初めての
※センシティブな話題かつ、翔吾がノンデリ男と化しています。不快な雰囲気を感じたらブラバお願いします。
ピンクの壁に張り付くように翔吾は立っていた。側のベンチに座った夕月が、その様子をみて笑う。
「緊張しすぎだよ。」
「…いや、無理だろ。」
パステルカラーに統一された産婦人科の待合室は暖かく、本棚には絵本と親子向けの情報誌が並んでいて、小さな囁きがあちこちから聞こえる。
翔吾が勤める学童に併設された支援センターの雰囲気に少しだけ似た香りがした。
けれどそこには、走り回る小学生も、檄を飛ばす主任先生もいない。
様々な大きさのお腹を抱えてベンチに静かに座っている女性たちと、まだお包みに包まれた産まれたての赤ん坊。
おおよそ男といえるのは翔吾1人だけだった。
「鮎川さん、どうぞ。」
気まずさに耐えていると、ようやく呼ばれた。
ところが、「旦那さんは待合でお待ち下さい」と止められてしまう。
夕月は困惑する翔吾を見て忍び笑いを漏らしながら、診察室に消えていった。
「えぇ…」
取り残された待合室で、仕方なく本棚の本を手に取る。
表紙には柔らかなタッチで描かれた、赤ん坊の丸い顔。
それは、子どもは親を選んで産まれるという内容の、イマイチ誰向けなのかわからない絵本。
『あのひとたち、やさしそう。ぼくのパパとママになってくれるかな』
──……前世の俺、見る目なさすぎ。
手慰みに数ページ捲って棚に戻そうとすると、背中に柔らかい手が置かれた。
振り向くと、いつの間にか夕月が帰って来ていた。
少しだけ複雑そうな顔をしている。
背筋に今までの気まずさとは違う緊張が走る。
「……どうだった?」
「後で、もう一回呼ばれるって、その時は翔吾も一緒で良いって。」
「それだけ?」
「うん。……なんか、生まれて初めての経験だった。」
「それ、どういう事?」
「……うまく、言えない。でも…ちゃんといた。」
「は?それを先に言えよ。」
重苦しい出だしを経てあっさり告げられた言葉に、一気に緊張が解けた。
「翔吾、そのは?って言うの良くないよ。恐いし。」
「何だよ、今更…、俺だって人生初体験中なんだけど。」
「多分比べ物になんないよ。」
何だか、周囲の女性が数人頷いた気がする。どうやら本当に、男はアウェーらしい。
「どう言う事?普通の診察でしょ?」
「だから言えないってば。」
また「は?」と言いそうになって、堪えた。
確かに、この柔らかな空間にその鋭い音はそぐわない気がした。
問いかける言葉を探しているうちに、また診察室に呼ばれた。
「ここに、写ってるの見える?」
ぞわぞわと動く白黒の画面を見ながら、医師が指を差したのは、グレーの小さな点。
「……それ?」
丸椅子に座った夕月の傍に立った翔吾が怪訝な声を漏らした。夕月も初めて見た時はちょっと驚いた。
「そうですよ。まだ形になってないけど、大事な時期ですから、気をつけて下さいね。」
「ありがとうございました。」
モノクロのイクラのようなエコー写真を手渡され、立ち上がる。
画面の中ではまだその小さな点が頼りなく震えていた。
「これ、かぁ…」
帰り道、翔吾はエコー写真を見ながら息をついた。
「なんか、もっと人っぽいのかと思ってた。」
「それちょっとわかる。」
内容だけ聞けばいい加減な軽口のようだが、翔吾の目と声音は真剣だった。
「こんなんが、人間になるって、すげーな。」
何度も写真を見返し、夕月の顔と見比べている。
繰り返し薄い紙をなぞる指が既に壊れ物を扱うようで、胸の奥が温かい。
「……ちゃんと、護んねーと。」
写真に視線を落とした彼が漏らした声が聞こえた。
翔吾はずっと家族を持つ事を怖がっていた。それでも、今の彼ならば、何があっても大丈夫だと夕月は確信していた。
「なんっっだ、これ…!!」
初めての産婦人科から帰って昼寝をしていた夕月は、夫の叫びで目を覚ました。
「…どうしたの?」
ソファにひっくり返った翔吾の持つスマホを覗くと、妊婦健診のレポ漫画を読んでいた様だった。
つい先程夕月もカルチャーショックを受けた内診台が描かれている。
「……夕月も、これやった…?」
「ちょっと、やめてよ……、検査なんだから仕方ないでしょ。」
「あのオッサンに…!?」
「やめてったら…!」
誰も好きでやっている訳ではないのだから、黙っていてほしい。
駄々っ子のようにのけぞった翔吾の腹をひとつはたくと、彼はいてぇ!と大袈裟に痛がって見せた。
「俺、来月オッサンに会ったら殴っちゃうかも…。」
「先生の事オッサンって言うのやめて。次は連れて行かないから。」
「え…、行く…。」
我慢する、と肩を落とす様子がおかしかった。
何か飲み物でも用意しようと立ち上がると、ソファの脇のゴミ箱に握り潰された煙草の箱が入っていた。まだ何本か残っているようだった。
「あれ、これ濡らしちゃったの?」
「いや、やめる。」
翔吾は何事もないようにさらっと言った。
大学の頃と比べたらかなり本数は減ったとはいえ、今まで完全にはやめられていなかった。
「今までみたいに分煙してくれれば大丈夫じゃない?」
「自己満だけど……俺も、そいつになんかしてやりたいんだよ。」
夕月を見ずに言う言葉に、彼の覚悟が透けていた。
「優しいパパでよかったね。」
まだ、ちいさなイクラでしかない子どもに語りかけると、照れ屋なパパはいつものようにふん、と鼻を鳴らした。
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