幻想と現実
2148年5月6日 19時00分
冴木市 白桜大学 冴木キャンパス西館B棟 調理実習室
食文化分科会の会合が終わり、部員たちが思い思いに散っていったあと、
宮本梨花は調理台に赴いた。
机の上には試作用のカラメル鍋とプリン型が無造作に置かれている。
琥珀色の焦げ跡に光が反射し、胸の奥の記憶を呼び覚ます。
――数週間前、初めて口にした揺れる黄色の曖昧な味。
そのとき芽生えた疑問はいまも消えていなかった。
「まだ残ってたのか」
背後から声がした。振り返ると、3回生の佐伯が腕を組んで立っていた。
肉料理を担当している彼は、
調理場でもっとも豪快な存在だが、研究会では冷静な観察者でもある。
「宮本、ひとつ聞いていいか」
「はい」
「お前、“万人が納得するプリン”を作るって言ったな」
宮本は頷いた。
佐伯はゆっくり歩み寄り、鍋の縁を指でなぞった。
「悪いが、それは幻想だ。甘さの好みは人それぞれ。舌の感覚も育った環境も違う。
誰もが首を縦に振る味なんて、存在しない」
言葉は重く、部屋の空気を揺らした。宮本は一瞬、返す言葉を失った。
だが胸の奥で灯った小さな炎が、すぐに彼女を突き動かした。
「他の人にもそう言われました。でも。
……だからこそ、挑みたいんです」
佐伯が眉を上げる。宮本は続けた。
「誰もが違う舌を持っているなら、
その違いを越えて“これがプリンだ”と信じられる瞬間を作りたい。
それができたら、ただの菓子を超えて、文化を取り戻す証になると思うんです」
佐伯はしばらく無言で彼女を見つめていた。やがて小さく息を吐く。
「理屈はわかるが、理想が過ぎる。幻想を追えば失望するだけだ」
「それでも、追わなければ始まらないじゃないですか」
宮本の声は震えていたが、確かな熱を帯びていた。
沈黙が流れる。やがて部屋の隅から水無瀬が顔を出した。いつの間にか残っていたらしい。
「僕はいいと思うな」
水無瀬は柔らかく笑った。
「幻想を追う人がいなかったら、研究会そのものが存在してないでしょ」
「……お前も甘いな」
佐伯は苦笑を浮かべた。
「まあいい。宮本、その熱をどこまで持ち続けられるか見せてみろ」
そう言い残して佐伯は部室を後にした。
静寂が戻る。宮本は鍋に映る自分の顔を見つめた。そこには不安もある。
けれど、それ以上に強い光が瞳に宿っているのを感じた。
「幻想だからこそ、現実にしたい」
小さな声が部屋に溶けていった。
胸の奥で燃える炎は、もはや揺らぎではなく確かな熱を帯び始めていた。
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