第5話 再縫、灯をともす朝

 夜が明けると、村中が細い筋肉痛のような沈黙に包まれていた。《畳縫い》を一晩でやりきったのだ。家々の梁はわずかに鳴り、井戸の縁石は新しい重さを得たように落ち着いている。鍛冶場の煙突からは細い煙が上がり、麦畑の露は、糸に導かれて畝の低い方へ素直に集まっていく。


 「生きてるな」

 自分でも驚くほど、素っ気ない声が口から出た。村が“身体”だった時間の余韻が残っている。寝不足のくせに頭は妙に冴えて、世界の目地がいつもより近く見えた。


 「おはよう、リオ」

 ユナが湯気の立つ木椀を差し出してくる。塩気の強い粥に刻んだ野草が浮かび、香が優しい。

 「井戸の水、さっきまで湯みたいに温かったよ。あなたが集中させた“重さ”が、まだ余熱になってる」

 「昼までには抜ける。抜けたら井戸の内壁を縫い直す。昨夜の《捕縫》の爪痕が残ってる」

 「手伝う」


 粥をすすり終えるより早く、村の一日が動き出した。男たちは畝を見回り、女たちは裂けた窓紙を張り替える。子どもたちは……俺の後ろにくっついた。朝の光に目を細めて、俺の針の動きを、息を止めるみたいな顔で見ている。


 「字を、教えて」

 昨日助けた少年――ルオが、おずおずと手を上げた。手首の傷は、糸の《循環》が効いてうっすら桃色だ。

 「文字?」

 「ユナ姉ちゃんが言った。リオは何でも“段取り”から教えるって。ぼく、字が読めれば、村の印を間違えないで運べる」

 ユナが肩をすくめた。「昨日、井戸端で言っただけだよ。村の重さを文字で縫えたら、もっと強いって」

 「……いいな」

 俺は思わず笑った。「じゃあ“学校”だ。読み書きと、織りと、鍛冶と、畑。段取りの授業」


 広場の端、日当たりのいい壁の前に板を立て、煤で大きな円を描く。円の中心に小さく井戸、四方に道。簡単な村の図だ。

 「文字は《結び目》だ。音や形や重さを結ぶ結び目。ほどけないように、順番に覚える」

 子どもたちが頷き、石炭で真似する。ユナは少し後ろで腕を組み、目尻に笑い皺を寄せていた。


 授業の最中、門の方で物音がした。見張りの若者が駆けてくる。

 「旅人! ひとりです!」

 ユナと目を合わせる。俺は針を袖に隠し、子どもたちを家の方へ寄せる合図を出した。


 門に現れたのは、茶色のローブをまとった女だった。肩で切り揃えた黒髪、片目に浅い傷の跡。腰には革袋、手には杖ではなく、薄い板の束――羊皮紙を束ねたものだ。

 「神殿の者か」

 ユナが警戒して言うと、女はローブの内側から古い紋章を出した。白地に銀の針と糸――神殿書記の印。

 「元、だよ」女は乾いた笑いを漏らす。「名前はシアラ。王都の神殿で《織り文(オリブミ)》を管理していた。追われてる。……道中、黒い外套の連中を何組も見た」

 《黒紡会》のことだ。俺はローブの裾の縫い目に目をやる。旅慣れ、だが昨夜の雨の染みはない。畳んだ道を、迷いなく来られたのか。

 「この村へたどり着けたの、変だと思わない?」

 ユナが小声で問う。俺は頷く。「《畳縫い》にかかった外からの道は輪になる。普通は辿り着けない」

 シアラは、こちらの囁きを聞いてか聞かずか、ふらつく足で広場まで来ると、膝をついた。「水を少し」

 木椀に汲んだ井戸水を渡す。彼女は一息に飲み、息を整えた。「……あなたが、糸を巻く人ね」

 「旅の雑用係だ」

 「雑用係が《神鋳》の針を、墓標から拾うものかしら」

 視線が俺の袖をひと撫でし、そこで止まる。袖越しの針が、見られている気配に微かに鳴いた。


 ユナが間に入る。「用件を」

 「逃げてきた。ただ、それだけじゃない」シアラは羊皮紙の束を開く。びっしりと細い文字、そして細密な図。糸の織り、針の目、結びの式。

 「王都の大聖堂の地下。封印庫の奥――《黒紡会》が数年前から出入りしてた。名目は古織物の修復。でも実際は《織り機(ルーム)》の復元」

 「織り機?」

 「人を枠にして、神前の術式を動かす機械のこと。儀式の中核。古文書には“百人を縫い付けよ”ってあった。糸は血で、油は涙で」

 ルオが小さく息を呑んだ。俺は彼の肩をそっと押して家の陰へ戻す。シアラは続ける。

 「昨夜、王都から使徒が動いたって鳥便で回ってきた。あなたたちの村で、囮と罠が失敗したことも、今朝には知られてる。次は――《収穫期》」

 「なにそれ」

 「畳まれた村を、丸ごと“刈る”術よ。畳んであるから、余計にね。布を一枚引き抜くみたいに簡単になる。畳縫いは守りにもなるけど、“収穫”の条件を満たす形にもなるの」

 ユナの顔色が変わった。「そんな……」

 「止める方法は?」

 俺の声は落ち着いていた。怖いほどに。

 「二つ。ひとつは畳みを解く。村を通常の地形に戻す。そうすれば“収穫”の効率は落ちる。でも追手は来る」

 「もうひとつは?」

 「畳んだまま、畳みを“裏返す”。《返縫(かえしぬい)》って古いやり方。収穫の鎌が入ってきた瞬間、逆に持ち主の手首に糸を絡めて引き込む。相手が大勢だと危険。でも成功すれば、向こう側の“手”を切り落とせる」

 ユナの視線が俺を探る。「できる?」

 できなくはない。だが失敗したとき、村にかかる負荷は昨夜の比ではない。大人が数人、立っていられないほどの反動が一斉に来るだろう。


 「やるなら、段取りが要る」

 俺は広場に簡単な図を描いた。井戸を中心に、四隅に《返し》の楔(くさび)。楔ごとに一人“繋ぎ手”が必要で、呼吸を合わせて糸を引く。ユナが風で外圧を削ぎ、シアラが式文で節を固定する。

 「私もやる」

 シアラはためらわない。「神殿で字だけ書いてた罪滅ぼし。動かない手に、動いてもらう」


 図を描きながら、別の糸が指先を撫でた。遠い峠の方角――あの日、俺が一度だけ霧を裂いた場所。そこに、弱々しく、よく知った周波数が引っ掛かる。レオンたちの隊の《目印糸》。

 ユナが眉根を寄せた。「知り合い?」

 「峠で一度助けた。勇者隊だ」

 「……どうするの」

 どうもしない、という選択肢は簡単だ。だが峠が破れ、あいつらが村に雪崩れ込めば、段取りは崩れる。救うことが恩返しではなく、段取りの維持になるなら――。

 「最短で抜ける“溝”だけ作る」

 俺は針を軽く弾き、遠隔で山肌の糸を一本撫でた。霧が一筋だけ裂け、石の出っ張りの角度が変わる。そこを見つけられるかどうかは、向こうの“段取り”次第だ。甘やかしすぎない。けれど無駄に殺さない。


 「見逃すんだ」

 ユナはそれ以上、何も言わなかった。ただ、胸の前で短杖を握りしめる手に力がこもる。


 準備に入る。村長が楔の場所へ人を配し、若者が縄と杭を運ぶ。子どもたちは家の中で、俺が書いた簡単な祈り文を唱える練習をする。音の“重さ”もまた、糸の強度になる。

 「シアラ、式文の“節”はどうする」

 「古語のままは危ういから、音だけ借りる。村の言葉で書き換える」

 紙の上で文字が走る。神殿書記の手は、迷いがない。彼女は俺の描いた糸の節目を見て、必要な言葉を短く置いていく。言葉の重さを知っている手だ。


 夕刻、空の色が冷え、黒い塔の上に細い閃光が立った。昨日と同じ、音のない稲光。今度は三筋。一筋は村へ、二筋は谷の奥へ。

 「来る」

 ユナが風の層を三重に重ね、俺は楔の糸を張る。シアラが式文の最後の一字を置いた。

 「――返すよ」

 俺は息を吸い、村の“呼吸”に合わせて吐く。まず井戸の糸を半歩緩め、《収穫》の鎌を誘う。見えない刃が畳みの布へ触れる瞬間を、指先で待つ。刃は布を舐め、音もなく滑り――触れた。


 「いまだ」

 俺は四隅の楔を同時に引く。《返縫》の糸が裏側から表へ跳ね上がり、刃の柄に絡む。刃は抵抗し、背後の《手》が引く。こちらも引く。綱引き。だが俺には村の重さがある。鍋の煤、針の錆、子どもの笑い。向こうには、命令と機械の均一な重み。

 勝てる。


 「――ッ!」

 胸の奥が焼けた。柄の向こうにある《手》は、人ではない。均一のさらに向こう、空虚な中心に結ばれた巨大な“束”。糸の束が、俺の糸を食う。昨夜の黒糸の親玉。《織り機》そのものか、それに近いもの。

 「ユナ!」

 「削る!」

 風が唸りを上げ、刃の輪郭を削る。シアラの声が節を叩き、言葉の楔が刃の付け根に刺さる。俺は《復位》の糸を踵に結び直し、村の四隅に重さを再配分――

 「――返れっ」

 針を井戸に叩きつけた瞬間、世界が裏返った。井戸の水が空へ落ち、屋根が地平に滑り、藁が星をかすめる。反動で膝が抜け、楔の一つが悲鳴を上げた。村の老人が踏ん張り、若者が二人、代わりに縫い手に入る。息が合う。糸が鳴く。


 「切れ!」

 最後の一押しで、柄の向こうの《手》が弾けた。刃は持ち主を失い、こちら側に転がり込む。見えない金属音が広場に弾け、夜空の稲光が三筋とも消えた。

 沈黙。耳の奥に、自分の心臓の音だけが残る。


 「成功……した?」

 ユナが息を切らし、杖を支えにして屈む。シアラは膝をつき、両手で胸を押さえていた。「手首を落とした。向こう、しばらくは“掴めない”」

「けど、こっちは腕が震えてる」

 俺は笑い、地面に手をついた。ほんの少し笑いすぎたせいで、涙がひと粒、土に落ちた。恥ずかしいほどの解放感と、遅れてきた恐怖が混ざっている。


 村が、息を吹き返した。窓が開き、子どもたちが「うた」をやめて「わー」という声に変える。村長が井戸に触れ、温度を確かめ、頷く。

 「生き延びた!」


 その時、広場の端で、柔らかい光が生まれた。糸が集まる節の上に、小さな白い獣が丸くなっている。子犬ほどの大きさ、しっぽは糸束みたいにふわふわと揺れ、瞳は透き通る青。

 ユナが目を丸くする。「神獣……?」

 白い獣は俺を見て、首を傾げた。次に、俺の針の柄に小さく鼻先を触れる。柄の古い祈り文字がかすかに光り、獣の首もとに細い首飾りのような光の輪が現れる。

 「“主と縫い結ぶ”」

 シアラが囁いた。「神殿の記録で読んだことがある。神獣は、ときどき《神鋳》の道具と“結ぶ”。それは契約じゃなく、“継ぎ”」

 白い獣は「くぅ」と鳴き、俺の足元で丸くなった。糸の震えが、少し穏やかになる。針の“向こう側”にあった冷たさが、柔らいだ。


 「名前、つけていい?」

 広場の陰からルオが顔を出す。さっきまで震えていたのに、今は目がきらきらしている。

 「……うん」

 「じゃあ、“しらたま”」

 白い獣――しらたまは、満足そうに尻尾を一度だけ振った。


 笑い声の輪が広がっていく。ユナが小声で言う。「このタイミングで神獣。神殿は黙ってない」

 「《黒紡会》も、だ」

 シアラが顔を上げた。「でも、いま《返縫》で“手首”を落とした。向こうは混乱してる。数日は猶予がある。その間に、王都へ知らせを送って、神殿の中の真っ当な人間を動かす」

 「動く人間が、残ってるか」

 「残ってる。……そう信じたい」

 シアラの視線は強かった。書記の眼。文字で戦ってきた人間の眼。


 「知らせは俺の糸で送る。山の郵便小屋までは一跳びだ」

 俺は針を構え、空へ細い糸を投げた。糸は《畳縫い》の縁をすり抜け、峠の上空を渡り、山背の向こうの小屋の鈴にそっと触れる。鈴が一度だけ鳴り、眠っていた伝令鳥が目を開けた気配がした。シアラが書いた短い文を糸に結び、そのまま鈴へ流す。文字は音になり、音は方向を得て飛ぶ。段取りは、道になる。


 陽が傾き、藁屋根が金色になる。今日だけで、いろんなことが起きすぎた。だが村は立っている。井戸は水をくみ上げ、鍛冶場は火を吐き、畑は風を受けて波打つ。子どもたちは板の前に戻り、円の中に新しく“小さな白い丸”を描き足した。

 「しらたまの家」

 ルオが照れ臭そうに笑う。俺は頷き、円の端にもうひとつ、小さく印をつけた。

 「“学校”」


 夜。囲炉裏の火に手をかざしながら、ユナがぽつりと言った。

 「追放された雑用係が、村を守って、学校を作って、神獣と縫い結ぶなんて――物語みたい」

 「物語は、段取りが九割だ」

 「じゃあ、この先の段取りは?」

 火のはぜる音の間で、しらたまが薄く鳴く。俺は火に針先をかざし、柄の祈り文字の擦り減った部分を指で撫でた。

 「王都から“真っ当”を引き寄せる。黒紡会の“織り機”を潰す。村の畳縫いは維持しつつ、収穫の逆手に取り続ける。商人の道を細く繋ぎ、鍛冶を増やす。畑の水路を明日、一本引き直す」

 「忙しいね」

 「雑用係だから」

 ユナが笑って、湯飲みを差し出す。「じゃあ、雑用係長」

 「役職が勝手に上がった」

 「上げたのは村。あなたはもう、ここで“要らない”って言われないよ」

 火が小さく爆ぜ、囲炉裏の上で湯が一度だけ大きく揺れた。俺は湯飲みを受け取り、熱い湯を一口、喉に通す。胸の中の冷えは、もうどこにもなかった。


 遠く、黒い塔の周囲で異様な気配がわだかまっている。切り落とされた“手首”の場所が血に濡れ、誰かがそれを拾うために近づいている。物語の次の頁が、風にめくられる音がした。

 けれどその風は、もう冷たくない。しらたまが足首に頬をすり寄せる。ユナの笑い声が低く響く。シアラの筆の音が隣の部屋で続く。

 段取りは、揃っている。

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