第2話 最初の消失 - 1980年8月
完成当初、
新築で家賃も手頃。
すぐに住人が決まった。
最初の一年は何事もなかった。
普通のアパートだった。
しかし1979年夏頃から、住人同士が小声で話すようになった。
「夜中に変な音がする」
「子供の泣き声が聞こえる」
「押入れが勝手に開いている」
管理会社は「木造なので音が響きやすい」と説明した。
でも住人たちは知っていた。
隣の部屋は空室だということを。
1980年夏。
201号室で最初の「事件」が発生した。
新婚の
妻の
「毎晩、押入れの前でじっと座ってるんです。『向こうで誰かが待ってる』って」
聡美は最初、夫の疲労やストレスだと考えていた。
しかし異変は加速した。
洋介は仕事から帰ると、まっすぐ押入れに向かった。
扉を開け、中を覗き込み、時には手を差し入れて何かを探った。
聡美が近づくと、洋介の手が濡れていることに気づいた。
透明な粘液で覆われ、指の間から糸を引いている。
「何してるの?」
そう聞くと、洋介は振り返って微笑んだ。
でもその笑顔は彼のものではなかった。
もっと幼く、無邪気で、底知れない寂しさを湛えていた。
「新しい友達ができたんだ。一緒に遊ぼうって言ってる」
その夜、聡美は洋介の体の異変に気づいた。
入浴後、洋介の背中を見ると、皮膚に無数の小さな手形の
子供の手形。
一本指、時には六本、七本の指の跡が、まるで大勢の子供に掴まれたように、背中一面に広がっていた。
「これ、どうしたの?」
洋介は鏡で自分の背中を見て、嬉しそうに笑った。
「みんなが触ってくれたんだ。『仲間になって』って」
その手形は日ごとに増えていった。
背中から始まり、腕、胸、首筋へと広がっていく。
聡美が触れると、痣の部分だけが異様に冷たく、まるで池の底から引き上げた死体のような冷たさだった。
消失の前夜、洋介は興奮していた。
「ついに会えることになった。向こうの世界に行ってくる」
夜中、異音で聡美は目を覚ました。
押入れから、水を掻き混ぜるような「ぐちゅぐちゅ」という音が聞こえる。
押入れの扉が開いていた。
奥の板に、人一人が通れるほどの穴が開いている。
いや、穴ではない。
板が内側から溶けたように、ぬめぬめと光る粘液で縁取られた、暗い空洞。
洋介はその穴の縁に手をかけ、体を半分空洞の中に入れていた。
「洋介!」
聡美が叫んだ時、洋介は振り返った。
その顔は、もう夫の顔ではなかった。
目が異様に大きく、丸く、八歳程度の子供の目。
口元には無邪気な笑み。
「行ってくるね。すぐ戻るから」
そう言って、洋介は空洞の中に消えた。
ずるずると、何かに引きずり込まれるように。
聡美が穴を覗き込むと、奥は真っ暗な水で満たされていた。
池の底のように深く、冷たく、何も見えない闇。
その闇の中で、無数の小さな手が蠢いていた。
翌朝、穴は消えていた。
押入れの奥板は何事もなかったように、古びた木目を晒していた。
ただ板の表面が、一晩中水に浸かっていたかのようにふやけ、触れると指が沈み込むほど柔らかくなっていた。
洋介の荷物はすべてそのまま。
財布も時計も置きっぱなし。
まるで空気に溶けたように。
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