第3話「港に縫う針目」

 港の風は塩を含み、喉の奥でぱり、と鳴らす。乾燥炉の煙は、俺の一文どおり、屋根の上で風と“うまく”混ざり、沖へ細い帯を引いていた。船大工の親方は腕を組んだまま、ひとつ鼻を鳴らす。


「……悪くない。いや、上等だ。昼までにもう一丁、頼めるか?」


「内容次第だ」


 俺は羊皮紙の端を指で撫で、反射的に“同時維持”の枠を数える。いま、街に向けて走らせているのは三つ――港と市場と祈祷所の“唱え言”に紛れ込ませた無害な縫い目の種、乾燥炉の煙路、そして俺の足場の“光の縫い取り”。枠は埋まっている。だから親方に向き直り、率直に言った。


「新しい縫い目は今の三つが解けてから。条件はふたつ。ひとつ、港の自治規約の写しを見せてほしい。もうひとつ、商人組合の“保護章”を出してもらえるなら、優先して動く」


 親方は眉を上げた。船に刻まれた古傷のような顔に、面白がる皺が走る。「ガキのくせに、舌じゃなく頭で値踏みするか。いいだろう。規約の写しは古文書屋に預けてある。保護章は……組頭の機嫌次第だ」


「機嫌をよくしてもらう文なら、書ける」


 俺が笑うと、親方も唇の端だけ動かした。「昼に組所へ来い。組頭が茶を淹れる。……その前に、炉の火加減を見ていけ。職人ってのは“字のない仕事”しか信じないもんでな」


 炉の口から立つ熱気に頬をあぶり、温度の波を掌でなぞる。羊皮紙は一度、外套の内ポケットに戻す。今は“習熟”の時間だ。いちいち書き換えに頼らず、字のいらぬ段取りを身体に叩き込む。熱の流路、吸い込みの角度、空気の抜け。俺が指を指すと、職人が頷いてダンパーを半手分だけ動かした。煙の帯はさらに細く、沖の青に溶ける。


 海際の石段を降りると、干し網の影に小さな背中がしゃがみ込んでいた。煤だらけの頬、指先には油。少女は俺を一瞥だけして、また網の結び目に戻った。


「器用だな」


「見ればわかることを言うの、商売にならないよ」少女は手を止めずに返す。「あんた、さっきの煙、やった人でしょ。親方、裏で『なんだあの針の通し方は』って騒いでた」


「針の通し方?」


「世界の、だよ」少女はちいさく笑った。「ミラ。煙突小屋の手伝い。あんたの名は?」


「アレン」


「じゃ、アレン。ひとつ教える。港の規約は古い字で、組頭も読み間違えてる。読み手がいると助かるときだけ、機嫌がいい。……だから、あんたは“字”を売りな。煙はおまけ。字があれば、塔の連中の“字”とも戦える」


 少女の言葉は、薄皮の下に小石を忍ばせたように硬い。俺は頷いた。「助言料は?」


「最初の保護章、私の名前も一緒に刻ませて。庇護は強いほど分け前が大きい」


「わかった」


 ミラは納得の鼻を鳴らし、網の結び目をひとつきれいに整えてから走り去った。足が軽い。彼女は“港の子”だ。塔の旗の意味も、商人の旗の意味も、匂いで嗅ぎ分ける。


 昼には、商人組合の組所。土壁に太い梁、机に直置きされた秤。そのうしろで茶を淹れる老爺は、目尻に細かい皺をたたえ、手の動きは無駄がない。組頭――ゼンジという名前だった。


「規約の写しを持って来いと言ったのはお前か」ゼンジは俺の握る炭軸を見、羊皮紙を一目だけ見て、茶を置いた。「まず飲め。熱いうちに。……字の話は、熱のうちにする方がいい」


「お言葉に甘える」


 茶は渋いが澄んで、喉に落ちるまで余韻が続く。ゼンジは古文書屋から借りてきたという“自治規約”の綴じを机に置き、俺の前へ回した。


「百八条。改定と追記で膨れておるが、骨は変わらん。港の水際での規は“王にも優先する”。『航海の裁きは商人の旗の下で』――そう刻んである。字は古く、例外も多い。塔の連中はそこへ爪を引っかけてくる。……読め」


 俺は綴じ紐を解き、古い紙葉をそっとめくった。かすれた字、擦れた角、指に馴染む繊維の粗さ。孤児院で、古紙束から救い出した“字”の感触が甦る。何枚か目をとおし、脳裏に“使える穴”を浮かべる。たとえば第十七条――『港務所における召喚は、航海安全の緊急を除き、鐘の二打後に限る』。そして第二十九条――『商人旗掲揚の場所では、王の旗は港務に及ばず』。


 俺は羊皮紙に、文を“重ねる”。


『俺が王都の塔から“呼ばれる”場面は、港の“商人旗”の下に限られ、鐘の二打後に行われる(弱く/自治規約の文言に沿う範囲で)』


 頭痛は来ない。これは“世界”への直接ではない。人が決めた“字”の層へ針を通す。俺はゼンジを見る。


「保護章が必要だ。俺と――ミラ。煙突小屋の子の名も一緒に」


「ミラ?」老爺は眉をひそめ、それから小さく笑った。「あの小鳥か。……いい、章は二枚。だが、覚えておけ。“章”は盾だが、いつだって穴が開く。穴を塞ぐのは字より先に、人だ」


「だから俺は、人と字の両方を縫う」


 ゼンジの目尻に、ほんのわずか、愉快の影が走った。老爺は引き出しの奥から楕円の黄銅板を取り出し、組所の刻印を打った。波と錨と商人の秤。刻む音は乾き、章はずっしりと重い。


***


 祈祷所の鐘は、午後になると低くなる。僧衣の老司が石段に腰を下ろし、子どもに“言祝ぎ”を教えていた。言葉で世界を撫でる古い術――だが大半は暮らしの流儀に溶け、ただの挨拶になっている。


「“風の神よ、埃を払っておくれ”――だ。『おくれ』は命令じゃない、頼みだよ。頼みは、頼む側の身を少し軽くする」


 俺は石段の下で立ち止まり、頃合いを見て小さく頭を下げた。老司は目だけで微笑み、「あんたは“頼み”より“書き付け”の顔だね」と言った。


「書き付けで頼むこともあります」


「それは頼みじゃない。取り引きだ。……どちらも神は見ているよ」老司は杖をつき、階段を一段上がった。「若いの。“言祝ぎ”の床に穴を開けるな。あんたの針は鋭い。鋭い針で粗い布を縫うと、布が裂ける」


「布が裂けない縫い方を、教えてくれますか」


 老司は、はじめて少しだけ真剣な目をした。俺は羊皮紙に、祈祷所の“習い”に沿う形で、自分への“縛り”を書きつける。


『祈祷所と墓地の範囲では、俺の“書き換え”は頼みの形を借りる(命令しない)』


 羊皮紙が、かすかに温かい。老司は満足げに頷いた。「礼儀があるなら、神は顔を背けない。……お前さん、塔に見られてるぞ」


「わかっています」


「じゃあ、塔に見せてやれ。頼みの形の針目は、塔の字より古い」


 祈祷所を辞し、市場の角を曲がると、人だかりができていた。秤の前で、魚屋の男と旅の商が揉めている。重さが合わない、と。俺が覗くと、秤の皿の裏に、誰かが小さな鉛玉を貼り付けていた。魚屋の男が真っ赤になって怒鳴る。


「誰がやった! 俺じゃねぇ! こんな小細工、俺の誇りが許さねぇ!」


 商人のほうがにやりと笑い、肩をすくめる。「誇りは腹の足しにならねぇ。重さは重さだ。な?」


 野次馬が笑う。魚屋の顔が涙の混じった赤に変わる。俺は秤の皿を持ち上げ、鉛玉を剝がした。羊皮紙に、短く書く。


『この秤は、今だけ、皿にのったものの重さを正しく“歌う”(声は出ない/俺と秤を触っている者だけが“わかる”)』


 秤がかすかに震え、俺の指先に重さの“歌”が流れ込む。魚の腹に水が余計に含まれているのが、歌の湿りでわかった。


「水増しはどっちだ?」野次馬の誰かが叫ぶ。


「両方だ」俺は淡々と言った。「秤にも、魚にも、ちょっとずつ嘘がついてある。……両方、抜こう」


 俺は商人の樽から水を汲み、魚屋の桶の水を入れ替えさせた。秤の皿に乗せ直すと、“歌”は澄んだ。俺は周囲に聞こえない声で、秤の歌にうなずいた。


「これで正しい。差額は半分ずつ返せ。――それと、組所に行け。秤は検印を受けろ。検印がない秤での取り引きは、商人の旗の下では“無効”だ」


 商人が舌打ちし、魚屋は涙目でうなずいた。野次馬の何人かが、俺の顔を怪訝そうに覗き込む。世界に針を通すのは、派手でなくていい。こういう場面で、“字”が味方になると噂が走る。それでいい。


 その噂に混じるように、黒い外套の影が人混みの縁に立った。セヴランではない。若い女。胸元に小さな塔の徽と、書記のペンの飾り。彼女は野次馬を押し分けず、ただこちらを見る。目がこちらへ“線”を通してくる。彼女は口を開かない。けれど、俺にはわかった。塔の目だ。セヴランが言ったとおり、“観測の網”は張られている。


 俺は女に近づき、笑顔の角度だけ借りて、言った。「待ち合わせは、俺が決める。港の見張り台。明日の鐘、二つ後。商人旗の下」


 女は一瞬、目を細め、そして小さく会釈をした。言葉は交わされない。けれど、俺の書いた“礼儀”の縫い目に、塔の“字”が結び目を作る音が、確かに胸の裏で鳴った。


***


 日が傾き始めたころ、俺はミラを連れて組所へ行った。ゼンジは章を二枚、俺たちの掌に乗せる。黄銅の冷たさが、皮膚の熱を奪い、代わりに心臓の鼓動を返してくれる。


「章の名は?」ゼンジが刻印棒を構える。


「アレン・――姓はない。……“書き換える者”は名乗りすぎだ。アレンだけで」


「ミラはミラ。苗字なんて、まだ要らない」


 ゼンジは笑って、章の裏にそれぞれの名を逆文字で刻んだ。金槌の音が乾いた三度を数えるあいだ、俺は羊皮紙の余白へ小さく針目を重ねる。


『俺の“保護章”が示す庇護は、塔の“召し”の前に一拍、礼の間を入れる』


 “礼”は、塔にとって弱点だ。塔は礼を重んじる。だからこそ、礼で遅らせる。直接の剣で受けるのではなく、鞘の膜で刃を滑らせる。


 章を受け取ると、ミラがそれを胸に当てて、にやりとした。「これで、煙突小屋の親方に『危ないから子どもは帰れ』って言われても、『章があるもん』って返せる」


「章は盾だが、穴が開く」俺はゼンジの言葉を繰り返した。「穴を塞ぐのは、人と――」


「字だろ?」ミラが先に言って、肩をすくめた。「わかってる。だから、あんたの横にいる」


 組所を出たとき、港の見張り台の旗が西日を受けて透け、古い紋章が空に浮かんだ。波、錨、秤。遠く、塔の方角に薄い雲が立ち、風向きがわずかに変わる。胸のポケットの羊皮紙が、ちいさく温度を変えた。気のせいではない。世界は、明日の“礼”の間に向けて、布地をわずかに厚くしている。


 その夜。宿の狭い部屋、軋むベッドの上で、俺は“仕様”を書き足した。今日の反省、明日の段取り、そして――


『“縫い目食い”を警戒:縫い目に集まるもの(虫のような理の欠片)は、灯りに集まる虫と同じ。灯りを分散。太い一本より、細い三本』


 世界の縫い目に虫が集まる。老司の言葉が、別の意味を帯びて迫る。俺の一日中の書き換えは、港中に薄い灯りを点けた。虫は来る。なら、灯りを散らす。無害な縫い目を増やし、濃い一本を隠す。俺は深く息を吐き、窓をほんの少しだけ開けた。


 遠く、海鳴りに混じって、低い擦過音。砂に針で線を引くような、ざり、ざり、と世界の下側で何かが動く音。俺の背中の皮膚が粟立つ。窓から覗くと、港の外れの浅瀬で、波が一度“遅れて”返すのが見えた。通常の拍の、半拍遅れ。俺が昼間、試しに書いた小さな針目――『海は一拍遅れて波を返す(弱く/浅瀬だけ)』が、まだうっすら残っているのだ。


 その“遅れ”に、何かが絡みつこうとしていた。月光の下、浅瀬の泡の間に、細い糸の束がもつれ、ふわりと浮いて、また沈む。糸の束は、俺の書いた縫い目の“端”をさぐっていた。


「来たか」


 俺は羊皮紙を取り出し、鼻からゆっくりと息を吸う。叫びでも絶望でもない、ただの確認の声を、胸の奥でひとつ打った。ミラは隣の部屋で寝息を立て、ヘイルは廊下の突き当たりで槍を抱いて丸くなっている。エリナは祈祷所で灯の番を買って出た。俺ひとりの夜業だ。


『浅瀬の“遅れ”は、今だけ、三つに分けて薄く散る(強くしない)』『糸の束は“ほどける”という意味を思い出す』


 羊皮紙の上で文字がかすかに光り、海の“遅れ”は薄い三本に分かれて、糸の束の手の届かない場所まで広がった。糸はしばらく、それを追い、宙で絡まり、やがて、ほどけた。波はふたたび拍に帰る。音は海へ沈み、夜は静かに戻る。


 鼻の奥がつう、と痛んだ。指先に小さな痺れ。反動は軽い。だが、確かに来る。俺は紙を押さえ、もう一行だけ、いまのうちに針を通す。


『明日の“礼の間”は、商人旗の陰に生まれる(弱く/塔が礼を欠かないかぎり)』


 窓の外で、旗がわずかに揺れた。風は南へ回り、潮の匂いが濃くなる。俺は羊皮紙をたたみ、胸の内ポケットに戻した。目を閉じる前に、誰にでもなく、短い言葉を胸の底に書く。


「三日で、俺のほうを正解にする」


 眠りは浅く、しかし途切れなかった。夢の中で、字は魚になって泳ぎ、針は星の間を渡り、塔は相変わらず高かった。俺は星の縁に指をかけ、波の裏側に足を置き、朝を待った。


 鐘が一度、鳴った。港の朝は、掲げた旗の影から始まる。二度目の鐘を待つあいだ、俺は見張り台の階段をゆっくりと上がった。ミラが階段の根元で手を振り、ヘイルは下で周囲を見張る。エリナは祈祷所の坂の上、光の杖を携えて立っている。商人旗は高く、塔の旗は遠く。その間に、俺の“礼の間”。


 二打目の鐘が沈む音と同時に、黒いフードが旗の陰から現れた。セヴラン。外方監の外套の裾が、ほんのわずか“風に翻りやすい”。昨日、俺が身を以て知った痛みの対価。彼は旗に一礼し、俺に向き直った。


「礼を尽くす。――答えを聞こう、アレン」


 俺は胸の章を指で押さえ、旗の影に立った。港の風が、俺の言葉の拍に合わせて流れた。


「俺は塔へ行く。だが、檻には入らない。条件を書き換える。……“正解”は、こちらで用意してきた」


 セヴランの唇が、楽しげに、しかしわずかにだけ、上がった。旗が、静かに鳴った。世界の縫い目は、今、俺の針を待っている。

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