第2話「理術院の男」
十の数は、まだ七だった。
砥ぎ橋のたもとで風が止み、刻毒狼の群れは毒に変わった光を前に低く唸り、円を描くように間合いを測っていた。エリナは杖を抱え、震える息を整える。ヘイルは槍を杖代わりに立ち、肩で大きく呼吸している。
黒いフードの男は、朝霧の中で微笑を崩さない。胸元の銀徽は、王都の理術院。王国で“理(ことわり)”を扱う術者たちの学府、同時に監察の権限ももつ塔。
「名乗りを挙げてくれて感謝するよ、アレン。私はセヴラン・ミルド、理術院外方監。呼ばれ方はいろいろある。観測者、査問官、交渉人……都合のいい言葉を選ぶといい」
言葉遣いは柔らかいのに、声の芯は硬い。世界の表面を爪でそっと撫で、削るべき場所を探す職人のような目。
「交渉なら、場所を変えたい」俺は言った。「ここは十数えが切れたらまずい」
セヴランが斜めに首を傾げる。「君は自分で時限をかける。賢明だ。……彼女は歩けるかい?」
エリナは顎を引いてうなずいた。だが足取りは覚束ない。俺は羊皮紙の端に短く書く。
『この斜面の草は、俺たちの足元だけ、根が強く踏ん張り、滑らない』
草の手が足首をやさしく支えるように、体の重心が安定した。俺たちは橋を背に、森の縁に沿って動く。セヴランは邪魔をせず、むしろ狼の動きを観察してから、ゆっくりと後に続いた。十の数は五。うしろで刻毒狼の一頭が低く吠え、毒のような光に牙をしかめる。
『抜けるまで、狼の興味は“川の魚”にわずかに逸れる』
川面がいっそうぎらりと光り、小魚の群れが騒ついた。狼の視線が幾つかそちらへ滑る。俺たちは斜面を上り、樹々が密になるほうへ入った。十が三になり、やがて二になったところで、俺は最後の一行を加える。
『この場の“静けさ”は、あと二十呼吸ぶんだけ延長される(弱く)』
世界の縫い目が、針先ほどにもう一度だけ伸びた。長居はできない。森の外れに、狩人の簡素な休憩小屋があるのをヘイルが知っていた。扉は歪んで、鍵は錆び付いていたが、肩で押せば入れた。埃の匂い。壁に古い獣罠。囲炉裏の上の梁に乾いた薬草が束ねてある。
エリナを木のベンチに座らせ、ヘイルが水袋を渡す。俺は囲炉裏の灰を掻き、一握りの乾材を置いた。羊皮紙に書く。
『今だけ、灰の中の火種は小さく目覚め、薪は煙を少なく燃える』
赤い目がぱちっと開き、柔らかな火が立ち上がった。エリナの肩が、微かにほどける。セヴランは扉の枠に背を預け、灯りの中で俺の指先を見ていた。彼の視線は、炎ではなく、炎が“起きた”という事実の方へ、正確に合焦している。
「見事だ」彼は素直に言った。「命令は短く、効果は近く、そして自縛することで反動を散らしている。君の言う“十数え”の意味もわかった気がする。……その羊皮紙は媒介かい? それとも、君の“スキル”は文の形なら媒体を選ばない?」
俺は答えない。代わりに、羊皮紙に別の一行を書く。
『この小屋の中の会話は、ここにいる四人以外には“風の音”にしか聞こえない(弱く)』
セヴランは片手を上げ、「敵意はない」と肩をすくめて見せた。「私の仕事は“観測”と“整合”だ。君のような特異は、とても興味深い。だから、私の言葉も正確に届けよう。……理術院は、君を“保護”したい」
「保護?」ヘイルが苦い顔をする。「それは“拘束”の別の言い方じゃないのか」
「似ているが、同じではない」セヴランの笑みは薄くなる。「王国には“無許可理操作の禁”がある。知らなかったでは済まない。理を大きく動かす者は、本人が善意でも、周囲に“綻び”を残すからね。……君は賢くやっている。だが、観測の網にはかかった」
言葉は静かだが、逃げ道を塗りつぶすような精密さだった。俺は肩の強張りを意識し、意図的に息を吐く。そして、墨の先を紙に置いた。
『この場の“取引”は、俺に不利益だけを与える形にはまとまらない(弱く)』
セヴランの瞼がわずかに上下した。「交渉の下地を整えるのは、卑怯ではない。むしろ、文明だ。……よろしい。条件を出そう。君の力は危うい。だが、国にとっては必要でもある。王都へ来て、一定期間、観測と試験に応じてくれ。適切な安全枠を作る。君のためにも。他人のためにも」
「期間は?」
「最初は四十日。延長の可能性はある」
「報酬は?」
「塔の図書庫への出入り、生活の保障、同行者二名までの保護。同時に、君の“記述”による成果に対しては正当に名義を与える」
実に理術院的な条件だ、と俺は思う。自由を縛りながら、知識で餌付けする。塔の書庫は喉から手が出るほど魅力的だ。孤児院で、夜にこっそり読んだ古書の匂いを思い出す。……だが、それが檻になり得ることも知っている。
「三日くれ」俺は言った。「俺には考える理由がある」
セヴランはほんのわずかに考えてから、うなずいた。「いいだろう。だが、その三日のあいだ、君は“街”を出ないと約束してほしい。観測の糸はまだ細い。見失いたくない」
「約束する代わりに、一つ答えてくれ」俺は羊皮紙に、薄い一文を滑らせながら言う。
『俺は、彼の嘘をわずかに“苦い味”として感じる』
セヴランは目を細め、口の端にだけ笑いを残した。「質問をどうぞ」
「理術院は、俺を“保護”したあと、どの程度まで自由を残す?」
「君が“理の暴走”を起こさない限り、好きに散歩も読書もできる。塔の外にも出せる。仕事の依頼が来れば、君が受けるか選べる。……ただし、王の名で“召し”があれば、断れない」
口の中に、よく熟しすぎた果実の奥にある苦さが広がる。今の文には嘘が混じっていない。だからこそ、苦いのは“召し”だ。王の名の前では、全てが折れる。
「三日後、また来る」セヴランは扉を押して外に出た。森の空気が薄く揺れる。「君の名と、君が刻んだ“揺れ”は、もう塔へ走っている。……いい返事を期待するよ、アレン」
扉が閉まる。火の音が、ふたたび大きく聞こえた。エリナが口を開いた。恐怖が去ったあとの声は、妙に幼い。「アレン……さっきの、あれは……あなたの、スキル?」
俺は少し間を置いてうなずいた。「“メモ帳”の皮をかぶった何かだ。世界の縫い目に、短い針を通す。俺が無能だと笑ったやつらが、正直に笑っていられるほど、単純ではなかった」
エリナは唇を噛み、「ごめんなさい」と言いかけて、首を振った。「言い訳は後でいい。助けてくれて、ありがとう。……でも、理術院、本気だよ。あなたを“塔”に置いておきたい。研究して、枠に入れて、それから……」
「それから?」
「使う。王のために。戦争のために。悪く言えば、そう」
ヘイルが舌打ちした。「くそ、俺たちがあんたを追い出したから……」
「追い出したから、俺はここにいる」俺は火に手をかざし、熱で乾いていく羊皮紙の縁を見つめた。「責めたいなら、強くなってからにしてくれ。今は、三日をどう使うかだ」
三日。短いが、十分だ。塔に行くか行かないかではなく、行っても“檻”にならない形を作る。俺の手には、世界に届く細い針と、書くべき“仕様”がある。まず、街を出ない約束を守りつつ、俺の“縫い目”を自分の都合のいい方向へ整える準備をするべきだ。
俺は羊皮紙の余白を開き、今日の反省と方針を書き始めた。
『観測を遅らせるには“痕跡管理”が最優先』『広域命令は反動が大。自縛ルールを先に書いてから使う』『権威(王名・塔名)に触れる改変は抵抗が強い。直接は禁。媒介(場所・慣習・言い回し)を経由する』
書きながら、ふと、試してみたくなった。セヴランのような“権威の傘”を持つ相手に対し、直接干渉がどれだけの痛みを伴うのか。愚かだとわかっていたが、ここでわからずに塔に行くほうが、もっと危険だ。
俺は、ごく小さく、無害な文を準備する。標的はセヴラン――ではない。その「外套」。彼の身に纏う制度の布の、端っこ。
『理術院外方監の“外套の裾”は、今だけ風に少し翻りやすい』
書いた瞬間、片側のこめかみで硬い鐘が鳴ったような衝撃が走り、視界に細い銀の線がぱっと散った。痛みは一瞬で、汗が背中に出る。……“権威”がまとっている層は、たとえ端でも、硬い。だが、書けないわけではない。痛みが“値段”だ。
俺は大きく息を吐いた。「塔相手には、直接は撃たない。場所や言い回しから崩す」
自分に言い聞かせるように、ルールを重ねる。
『自分の身体に関する書き換えは反動を倍にする(頻用しない)』『拘束・支配に関する命令は、“合意の余地”を必ず残す』
火が落ち着いたところで、外からぎし、と雪解けのような足音が近づいた。ヘイルが槍を構え、俺は羊皮紙を握る。扉が開き、浅黒い皮鎧の男がひとり、肩で息をして立っていた。顔の右側に古傷、背には幅広の剣。
俺の元パーティのリーダー、ガロウだった。昨日、荷物袋を俺の足元へ投げた男。目の奥に強情があり、その表面に今は焦りと後悔が浮いている。
「……無能」最初の一言で、彼は自分の舌を噛みそうになり、慌てて言い直した。「いや、アレン。……助けてくれ。後衛が、まだ森の手前に取り残されてる。理術院の連中が来るって話を聞いて解散しかけたところ、刻毒狼が流れてきやがった。俺はここまで来れたが、足が……」
彼の左腿から、黒くじわりと広がる噛み跡。毒は浅いが、放っておけば筋が固まる。エリナが立ち上がりかけ、よろめく。「彼ら、まだ……?」
「わかった」俺は短く答え、羊皮紙に書く。
『この傷口に広がる“刻毒”は、炭と灰で一度だけ鈍る』
囲炉裏の灰を水で練り、傷に塗る。ガロウは歯を食いしばり、やがて息を吐いた。黒が少し退く。「た、助かる」
俺は彼の目を見た。そこにある虚勢と恐怖と、そして……計算。ガロウは“貸し借り”の世界で生きている。ここでの貸しは、彼の中で数字になる。
『彼の舌は、今だけ、自分に都合のいい嘘を吐こうとすると少しだけ絡まる』
俺は静かに言う。「状況を話せ。誰がどこで、何人」
ガロウは言い淀み、舌をもつれさせ、それでも吐き出した。「弓手と回復士が砥ぎ橋の裏手に、三人。……“聖印”の女がいないことに気づいた狼が、散った。森の縁に残ったやつが、奴らの退路を塞いだ」
「行こう」ヘイルが短く言う。エリナは頷き、杖を握り直す。その顔には痛みと決意が同居していた。昨日の「さようなら」はどこかへ置いてきたらしい。俺は彼女の横に並び、ガロウに視線だけを投げた。
「俺に命令する気なら、今はやめとけ」
ガロウは鼻を鳴らした。俺が書いた“舌絡み”が効いたのか、いつもの棘は半分しか外に出てこない。「……借りは返す」
狩人小屋を出ると、森の光はすでに朝の色を濃くしていた。セヴランの姿はない。だが、見られている気配は消えていない。目に見えない観測の糸が、木々の間を張り巡らせているのを、皮膚の裏で感じる。
羊皮紙に、経路を書き込む。
『砥ぎ橋裏手までの最短の“足場”が、俺の視界に薄く縫い取りされる』『俺たちの足音は、今だけ川音に紛れて薄くなる』
薄い光の縫い目が落葉の上に広がり、苔むした岩が静かに輪郭を主張する。俺たちはそこを踏む。森の匂いが濃くなり、やがて砥ぎ橋の裏手を覗く小さな崖に出た。下の窪地で、弓手と回復士が背を合わせていた。三方から刻毒狼がにじり寄る。光はない。彼らは“聖印”を持たないから、狼の興味は薄いが、それでも群れの流れがときどきぶつかってくるのだ。
『窪地の縁に沿って“甘い匂い”が流れ、狼の注意が半歩だけそちらへ向く』
狼の半分が、鼻をひくつかせて横を向いた。その瞬間を、ヘイルが逃さない。斜面を駆け下り、槍の石突で狼の鼻先を正確に打ち、間合いを開ける。エリナが短い祈りとともに光を指先に集め、斜面に“線”を引く。刻毒狼はその光に唸り、一歩退いた。
俺はもう一行。
『“砥ぎ橋の裏の陰”にいる俺たちは、狼の視界で“石の塊”に一瞬だけ重なる(弱く)』
狼の目が、ひゅっと滑った。その隙に、弓手と回復士が斜面を登る。ガロウが肩を貸し、ヘイルが後ろを押す。最後の狼が歯を鳴らし、飛びかかろうとしたところで、俺は小さく書いた。
『その狼の後ろ足の“地面だけ”、一瞬だけ柔らかい泥のようになる』
狼は踏み込んだ足を取られ、胸から地面に突っ込んだ。弓手が肩越しに矢を一本撃ち、木の幹に「危険」の印を刻む。全員が斜面を離れ、茂みへ身を隠したところで、俺は深く息を吐いた。
救出は成功した。だが、森はまだ“見て”いる。どこからか、薄い膜がこちらへかかる感覚。理術院の観測術か、それとも別種の観る眼か。俺は心の中で三つだけ残っている“同時維持枠”を数え、羊皮紙を閉じた。
狩人小屋に戻ったときには、太陽は樹冠の上に出て、空気は少し温んでいた。救い出した二人は、灰で毒を鈍らせ、動けるまで回復した。ガロウは腕を組み、俺を見た。いつもの威圧は半分、残り半分は計算と恐れ。
「借りを作っちまったな。……アレン、俺はお前を笑った。悪かった。だが、俺には俺のやり方がある。パーティは強いほうに寄る。お前、戻る気は――」
エリナが一歩前に出て、静かに遮った。「アレンは、私の仲間だよ。昨日は……愚かだった。彼がよければ、もう一度、彼と組む」
ガロウの顎に苛立ちが走る。「聖印、お前は王都に行きたいんだろ。塔の推薦状は“パーティの功績”につく。個人よりも、集団のほうが箔がつく」
俺は二人の間に手を上げた。「俺は戻らない。……戻ったら、俺が書くものは、パーティの都合に平らに削られる。俺は“仕様”を書きたい。俺の物語は、俺が決める」
ガロウの肩が、見えない壁に当たって止まったように固くなった。彼は舌打ちを、喉の奥で飲み下した。「好きにしろ。借りは、返す」
彼らが去ったあと、小屋に静けさが戻った。エリナは火のそばで、指の関節を一つずつ揉み、やがて顔を上げた。「これから、どうする?」
「三日を使って、三つやる」俺は指を一本ずつ立てた。「一つ、観測の糸を“鈍らせる”。二つ、塔に対する“反転の手すり”を用意する。三つ、稼ぐ。金と、人と、居場所。塔に行っても、行かなくても、どちらでも“動ける”ように」
「観測の糸を鈍らせる?」ヘイルが首を傾げる。
「痕跡管理だ。俺が書いた“縫い目”は、敏い目には揺れとして見える。なら、揺れを増やして“ノイズ”にすればいい。街の中で、人々が普段やる小さな“言い回し”や“おまじない”の層に、ほんの少しだけ縫い目を混ぜる」
俺は羊皮紙に走らせた。
『今日から三日、港と市場と祈祷所で、日常の“唱え言”に混じって、無害な“縫い目”が薄く増える(自動ではない/俺が口にするぶんのみ)』
頭痛は来ない。これは“社会的媒介”だ。個人への直接干渉ではなく、言葉が持つ慣習の層へ、そっと縫い付ける。塔の観測がこの街に降りたとき、見えるのは幾筋もの薄い揺れで、俺だけの線は沈む。
「反転の手すりって?」
「塔は“王の名”を使う。まっすぐ抗えば折れる。だから、王の名が届かない“隙間”を探す。たとえば、港の自治規約。古くて誰も読まない文書に穴がある。理術院じゃなく、“商人組合”の印のほうが強い場面が、たまにある」
孤児院の頃、古紙束の中に紛れた港規約を何度も読み返した記憶が蘇る。俺は微笑んだ。「それから、稼ぐ。書庫は魅力的だが、塔のパンだけで生きる気はない。港の船大工は、乾燥炉の煙が問題だと言っていた。煙を薄くする“仕様”を書く。市場の氷屋には、溶けにくい氷が欲しいという需要がある。小銭を積み上げる」
エリナが目を瞬かせ、そして笑った。「アレンらしい。……ごめん、やっと言える。昨日の私は、あなたを“置くべき荷物”だと思ってた。でも、あなたは、荷物じゃない。あなたが動くと、世界のほうが揺れる」
俺は首を横に振った。「世界は大きい。俺はただ、縫い目の端を摘んでいるに過ぎない。いつでも、反動で指が切れる」
そのとき、小屋の外で、羽音のような微かなざわめきがした。扉を少し開けると、森の端に紙片がひらりと舞い、足元に落ちた。拾って開くと、そこには、流麗な字が並んでいる。墨色は青に近く、薄い香がした。
『――観測の糸に、君の“針目”が混じったのを確認した。良い手だ。賭けてもいいが、君は港に行く。塔からの足は一日置く。三日ののち、再び砥ぎ橋で。答えを。 セヴラン』
紙片は、最初から俺の行動を知っていたかのように、俺の言葉へ噛み合う。背筋に冷たいものが走る。俺は紙片を火にくべ、燃え方を見た。炎は紙の香を一瞬だけ甘くし、それから何事もなかったように灰に戻した。
俺は羊皮紙に、新しいルールをひとつだけ、静かに足した。
『“待ち合わせ”は、俺が場所と時間を決める(弱く/交渉が成立している相手に限る)』
セヴランは賢い。ならば、賢い相手に通じる“礼儀”の層から縫っていく。三日ののち、砥ぎ橋――その指定を、こちらから少しずらす。港の見張り台。あそこなら、商人組合の古い旗が風下に垂れる。王の旗より、たぶん、効く。
火は静かに燃え、梁の薬草が香りを落とす。俺たちは立ち上がった。港へ行く。稼いで、縫って、塔に備える。
小屋を出る前、俺は一度だけ振り返った。薄暗い室内に灯る火は、もう必要ないのに、なぜか名残惜しかった。ここで、無能と呼ばれた昨日の俺は、ほんの少しだけ死んだのだと思う。
扉を閉め、森を抜ける。陽光はまぶしく、街はいつものように喧騒を孕んでいた。市場の女は値札に文句を言い、荷車の車輪は石畳に軋み、祈祷所の鐘は低く鳴る。世界は、巨大で、鈍く、しかし確かに、言葉に反応する。
港の見張り台の下で、船大工の親方が腕組みして空を睨んでいた。煙は風に押され、乾燥炉の屋根へ巻き込む。「おい、ガキ。昨日笑われてたってのはお前か。笑いを一回、働きで返せるか?」
俺は、羊皮紙を取り出し、笑った。「働きは、書ける」
炭軸が、白い面に触れる。今日の一行目は、生活のための文字だ。王や塔ではなく、港のパンのために。
『乾燥炉の煙は、屋根の上で風と“うまく”混ざり、町に戻らず沖へ細く伸びる(今だけ/炉の温度が適正のとき)』
煙はゆるりと形を変え、海の方へ細い絹の帯のように伸びていった。親方が目を細める。背後の職人が短く口笛を吹き、見張り台の旗が、たまたまか、わずかにこちらを向いた。
俺は空を見上げる。旗に刻まれた古い商人の紋章。その横に、まだ見えない“塔”の旗。三日後、そこに重なるのは、どちらの布だろう。
胸の内で、針の音が小さく鳴る。世界の縫い目は、ほどけやすくも、縫いやすくもある。俺はポケットの中の羊皮紙を軽く叩いた。
「三日で、俺のほうを正解にする」
潮の匂いが強くなり、遠くで船の鐘が鳴った。世界は動き始めている。俺が書いた文の続きは、まだ長い。ここからは、読む番でも、書く番でもある。どちらも、俺の役目だ。
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