋭い視線を私に向ける


「もっと、雅なる趣が欲しいところ」


場が静まり返る

私は言葉を探しあぐね、口を閉じた


源氏が目を開け、その人物に視線を向ける


「では、橘の君

そなたの香を焚いてみせてはどうか」


彼女は一礼し、静かに香の準備を始める


橘の君…

そんな人物、源氏物語にいたっけ…?


香炉に火が入れられ、焚かれた香が場を満たす


その匂いに、遠い記憶が鮮やかに浮かんだ


この匂い…

あれだ…

新宿東口駅前でたまに香っていた、某有名ハイブランドの香水の匂い

この女女した香り、好きな人は好きなんだろうけど、私は苦手


女房たちが扇を口元に寄せて囁く


「藤の花を基調とした、蘭の花のような風雅な調べ…」

「麝香を重ねた艶やかな香り…」

「まるで春の夜に咲く、藤棚の下に立つような…」


橘の君が扇を広げ、口元に寄せる

目を細めて私を見ると、静かに言った


「これぞ、宮廷の香」


はあ…!?

この、夜の女の人が好きそうな、女女した香りが宮廷の香っ!?

どこが宮廷…

いや、だからこそ宮廷の香なのか

女の欲望と噂が渦巻く、まさに宮中の匂いってことね

っは…

面白いじゃん


私は小さく扇で膝を叩いた


そっちが女の色気で来るって言うなら…こっちは男の色気で行ってやるよ


目線を上げて橘の君を見た


あなたが私と同じ女ならば、男の色気が一番色気がある香りに感じる…

そうでしょ?


香材を手に取り、匂いを確かめながら調合を始める

新宿の百貨店メンズ館一階で香っていた男性用香水のイメージで…

沈香を基調に、白檀は控えめに

丁子と龍脳で透明感を加え、貝香をほんの少しだけ


「これは…香合…」


女房たちが扇を口元に寄せて囁く


源氏はふっと、鼻で笑う


何を思っているのか知らないけど、なんと思ってくれてもいい

香は私の手の中にある

それだけが、私の武器


香炉に火を入れ、香を焚く

白煙が立ち昇り、空気が変わる

橘の君が目を細めた


女房たちが囁く


「これは…秋の、月の夜を思わせるような…切なくも甘い香…」

「花の宴のような…肌寒くも暖かい…夜の香」

「沈香が静けさを語り、龍脳が月光のように照らしております…」


橘の君は扇を広げて、小さくパタパタと仰いだ

源氏は目を閉じて、深呼吸するような仕草をした後、目を開けて私を見る


その瞳は、何を考えているか読めないけど、月の光に照らされた夜の海のように、きらりと輝き、揺れているように見えた


源氏が口を開く


「この香を、また焚いていただけますか」


透き通った源氏の声が響き

私の心を撫でて、通り過ぎていく


私はただ一度、深く頷いた


橘の君は、しばし沈黙した後、静かに頭を下げる


「見事でございます

そなた様の香は、雅と言えましょう」


私は香材を抱えたまま、静かに微笑んだ


香は私の手の中にある

それだけが私の、名を持たぬ存在を刻む力

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