イグニス・ファトゥスー愚かな炎ー

【第一章】

雨が好きだ。

 湿気のおかげで何も考えなくて済む。

 独りが好きだ。

 母親のうるさい声も、シャワーの音も、笑い声も聞かなくて済む。


 家が嫌いだ。

 ゴミ溜めの中で過ごすのも飽きた。

 学校が嫌いだ。

 誰かと関わるのが疲れた。

 人が嫌いだ。

 誰かが『私』の死を待っている。


  **


「ごめ〜ん、気づかなかったわ〜」

 彼女とすれ違う度に転かされる。

「ごめんって言ってんじゃん。なんか言ったらどうなの〜?」

「やめてあげなよ〜。ねぇ、鯉浦こいうらさん?……今日は一人で体育館裏だよぉ。……待ってるから」

 これで何度目だろうか。

 そもそも、これはいつから始まったのだろう。


 もう慣れた。


 放課後、『この時』がやってきた。

「ほらほら、鯉浦さんにお似合いの餌だよ〜」

「食えよ、ほら」

 どこからか持ってきたのか、いつのものなのかさえわからないほど腐った生ごみ。

 『私』のいじめの首謀者は同じ高校に通う藤崎絢寧ふじさきあやね、その友人の栗本くりもとゆか。

「うわっ、本当に食べた!汚ったなぁ〜」

 でも面白い、と軽はずみに喋っていた。

 その様子を見ている周りは動画まで撮っている人、面白がって笑っている人、様々だ。

「……ごほっ……」

 むせ返ってしまった。

「ちょっと!こっちに飛ばさないでよ‼︎汚ったない!……まじで最悪。萎えたわ。帰る」

 それ片付けとけよ、と言って絢寧は取り巻きの人達とその場を後にした。


「だっさ」

「よく食べられるよ、あんなの」


 くすくすと笑う声、蔑む目、悪態をつく言葉。

 『私』の心の中で何かが壊れていく。


  *


「ただいま……」

あめちゃん、ママ今日このお洋服を買ってきたの。ママが似合うんだから天ちゃんも似合うもの!」

 天の母親、ゆかりはそう言って、ピンクのフリフリとしたワンピース。

「うん……わかった。『ママ』、ありがとう」

 紫のことを『ママ』と呼ぶだけで彼女は満足度する。

 機嫌のいいときだけ『ママ』と言うとその日一日は何も起こらない。

 全ては紫の気分次第。

「先にお風呂……入ってきていい?」

 

 早く『消えて』しまいたい。


 何度、音が鳴っただろう。パキリ、というガラスを踏んだような音は。

「消えて……」

 何度、自分の体を掻きむしったのだろう。

「どうして……」

 何度、死のうと思ったのだろう。

「死にたい」


 また、音が鳴った。


 

 天は自室に戻り、ふと天井を見上げた。

───あの高さなら、いけるかなぁ…………。

 疲れた、と感じた。

「天ちゃん、ご飯食べましょう」

 丁度紫に呼ばれてしまった。

「うん、わかった」

 また、コンビニ弁当だ。

 紫は天が生まれてから一度も料理をしたことがない。

「こないだママこれ食べて美味しかったんだ〜」

 そう言ってコンビニの新商品弁当を開けた。

 一口食べてみる。何も味がしない。

 いや、自分が感じ取れないだけだ。

「どう?美味しい?」

 食事の際、いちいち聞いてくる。

「……美味しいよ」

 紫に『肯定』するだけで子供のように喜ぶ。

 猫を被っているのがつらい。


  *


 翌日。今日は朝から雨が降っていた。

「おはよー、鯉浦さん」

 絢寧。『貴女』はまた、するの?

「……おはよ」

 『私』は絢寧から目を逸らした。同時にチャイムが鳴る。

 教室に入り自分の机を見る。

『バカ』『出て行け』『死ね』

 お決まりの文句がずらりと殴り書かれていた。

 更に、机の中には虫の死骸。

 くすくすと笑う声が聞こえる。

───嗚呼、なんて幼稚な。

 天は机の落書きを消しゴムで消し、死骸をビニル袋に詰めた。後で捨てよう。

───疲れた。

 今日一日、放課後が来るまで絢寧を無視し続けた。

「藤崎さん、かわいそー」

 そんなことはどうでもいい。早く『消えて』しまいたい。

 『独り』になりたい。

───帰りたくない。

 『独り』になりたい。

───怒られるだろうな。

 『独り』になりたい。

───どこか、知らない場所に…………。


 気がつけば傘も差さずに港町の繁華街に出ていた。

 ネオンの光が夜の孤独を打ち消す。

 天はただただ歩き続けた。

「君可愛いね〜」

 ナンパしてきた男を無視した。

「君、芸能界に興味ない?」

 スカウトしてきた女を無視した。

 ただ、何も考えずに歩きたかった。

 紫からの鬼電があっても、誰かが話しかけてきても、『無視』した。

 そこで天は路地裏にあった小さな公園を見つけ、ベンチに腰掛けた。

 何のために生きているんだろう。

 もう、いいかな。



「あの……大丈夫?傘、差してないけど………」



 誰かが話しかけてきた。雨の心地が遮られる。

「大丈夫?体調悪い?」

 救急車呼ぼうか?とまで聞いてきた。

「……いいっ…………」

 天はその人を突き飛ばして走った。微かな視界から視えたのは青。

 『男』だった。

 いつぶりだろう。『色』が視えたのは。

 『あの日』から天の目から色が消えた。世界は全て灰色に染まり、何も感情が湧かなくなった。

 苦しい。

 悲しい。

 もう、わからなくなった。


「何のための電話なのよ!ママが電話したときはすぐに出てって言ってるじゃない!今日のことは許さないから。今晩、寝ることは許しません。勉強でもしてなさい。貴女は誰よりも完璧でなくちゃ。ママの面子を立てるためにもね。できるでしょう?」

 家に帰ると案の定、紫に叱られた。

───嗚呼、『また』だ。

 紫はキレると止められなくなる。

 愚かに燃えていく炎のように、暴走を始める。


 まるで、『イグニス・ファトゥス』のようだ。


 器の小さい妖精みたいに飛び交う。

 それがあまりにも滑稽で愚図で、幼稚だ。

───それを言うなら『私』もそうか。

 愚者同士の人形劇を鑑賞しているかのよう。

───本当に、愚かだ。

 いつまでこのざまを見ていなければならないのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る