第2話「畑パッチ」
[Issue] 害虫の副作用/[Rollback] 閾値戻し/[Test] 発芽
夜は短く、朝は淡く冷たい。
夜明け前、広場の灯が消えるころ、俺は井戸の前にいた。
恒久修正に使う印材と、村に伝わる古い祈詞の断片を、紙片から拾い上げて並べ直す。祈りを“仕様に沿った手順”として再構成するのが、今朝の最初の仕事だ。
「手伝うよ」
ミナが湯気の立つ木椀を差し出した。薄い塩湯。眠気をほどく。
彼女の背後には、昨夜遅くまで木を叩いていたガロの姿。手には新しく削った刻印石が一つ。
「こいつは井戸口に打ち込むアンカーだ。木じゃ湿気に負けるからな」
「助かる」
俺は頷き、井戸の縁に膝をつく。
空はまだ藍色。鳥の声だけが早起きだ。
深く息を吸い、手順を確認する。
〈恒久修正計画:共同井戸 “ソース#3”〉
〈依存関係:
- 供物儀式“水の歩幅”→代替手順“清掃+刻印石アンカー”
- 地下水脈ノード再接続→夜明け前の低負荷時に限る
- 住民教育→煮沸・清掃の定着〉
〈実施:今朝/監視:7日間〉
「始める」
指先で、昨日のホットフィックスの差分を順にたどる。
溜め息のように、世界側の“了解”が返ってくる。
刻印石を井戸縁の奥に打ち込み、アンカーの符号を合わせ、簡素だが意味の通る祈詞を一節だけ唱えた。
儀式は、正しい動作のための“共同確認”。おまじないではない。
微細な光が石の中に沈み、井戸底からわずかに柔い泡が上がる。
〈恒久修正適用:衛生プロトコル v1.0.0〉
〈閾値:乱数揺らぎ 1.2 → 1.0(安定帯)〉
〈コスト:寿命 1 日分/記憶断片 0.2%〉
〈監視:自動〉
こめかみの痛みは、今朝は針の先ほど。
代わりに、胸の奥に小さな灯がともるような手応えがあった。
井戸は、これでしばらく持つ。
「終わった?」
「うまくいった。今週はにごらないはず。掃除と煮沸は続けて」
「任せて」
ミナが短く笑った。
朝の光が横から差し始める。
俺たちは井戸を背に、畑へ向かった。
◇
村の外れ、緩やかな斜面に畑が広がっている。
赤土に近い重たい土。ところどころに水が溜まっており、芽吹きもばらついている。
畑の端に立つと、視界に半透明の畑ログが覆いかぶさった。
〈土壌ノード“ラデル-畑#2”〉
保水係数:0.82(高め/過湿傾向)
通気指数:0.39(低い)
pH:6.0(やや酸性)
養分:窒素◯/リン△/カリウム×
害虫リスク:低〜中(湿潤環境で上昇中)
播種時期:ずれ(早播き/儀式タイミングの誤差)
畑の中央では、年配の男が腰に手を当てて空を見ていた。
村の年長らしい。ミナが声をかける。
「ジッサン、去年より悪い?」
「悪いとも。芽が上がった端から腐る。雨は増えたのに、飲み水は腐り、畑は沈む。──って、お前さんが井戸を直したって若いのが騒いどったな」
「一時的じゃなく恒久だ。畑も見たい」
俺が言うと、ジッサンは目を細めた。
土の匂いを嗅ぎわける嗅覚を持つ人の、慎重な視線だ。
「やれるもんなら、やってみな」
俺は頷き、畝の土を少しつまみ、指で揉んだ。
手にまとわりつく重さが、通気の悪さを語る。
まずは土壌係数の調整だ。
ただし、世界側の自然パラメータを過度にいじるのは危険だ。
軽微修正で“雨の切れ目”と“風の通り”のパターンに細工をする。
加えて、人間側の作業手順を再設計する。
「段取りは三つ。
一、風の通り道を畑に作る。畝向きを川風と合わせて少し斜めに。
二、畝間に砂利混ぜを入れて保水を抜く。
三、播種タイミングのズレを直す。儀式は簡略化して“朝の影の長さ”で決める」
「魔法はいらねえのか?」
「いらない。最後に少しだけ使う」
ガロが鼻を鳴らした。
「つまり、俺の出番は多いってことだな」
「いつも多いよ、ガロ」
ミナが笑いながらも即座に人手を集め、畝の向きを指定の角度に合わせて引き直す。
俺は畑の四隅に小さな風標を立て、流れる風の“経路”を可視化した。
透明な糸のようなラインがうっすら畝の上を走り、溜まりがちな場所が見えてくる。
「そこ、砂利を混ぜる。粒は指の爪くらいの大きさで。多すぎると乾きすぎるから、二割」
「二割ってどうやって……」
「二握りの土に、指一本ぶんの砂利」
「おう、そう言え」
午前いっぱい働き詰め。
畝は整い、畑の表面に風が通り始める。
そのタイミングで、俺は小さく詠唱した。
〈軽微修正:畑#2 “風筋の維持” 施行〉
〈効果:午後の谷風を畝筋に沿わせ、停滞空気を破る〉
〈コスト:寿命 0.5 日〉
ほとんど痛みはない。
風標の糸が、細く強い線へと変わった。
「これで、根が呼吸できる」
ジッサンが土を掴み、鼻に近づけ、目を細めた。
「……匂いが、軽くなった」
よし、と胸中で頷く。
後は、播種と養分調整。
播種は“朝の影の長さが、腰から膝の間に落ちる日”と決める。曖昧な儀式の歌詞よりも、誰でも計れる目安がいい。
養分は、焼いた骨粉と灰を薄く混ぜる。
ここまでは順調だった。
問題は、害虫だった。
◇
昼過ぎ、畑の端で子どもが悲鳴を上げた。
駆け寄ると、黒光りする小さな甲虫が畝の陰から湧くように出てきて、芽を嚙みちぎっている。
「おい、どこから……!」
ジッサンが鍬を振り上げる。
俺は反射的に、ログを開いた。
〈害虫検出:“湿地甲虫(通称:ぬめ)”〉
〈発生条件:過湿/有機物集中/“風筋の維持”による乾湿境界の強調〉
〈原因:軽微修正の副作用により、境界線に餌の帯が形成〉
しまった。
風を通すことで乾湿の境界をはっきりさせた結果、その“エッジ”が餌場になってしまったのだ。
副作用(リグレッション)。
軽微修正の典型的な落とし穴。
「ミナ──副作用。害虫が境界に集まる。ロールバックする」
「ロールバックって、元に戻すの?」
「完全には戻さない。閾値だけ、少し上げる」
俺は膝をつき、畝と畝の間に指を差し入れ、世界の“目盛り”に触れる。
深呼吸。
通気の閾値を、わずかに鈍らせる。
〈Rollback:畑#2 “風筋の維持”→弱モード〉
〈閾値:通気指数 0.39 → 0.46(緩やかに)〉
〈副作用リスク:境界の餌帯 解消見込み 68%〉
〈コスト:寿命 0.5 日分/記憶断片 0.1%〉
風標の糸が、少しだけ柔らかくなる。
甲虫の群れは、わずかに動きが鈍り、集結の勢いが止まった。
だが、まだ多い。
物理的な対処が必要だ。
「ガロ、粘り罠は作れる?」
「作れるとも。樹液と灰と藁で、即席のやつを」
「畝の境界に、帯状に。子どもたちは——」
ミナがすでに動いていた。
「子どもはバケツと手袋! 大人は鍬! 火は使うな、畑が死ぬ!」
声が飛び、身体が走る。
俺はさらに、匂いのパラメータに一瞬だけ触れた。
〈一時修正:“忌避匂” 微弱散布〉
〈対象:湿地甲虫の嗅覚受容〉
〈持続:12 分〉
〈コスト:寿命 0.2 日〉
空気に、ほんのかすかな苦い匂いが混ざる。
甲虫の動きが、粘り罠の方向から逸れた。
そのスキに、ジッサンの鍬が畝の表面だけを削り、子どもたちがそこから甲虫を拾っては桶に放り込む。
桶の底で甲虫がぶつかり合って音を立てる。
汗が眼窩をつたった。
息が荒い。
だが、流れは変わった。
十分、二十分、三十分。
粘り罠の帯が黒くなり、甲虫が捕まり、動きが薄くなる。
〈害虫活動指数:高 → 中 → 低〉
〈畝被害:軽微(補植で回復見込)〉
俺は肩で息をしながら、風標を一本抜いた。
風は、まだ通る。だが、暴れない。
これが、正しい落としどころだ。
「……すまない。副作用の読みが甘かった」
俺の言葉に、ジッサンは鼻を鳴らした。
「読み切れるやつなんざいねえよ。畑は毎年変わる。で、戻せるのか、って話だ。お前は戻した」
ミナは頷き、短く言った。
「信頼は、そうやって生まれる」
胸の奥に、少し温度が戻る。
思わず、遠い紅茶の香りを探してしまう。
——ない。
だけど、その代わりに、畑の土の匂いが深く入ってきた。
◇
午後、畑は再び静けさを取り戻した。
俺たちは影の位置を測って、播種の“正しい時間”を決め、人の手で種を落とし、薄く土をかける。
最後に、俺はテストを走らせた。
〈発芽テスト:畝#2 サンプル 12〉
〈条件:通気 0.46/保水 0.78/pH 6.0〉
〈予測:発芽率 86%(±4)/病害リスク 低〉
「よし。夕刻の露で、最初の水やりを」
「雨乞いの歌は?」
子どもが無邪気に聞く。
俺は笑って首を振った。
「代わりに、“見張りの歌”。風道が塞がっていないか、粘り罠が剥がれていないか、毎日見回る歌。歌の代わりに、当番表を作ろう」
ミナがすぐに板切れを持ってきて、炭で見回り当番表を書いた。
名前が並び、子どもも、年寄りも、みんなの中に役割が配られる。
それは祈りよりも強い、共同作業の仕様だった。
作業が終わるころ、広場の鐘が一度鳴った。
王都からの使いが着いた合図──ではない。
ミナが小さく首をすくめる。
「税の徴収人が、早まるって知らせ。三日後だったはずが、明日に」
「早める理由は?」
「**“滞納が多いから”**だそうだ。けど、ここ数日の動きと符号が合わない。誰かが、わざと“滞納”を作ってる」
世界の裏側で、数字が動いた気配がした。
畑のログとは別種の、帳簿ノードのきしみ。
「夜、帳簿を見せてほしい。税の“仕様書”は、どこかにあるはずだ」
「任せる」
ミナが短く答えたとき、畑の端っこで、子どもが叫んだ。
「芽が、出た!」
そこには、朝に播いたばかりの畝から、早すぎるはずの細い緑の糸が顔を出していた。
子どもは目を輝かせ、指を伸ばしかけ——俺とミナの声が重なった。
「触らない!」
子どもはびくっとして手を引っ込め、舌を出して笑う。
俺はそっと膝をつき、微笑んだ。
「テストで撒いた種だ。成功だよ」
ミナが、ふっと笑みをこぼした。
畑に、柔らかな風が通る。
今日通した風道が、ちゃんと働いている。
◇
夜。
集会所の長机に、帳簿が並んだ。
村の収穫高、出入り、王都への納め分。墨の色が、ところどころ不自然に濃い。
俺は指先でページの“縫い目”をなぞり、裏側へ指をかける。
〈帳簿ノード:ラデル村-財務〉
記帳:手書き(村側)→写し(徴税人持参の“控え”)
差異:控え側にのみ“加算”の痕跡
誤差項:端数切り上げ規則が王都規定と違う
推定:仕様の改竄 or “特例”の装いによる横領
「“控え”に、余計な項目が入ってる。『保護費』『検印費』『遅延保障料』。王都の規定書には……」
「そんな言葉はない」
ミナが低い声で言った。
目に、怒りが燃えている。
俺は頷き、ページをめくる。
「徴税人が持ち込む“控え”が、本物の仕様書だと皆に思わせるのが狙いだ。明日、それを公開の場で照合しよう。村の原本と、王都の正式様式で」
「王都の正式様式を、どうやって」
「ギルド監査網に、まだ細い線が残ってる。追放印で本線は切られたが、共有書式の閲覧は地方にも開かれてるはずだ」
胸の奥で、古い回線に指をかける。
厳重なロックがかかっているが、共有書式は公共のもの。
俺は、ほんの一瞬だけ、扉の蝶番に油を差す。
〈公共ノード“徴税様式 v2.1” 閲覧〉
〈比較:ラデル村“控え” vs 公式様式〉
〈差分:用語・端数処理・検印手続きの不一致多数〉
「勝てる」
俺は短く言った。
ミナは深く息を吐き、頷いた。
「明日、広場で公開審理だ。村人立会い、徴税人、わたし、あなた。事実で勝つ」
集会所の端で、ガロが腕を組む。
「暴れるなら止めるが?」
「暴れない。仕様で殴る」
俺は微笑んだ。
紅茶の香りは、やはり遠い。
けれど、代わりに、紙と墨と木と火の匂いがある。
それで、今夜は十分だ。
◇
眠りにつく前、俺は畑の監視ログを一度開いた。
〈監視:畝#2〉
湿度:72%(安定)
害虫指数:低(粘り罠維持)
風道:稼働
予測:三日後に一斉発芽ピーク
注意:雨後の境界帯。再び餌帯化の恐れ→見回り強化
指先で承認を押す。
ログは静かに閉じた。
〈セッション終了:畑#2 パッチ/副作用→Rollback/テスト→発芽〉
〈次回タスク:公開照合/徴税人“仕様”検証〉
――――
後書き(次回予告)
副作用は“戻せるかどうか”で評価が決まる。今回は戻せた。次回は〈税のバグ〉──公開照合で仕様を叩き合わせます。王都の“控え”が本物か、事実で決着を。
面白かったらブクマ・★評価・感想で“次の修正の燃料”をください! 次回は〈税のバグ〉を公開の場で“ログ提出”させます。
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