第3話言葉と定義とおじさん

 翌朝。宴の余韻でほんのり頭が重い。けれど胸の奥は妙に澄んでいた。

「おはようございます、旅人さま」

 声をかけてきたのはリーナだ。いつも通りの柔らかな笑み――だが俺は、その“いつも通り”がこの世界の概念がいねんに寄りかかっていることを忘れないと決めた。今日は一歩、踏み出す。


「リーナ。昨日の“特別”って言葉、覚えてる?」

「はい。旅人さまはわたしたちにとって“特別”です」

「その“特別”の中でも、さらに“特別中の特別”があるとしたら……どう思う?」

「うーん……“特別の上位分類”ですか?」

 やっぱり、感情ではなく分類で受け取る。


 長老の小屋に場所を移して、俺は二人の前に座った。机の上には炭と板切れ。

「新しい言葉を作りたい。名前を与えれば、みんなが同じものを指差せる。言葉は象徴しょうちょうだ」

「しょうちょう……?」

「目に見えないものを、皆で触れる形にする印だよ」


 俺は炭で板に丸を二つ重ね、♡に似た図形を描いた。

「これを合図にしよう。二人が互いを他の誰より大切にしたいと思う気持ち――一緒に時間を過ごしたくなる、相手を思い出すと胸が温かくなって落ち着かなくなる。ときには“自分だけの人であってほしい”って願ってしまう。そういう心の動きの総体だ」

 言いながら、自分の胸が少しだけ鳴る。童貞のくせに、説明だけは達者だと我ながら苦笑する。


「“自分だけの人”というのは、物の独占どくせんに似ているのですか?」と長老。

「近いけど違う。物は所有できるけど、人は所有しない。するのは“選ぶ”と“選ばれる”という双方の合意ごういだ。相手を尊重して、傷つけないようにする心の倫理りんりが前提にある」

「りんり……新しい掟でしょうか」

「掟というより、“相手を人として扱う”約束だね」


 リーナが首をかしげる。

「その気持ちは、どうやって確かめるのですか?」

「まずは仮説かせつを立てて、検証けんしょうする」

「け、けんしょう……?」

「簡単に言うと“試して確かめる”。たとえば――手をつなぐ。けれど誰とでもではない。“特別中の特別”の相手とだけ。つないだときに胸が鼓動こどうして、離れたあとも余韻が残るかどうかを観る。これは“挨拶”じゃなくて“選んだ関係のサイン”にする」


「なるほど。“手つなぎ”を新しい合図として再定義するわけですね」

 長老の理解が早い。が、そこでリーナが、ためらいがちに手を差し出してきた。

「では、試してみますか?」

 俺は一呼吸置いてから、掌を重ねた。温度が伝わる。村の風が通り抜ける音が少し遠くなる。

 ――ドクン。

 単純だ。単純だけど、確かに来る。


「どう?」

「……手、あったかいです。あと、なぜか胸のあたりが忙しい感じです」

 リーナが小首を傾げる。その無垢な言い方が逆に危険だ。

「それが“合図”だ。誰とでも起きるわけじゃない。少なくとも、起きたら相手を雑に扱わない、と約束する価値がある反応だと思う」


 長老が腕を組む。

「その新しい合図と気持ちの束に、名はあるのですか?」

 ここだ。俺は息を整え、音を置く。

「“れんあい”。文字にすると“恋にあいと書く”。けれどこの世界には文字も語もまだないから、音だけでもいい。“レンアイ”」

「レンアイ……」

 リーナが、その音を舌で転がすように繰り返した。音は小屋に馴染み、板の♡は、ただの図形から“意味”へと変わっていく。


「“レンアイ”は、誰か一人を“特別中の特別”として選び、選ばれる関係。互いの同意を基礎に、時間と労力を投じて育てる。勝手に奪うのはダメ。痛ませるのもダメ。二人で決める契約けいやくに似ているけど、紙や印ではなく、行いで示す」

「行い……たとえば?」

「一緒に散歩する。相手の話を最後まで聞く。困ったら優先して助ける。触れるときは必ず“触れていい?”と尋ねる。断られたらそこで止まる――それが“レンアイの倫理りんり”だ」


 長老は目を細め、ゆっくり頷いた。

「面白い。掟では縛れぬが、掟より人を傷つけない道かもしれん」

 リーナは、胸に手を当てて小さく笑う。

「さっきの“忙しい感じ”を、わたしはもう一度感じてみたいと思いました。……それも“レンアイ”ですか?」

「そう。“もっと知りたい、近づきたい”と願う気持ちも、レンアイの一部だ」


 俺は板の端に小さく印を描き、二人に見せる。

「今日からこれは“レンアイの印”。でも、村じゅうに急に広めるのは良くない。布教ふきょうは段階を踏む。まずは言葉と意味を誤解なく伝えること。それから“やってはいけないこと”を先に決めよう」

「やってはいけないこと?」

「相手の“いや”を無視しない。二人の関係を盾に、他の人を傷つけない。嘘で釣らない。――この三つは最初の柱にしたい」


 長老は手を叩いた。

「では、試しに“レンアイの散歩”なるものを、村の外れの小道でやってごらん。人の目が少ない方が、心の音を聴きやすかろう」

 リーナがぱっと顔を明るくした。

「いきましょう、旅人さま」

「う、うん」

 俺は立ち上がる。外は朝の光。小道の先には、昨日見つけられなかった景色がある気がした。


 扉の前で、長老が俺の背を軽く押した。

「名を与えた者は、名に責任を持つ。おじさん――その名を穢さぬよう、ゆっくりとな」

「わかってる。急がない。レンアイは、走ってつまずくより、歩いて届く」


 小道に出ると、風が草を撫でていく。隣でリーナが、そっと俺の袖をつまんだ。

「これは……“挨拶ではない触れ方”で合っていますか?」

「合ってる。ありがとう、リーナ」

 袖口から伝わる、ごく小さな体温。そのささやかな合図は、確かに新しい世界の入口になっていた。


__________________


後書き


 第3話は、“言葉づくり”と“レンアイの初期定義ていぎ”を描きました。目に見えない心を、まず言葉という象徴しょうちょうに固定し、次に手をつなぐという合図で検証けんしょうする――“布教は段階的に”が主人公の方針です。

 次回は、長老の提案どおり“レンアイの散歩”を実施。倫理りんり合意ごういを守りながら、二人で歩くこと自体を“関係の行い”として試します。誤解や“特別”の使い分けから生まれる小さな事件も用意しています。

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