第6話「監査の行列」

[Audit] 正式監査一行/[Spec] 標準書式の攻防/[Root] “記録者”の痕跡


 朝の霜は薄く、鐘の綱は冷えた麻の匂いがした。

 広場の外れに白い埃が上がり、十五騎ほどの行列がゆっくりと近づいてくる。

 旗は王都監査局、封蝋は深い群青。正式監査一行だ。


 先頭の馬が止まり、女性が鞍から軽やかに降りる。セィラ=ハーシェル。二日前に来た彼女が、今日は隊列の先頭に立っている。背後には帳簿官二名、検印官一名、武装の護衛七名、無帽子の書記官数名。


「ラデル村、領主代理は」


「私だ」


 ミナが一歩出る。

 セィラは頷き、広場を一周見渡してから短く言った。


「公開監査を始める。

 ——その前に、昨日の事件“偽様式”の件。被疑者の身柄を移送する」


 ガロに拘束されていた小役人は、逆らわなかった。

 セィラの視線は冷たいが、切っ先ではない。秤の上に事実を置く時の目だ。


 俺は少し離れて、共同監査板と黒板の更新を始める。

 日付、湿度、士気、当番表の穴、街道恒久 v1.0 の監視グラフ。

 村人は黒板の意味をもう知っている。ざわめきは、準備の音に近い。


〈本日アジェンダ〉


偽様式の照合/王都側記録との突合


端数処理の再確認


街道恒久パッチ v1.0 の監査


「記録者」刻印の確認(参考)


 最後の“参考”に、セィラの眉がわずかに動いた。

 俺は、昨夜見つけた古いカップを黒板の隅に引っかける。

 取っ手の付け根の刻印。螺旋と羽根。


     ◇


 机は二つ。王都側の公式台と、村の共同台。

 セィラが掲げた最初の書類は、端数処理の標準だった。

 条文番号、改定日付、押印の順番まで過不足がない。

 昨日の“偽様式”とは紙の目も、墨も違う。


「v2.1 をもって、端数は持ち越しまたは切り捨て。切り上げは例外的臨時勅例のときのみ。ここ二年、該当勅例は未発布」


 セィラの言葉に合わせて、俺は黒板に番号だけを書き足す。

 村人が頷く。

 数字は恐れではない。意味を付ければ、武器になる。


「検印費、保護費は王都負担のまま。これは、王都の財務負担表で裏が取れる」


 帳簿官が別紙を挙げる。

 対立ではなく、整合に向かう流れだ。

 昨日のエルネストの「暫定承認」は、盤面読みの上手さだったが、今日は根を固めてくる。


「次。街道恒久 v1.0 を監査する」


 セィラは視線だけで合図した。

 検印官が祠の鐘、刻印石、柵の見逃し口、掲示板の当番表を順に確認する。

 俺は仕様書を黒板に投影する。

 ——可視化。

 監査側の疑問は、見えるものに向かう。


「基準香“パン”は週一。校正者は共同監査役のうち二名立会い。鐘は二打で固定点宣言。柵の見逃し口は森側のみ」


「反動波は?」


「祠が吸う。昨日の午後に実地で吸わせた」


 護衛の一人が頷く。昨日同行した男だ。

 セィラは短く息を吐いて、次の紙を持ち上げた。


「王都は、あなたのパッチを“地方標準”として取り込む可能性を検討している。そのための条件を、今ここで合意したい」


 机の上に新しい紙が置かれる。“地方標準案”。

 俺は一瞬だけ胸の奥が冷えるのを感じた。

 取り込む。

 成功の別名であり、拘束の別名でもある。


「条件項目を」


 セィラは読み上げる。


仕様書と当番表の公開を継続(村掲示板+王都ノード)


“基準香”の物資は地方倉で支給(パン—粉・塩の最低限)


共同監査役の選出と交代規則を明文化


修正者(デバッガー)の介入限界を記述(自由意思への不介入)


代償の扱いを、当該修正者の裁量とし、強制徴収を禁ずる


 最後の行で、文字が胸に重く落ちた。

 代償。

 寿命、記憶。

 それを、制度の歯車に組み込まれることなく守る文言。

 セィラの目が、わずかに俺を見る。


「合意できるか」


「——できる。一つ追加したい」


「聞く」


「“可視化の優先”。恐怖を煽る文言で統制しない。見える形で運用することを、全条に通す」


 セィラは間を置き、頷いた。


「条項六として入れる」


 黒板の下に条項六を書き足し、丸で囲む。

 村人の顔が、言葉に浮かぶ。

 見えるという約束は、力の弱い側が呼吸するための空気だ。


 セィラはペンを取り、紙に署名した。

 ミナも署名する。

 俺は監査補助として名を記す。

 共同監査役二名も、震えながら印を押した。


〈新運用:街道恒久“地方標準 v1.0”〉

〈効果:王都ノードへ監視データ送信/地方倉から基準香支給〉

〈リスク:標準化に伴う悪用(見た目だけ真似る)〉


 ログが淡々と警告する。

 見た目だけの真似——様式だけを剥いだ抜け殻運用。

 それを嫌うために条項六を入れた。可視化の優先。


     ◇


 午下がり、監査は一段落し、セィラは参考項目に目を向けた。

 “記録者”。

 俺が黒板に掛けた古いカップが、陽光を受けて刻印の影を落とす。

 螺旋と羽根。


「記録者は、神域の“仕様”を書いた存在だと伝承にある。実体は諸説。——あなたは?」


「仕様として残っている“痕”を見た。祠の鐘、古い術式、そしてこの刻印」


 俺は、井戸の縁に新しく打ち込んだ刻印石の裏側を示す。

 昨夜、気付いたのだ。

 裏面に、小さな螺旋。

 俺が彫った覚えのない、古い刻印。


「刻印石を掘り出す」


 ミナの声は迷いがない。

 ガロが鑿を持ってくる。

 寺院の鐘を傷つけるような畏れが一瞬広場を過るが、公開の場での作業は、恐怖を意味へ変える。


 刻印石を少しだけ浮かせ、裏面を出す。

 古い螺旋と羽根が、確かにそこにあった。

 セィラが息を飲むのが、近くでわかった。


「——王都の古文書館に、同じ印がある。“記録者の印”。忘却を軽減する補助術式の、鍵でもある」


 胸が、瞬間だけ痛む。

 忘却。

 記憶の断片が擦れて落ちていく感覚。

 セィラは俺の横顔を見ないふりをして、続けた。


「印は、二つで対になる。片方は井戸。もう片方は——」


「鐘だ」


 祠の鐘の内側。

 俺は梯子に登り、鐘の内壁を指でなぞる。

 指先に、浅い段差。

 土埃を拭うと、薄い螺旋が現れた。


「対だ」


 鐘に耳を当てる。

 深いところで、微かな音が鳴っている。

 それは音というより、動作の手触り。

 世界が、何かを記録する時の手触り。


〈検出:“記録域”への浅い扉〉

〈要件:対刻印の同期/茶葉 or 蒸気による媒介〉


 胸の奥が跳ねた。

 茶葉。

 紅茶の香り。

 遠ざかっては戻り、戻っては遠ざかった記憶の匂い。


「——茶が要る」


 はしごから降り、広場を見回す。

 村のどこにも茶はない。

 あるのは、パンと塩と灰。

 セィラが沈思してから口を開いた。


「王都の倉に茶葉がある。地方倉ではなく、監査隊の備えとして。……使っていい」


「借りる」


 セィラが書記官に合図し、小さな布袋が差し出された。

 袋の口を開くと、乾いた葉の香りが薄く立つ。

 井戸の煮沸をして、湯を一杯だけ。

 祠の鐘の内側に、湯気を這わせる。

 井戸の刻印石にも、香りの薄い湯気を触れさせる。


〈同期:井戸印↔鐘印〉

〈媒介:茶蒸気(有効)〉

〈開扉:記録域(浅層)〉


 広場の空気が、少しだけ透明になったように感じた。

 俺の胸の奥で、ノイズが、一瞬止む。

 視界の隅に、薄い文字が浮かぶ。


〈ChangeLog: 旧仕様 → 現仕様〉


飲用水:祈詞依存 → 清掃+刻印


遭遇率:祈祷依存 → 固定点+可視化


税:口伝の慣例 → 公開照合+共同監査


代償:修正者個々の裁量(明記)


 記録域は、変化を記録している。

 俺が手を伸ばすと、薄い文字は抵抗も拒絶もしない。

 ただ、次の行を待っている。


「——書け」


 ミナの声が背でする。

 セィラの視線が、静かに俺の手元に集まる。

 俺は息を整え、ChangeLogの末尾に、今日の条項六を追加した。


・条項六:可視化の優先(恐怖ではなく、視覚と手順で運用)


 薄い文字が鐘の内側へ沈む。

 祠の鐘が、誰も綱を引いていないのに、ひとつ鳴った。


 その音は、世界の了解に聞こえた。


     ◇


 日が傾くころ、書面の合意と記録域の更新は終わった。

 監査一行は野営の支度を始め、村の子どもたちは窯の前で落ち着きがない。

 ミナは黒板に今日のログを書き足した。


《監査日:完了ログ》

・偽様式:王都へ移送/照合済

・街道恒久:地方標準 v1.0 合意(条項六 追加)

・記録域:対刻印を経て“条項六”追記

・士気:+7/遵守率:+9


 ガロが窯から薄褐色のパンを取り出し、子どもに渡す。

 子どもはかじり、笑い、走り、転び、また笑う。

 俺はその笑いの高さで、士気ノードの数字を思い浮かべる癖がついたらしい。

 数字は、今日も上向きだ。


 セィラが俺の横に来て、低く言う。


「王都招集は、正式文書で来る。日取りは——十日後。

 あなたが来ない選択もある。だが、来るなら、今日のように可視化を携えて来て」


「来る。留守番仕様を固めてから」


「代償は、どうする?」


「俺の裁量で払う。条項五」


 セィラは小さく頷いて、視線を外した。

 紅茶の香りは、いまは近い。

 記録域の浅い扉が開き、薄く支え合う感じ。

 失った断片は戻らないが、絡まる速度が、少しだけ緩む。


 そのとき、広場の端。

 外套の影がひとつ、柵の外で立ち止まり、こちらを見た。

 昨日の小役人より背が高く、動きに訓練の癖がある。

 影は近づかず、風下に短い棒を立て、風向を見ただけで消えた。


 セィラが目で追い、言う。


「監査局じゃない。他だ」


「採算ではなく、意図の匂い」


 俺は視界の端のノードを開く。

 街道ノード、税ノード、倉庫ノード。

 ——別の層だ。

 世界仕様編の遠い足音。

 記録者に近い場所から、視線が伸びている。


「明日、冬支度 Day2と巡回を続ける。祠と井戸の監視を増やす。

 夜は、鐘の内側で更新の手順をもう一度共有しよう」


 ミナが頷き、黒板に夜間の図を描き始める。

 ガロが子どもの肩を叩いて、当番表の下に星の印を増やす。

 星印は夜の班。

 星は、目だ。

 見つめれば、闇は仕様になっていく。


 俺は胸の奥で静かにログを閉じた。


〈セッション終了:公式監査 合意/地方標準 v1.0/記録域 更新〉

〈次回タスク:冬支度 Day2/留守番仕様の文書化/“他”の影 調査〉


――――


後書き(次回予告)

今日は〈正式監査〉で地方標準 v1.0が確定し、記録域に“条項六:可視化の優先”を追記しました。明日は〈冬支度スプリント Day2〉と〈留守番仕様の文書化〉、そして柵外に現れた“他の影”を追います。


面白かったらブクマ・★評価・感想で“次の修正の燃料”をください! 次回は〈留守番仕様〉整備&〈他の影〉の手触りを掴みます。

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