第2話-2

 DSI東京本部のブリーフィングルームに戻った明日香と誠司は、壁面のスクリーンに表示されたデータを前に、章吾の説明に耳を傾けていた。

 

「今回ロストになったのは田中癒月さん。……明日香のクラスメイトなんだね」

 

 その名前を聞いた瞬間、明日香の胸の奥が重く沈んだ。

 

「……田中さん、確かに今日様子が変だったんです」

 

 声を絞り出すように呟くと、章吾は資料を一度閉じ、深く息をついた。

 

「襲われていた子たち──同じ学校の生徒たちは、無事保護できたよ。それで癒月さんにも話を聞いて、話が出来た子たちから少し状況を掘り下げたんだが……」

 

 言葉を選ぶように、章吾はわずかに眉を寄せた。

 

「どうやら、部活動内で必要以上に責められている子がいたらしくてね。癒月さんはそれを“やりすぎだ”と咎めたそうなんだ」

 

 明日香はゆっくりと目を伏せた。

 

「でも、その発言が原因で、今日学校に行ったら、彼女自身が今度は無視されるようになった。部活に顔を出せば、今度は自分がターゲットにされるかもしれない。そう思った癒月さんは、無断で部活を休んだらしい……でも、その帰り道で、部活を終えた子たちと鉢合わせしかけて──その後の記憶が、癒月さんには無いそうだ」

 

 明日香は何も言わなかった。言えなかった。

 もしあのとき、自分がほんの少し勇気を出して、癒月に声をかけていたら──彼女は、ロストになんてならなかったのではないか。

 そんな“もしも”が脳裏にまとわりつき、思考の流れを塞いでいく。

 

「……明日香、今回は君ひとりで面会に行くかい?」

 

 章吾の問いかけに、明日香は迷いなく、けれど重たく頷いた。


 

 * * *

 


 保護室の空気は静まり返っていた。淡い照明が落ち着いた雰囲気を作り出し、ベッドの上、癒月は窓の外をぼんやりと見つめている。

 すでに空は夕闇に染まり、ガラスは鏡のように室内の明るさを映していた。ふと、癒月が視線を動かし、明日香の存在に気づいた。

 

「あ……えっと、白崎さんだよね」

 

 ぎこちない声だったが、その瞳は明確に彼女を見ていた。

 

「……うん。名前、覚えてたんだ」

「そりゃもちろん。同じクラスだもん、覚えてるよ」

 

 癒月は、静かに微笑んだ。

 

「白崎さんが助けてくれたんでしょ。……飛渡さんって人が教えてくれた」

 

 明日香は目を伏せ、そっと首を振る。

 

「いや、私は……ううん、私は田中さんを助けてはいない」

 

 その言葉に、癒月の目がわずかに見開かれる。

 

「私、知ってたの。今日の田中さんの様子がおかしいってこと。気づいてたのに、何もしなかった……だから、田中さんはロストになってしまった……」

 

 明日香の声は、どこか遠くにあるようだった。言葉を口にすることで、自分の責任を受け止めようとしているようにも見えた。

 癒月は小さく首を振ると、穏やかに口を開いた。

 

「……それでも、助けようとしてくれたんでしょ? それって、助けてくれたってことと同じだよ」

 

 明日香が顔を上げると、癒月の瞳には悲しみでも責めでもなく、どこか澄んだものが宿っていた。

 

「……私もね、同じなんだよ。部活でちょっと浮いてる子がいて、皆がその子のことを責めすぎてて、いじめみたいになってた。でも……怖くて声をかけられなかった」

 

 癒月は、手をぎゅっと握りしめた。

 

「反対意見を言ったら、今度は私が無視されて……。同じ立場になって、やっとその子の気持ちが少しだけ分かった。けど、それと同時に、私も怖くなってしまったの」

 

 癒月の話を、明日香はただ黙って聞いていた。

 

「だから、私がその、ロストっていうのになったのは……私の心が弱かったから。白崎さんのせいじゃない」

 

 癒月の口調は静かで、諦めではなく、受容の温かさがあった。

 

「人間って、自分のことが一番可愛いからさ。よっぽどの聖人でもなければ、誰かを助けるなんて簡単にできない。でも、“助けよう”って思っただけで、もうその人は充分救いになってるんだと思う」

 

 そして癒月は、まっすぐに明日香を見つめ、優しく笑った。

 

「……少なくとも、しらさ……明日香ちゃんがここに来てくれた。それだけで、私は救われたよ。ありがとう」

 

 その言葉に、明日香はほんのわずかに唇を噛み、視線を落とした。そして、一歩だけ前へ進み──微かに頷いた。

 窓の外には、夜の帳がすっかり降りていた。だが、その闇の中にも、明かりがひとつ、確かに灯っていた。


 

 保護室の扉越しに様子を見守っていた章吾は、明日香と癒月のやりとりにひとつ頷くと、静かに踵を返してその場を離れようとした。

 その動きを疑問に思った誠司が、訝しげに声をかける。

 

「……父さん?」

 

 章吾は立ち止まり、少しだけ肩をすくめて微笑んだ。

 

「いや……彼女の記憶改ざんは、必要無いと思ってね」

 

 誠司の眉がわずかに動く。

 

「でも、ロストになった人って……ロストになった時の記憶も処理するんじゃなかったの? あとで何かに書き込む可能性があるって話だったろ」

「もちろん、基本的にはそうだ。だが――彼女はおそらく、その必要はない。記憶を持ったままでも、混乱したり、無闇に他人に伝えたりすることはないと思うよ」

 

 章吾はそう言ってから、視線を保護室の窓のほうに向けた。その瞳は、いつになく穏やかな光をたたえている。

 

「それに……明日香との関係が、彼女にとっても明日香にとっても、これから意味を持つものになるかもしれない。今の明日香は、あまりに他人との繋がりが希薄だ。彼女のそばに寄り添ってくれる存在がひとりでも増えるなら、それはきっと――」

 

 言葉の続きを明かすことなく、章吾は静かに歩みを再開した。その背中を見送りながら、誠司は保護室の扉をそっと開けて中の様子を見る。

 

 保護室の中では、明日香と癒月が言葉を交わしている。微笑む癒月と、わずかに顔をほころばせる明日香。

 その光景を、章吾の言葉がそっと支えているようだった。

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