009 村長夫婦に、ごあいさつ

「いい香りがすると思ったら……」

 

 低く落ち着いた声が、パンの甘い匂いに満ちた店先に響く。


 ふと振り返ると、パンの香りをたどるようにして、背筋の伸びた男性が近づいてくる。

 

 白髪混じりの黒髪を後ろへ撫でつけ、顎には渋い髭。


 麻布のローブは質素だが、その立ち姿には自然な威厳があった。


(……この人が村長さんかな……?)


 その隣には、まるで春の陽だまりのような温かい微笑みを浮かべた女性が寄り添っていた。


 彼女の存在そのものが、この村の穏やかさを体現しているようだった。


 柔らかな生成色のローブに、パン生地の模様が刺繍されたエプロン姿。髪留めには、パンのチャームがゆらゆらと揺れている。


「おや……まあ~。もしかして、あなたが~」


 女性の目が俺と合うと、花が咲いたような笑みが浮かんだ。


 その表情には、抑えきれないほどの慈しみと、純粋な喜びが溢れていた。


「あらまあ~。本当に、モフモフ~」


「ちょっ……やめっ……ひゃう!?」


 いきなりだ! いきなり膝に抱え上げられて、エプロン越しに頬ずりされたぞ! 


 柔らかい胸元に顔が埋まり、焼きたてのパンのような温かさと、石鹸の優しい香りが鼻腔をくすぐる。


 抵抗しようにも、その心地よさに体が言うことを聞かない。


「こらこら、リラ……。まずは名乗るのが先だろう」


「あらごめんなさい~。可愛すぎてつい~。私はリラ~。こちらが私の旦那、村長のセイルよ~」


「初めまして、猫さん。歓迎するよ」


「俺は、ユウマです。よろしく……」


「ええ、こちらこそよろしくね~」



 ──その瞬間、通知音。




経験値獲得!

・セイルとの出会い 30EXP

・リラとの出会い 30EXP




(村長さんたちか……ちゃんと挨拶できたな!)


 リラの抱っこは妙にあったかくて、胸のところがふわっとしていて、思わず喉がゴロゴロ鳴ってしまう。


(この人たち、なんだかものすごい安心感があるな……。リラさんの温かさは、ミーナさんの優しさとはまた違う、大らかで奔放な、まるで太陽のようだ……)


 セイルはそれを見て、静かに笑った。


 その目は温かく、愛らしい猫獣人の来訪を心から喜んでいるかのように見えた。


「ガランから話は聞いているよ。あの森で倒れていたところを運ばれたんだったね」


「ふふ、元気そうで何よりだわ~。やっぱりモフモフには癒やしの力があるのね~」


「いや、それは関係あるのかな……!?」


 俺のツッコミも虚しく、リラさんの顔はさらに猫を愛でる喜びで輝いていた。







 そこへ、店の中からティナがパンを詰めた包みを抱えて現れた。


 陽光が差し込む店内から、香ばしいパンの匂いがさらに強く漂ってくる。


「わあ、村長さんたち! こんにちはー!」


「おう、ティナ。焼き加減、今日も良さそうだな」


「うんっ! パンも猫さんも、ふわっふわだよ!」


「ふむ、それは素晴らしい……ふわふわは正義だからな」


 セイルも穏やかに頷いた。


(この村、ふわふわをやたら高く評価するな……)


 そんな和やかな空気の中、ふとセイルが俺の方へ視線を戻す。


「お前さんが見つかった場所はな、村を囲む『ミルカの森』の中だ」


 セイルの表情が、わずかに険しくなる。


「魔物が多く棲みついていてね。特に森の奥は危険だ」


「えっ……やっぱり危険な場所だったんだ……」


「あのあたりで無事に戻れたのは、正直、運が良い。きっと……神様のお導きなのかもしれんな」


 セイルの言葉は、まるで森の風のように穏やかだが、その中に潜む危険を明確に伝えてきた。


 リラがそっと俺の背をなでる。


「でも、もう元気そうで良かったわ~」


「普通森に入るには、それなりの準備と、案内人も必要だ。森での狩猟や採集なら、狩人のラオに聞くと良い。それにサラという子が畜産農家で、魔物を飼育している。二人とも、信頼できる村の仲間だ」


 セイルの言葉から、村の暮らしが少しずつ見えてくる。


(ラオとサラ……。明日以降、会いに行ってみようかな?……えっ!? 魔物を飼育しているだとっ!?……魔物と共生できてるってこと? 情報が多すぎる……)


「さて……では、今日はこの辺で失礼しようか」


 セイルが背を向けると、リラも俺の頭を名残惜しそうに撫でてから、優しく微笑んだ。


「また会いましょうね。楽しみにしてるわ~」


 俺はそっと頭を下げた。深く礼を言いたくなるような、不思議な温かさを持つ夫婦だった。


 その様子を見ていたガランが、俺の横に並ぶ。


「ふむ、ようやく一通り顔を合わせたのう」


「うん……ずっと一緒に回ってくれて、ありがとう」


「気にするな。まだこの村での暮らしは始まったばかりじゃからな」


 頬を撫でる風が、少しだけ冷たくなった気がした。



 ──ふと、こんなことを思った。



(……俺、この村で、何かできるかな?)


 みんな優しくて、温かい。


 でも、俺はまだ何も知らない。


 帰り道、ほんの少しだけ、小さな肉球をギュッと握りしめた。


「ユウマよ」


 ガランが隣を歩きながら、静かに声をかけてきた。


「家に戻ったら、少し話をしようかのう」


「……うん」


 その声には、いつもと違う真剣さがあった。



 ──この夜の会話が、俺の異世界での生き方を決めることになる。

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