第22話🌸「ごめんなさい」
中学生の頃。
生まれつき明るい髪色をどうにか目立たせたくなくて、知里佳は髪を黒く染めた。
元々、体調を崩しがちだった身体は成長するにつれてちょっとずつ体力がついて。それに合わせて食欲も増し、「知里佳ちゃんって枝みたい」と言われてきた身体にも少しずつ肉がつくようになった。
眼鏡をかけて、黒髪を二つに縛り、ふくよかな身体は縮こませて教室の隅で過ごしていた。もう、「ちりちゃんって変だよね」と髪の毛を切られるのは嫌だったから。
それから失恋をして体重を落とし、化粧やお洒落も覚えた。『おまえのことなんて、誰も好きにならない』――そう、好きだった、優しかったはずの相手に言われた言葉が、ずっと胸に刺さって抜けなくて。誰にも好きになってもらえなかったとしても、できる限りの努力をしようと思った。
「でもそんなの……なぁんの意味も、なかったな……」
暗い自室で、ぽつりと呟く。
真壁らと別れてから自室に戻り、部屋の電気をつけることも、化粧を落とすこともできずに、玄関に座り込んでしまっている。
失恋、とすら言えない。この気持ちが恋に育つよりも先に、これ以上は進めなくなってしまったから。
ため息をついて、のろのろと台所まで進む。微かな灯りを頼りに冷蔵庫を開けると、庫内の白い光がやけに明るく感じた。
卵のパックに、開封済みの調味料がちょこちょこ、それから明日の夕飯にする予定の鮭の切り身。それらの中に、一本だけ酎ハイの缶が置かれていた。
それは、四月の下旬に行われた学科の歓迎会で、余ったからと酔った先輩に押しつけられたものだった。まだ十八だし、と断りたかったが、大して親しくもない先輩からの好意を跳ね除けられるような強さがあれば、今頃こんな鬱々としていない。
銀色の冷えきった缶を、手に取る。捨てることなく、冷蔵庫にしまいっぱなしでいた。それは別に必要だからじゃなくて、あってもなくても大差ないから。
まるで自分みたいだなと自嘲しながら、知里佳は缶を開けた。
こくりと口をつける。甘ったるくて、でもジュースとは違う後味だ。正直、嫌いじゃない。
はじめてのアルコールに、頬が温かくなる。こくりこくりと喉を鳴らしていると、だんだんと身体全体がぽかぽかしてきた。
「……っふふ。おいし」
自然と、口元に笑みが浮かんだ。なんだか心地よいふんわりとした感覚に、全身が包まれていく。
知里佳はそのまま立ち上がると、缶を握って玄関を出た。
どうせなら、綺麗な景色でも眺めながらこの感覚を味わおう。それには、コンビニが真下にある二階の自室じゃ物足りない。
エレベーターに乗り込んで、十階のボタンを押す。はじめて行く階で、このマンションの最上階でもある。
エレベーターを降りると、二階とは全然違う景色が通路からでも見られた。ふらふらと手すりに寄って、夜の街並みを見下ろす。
「……きれー」
知里佳の実家がある場所は山がちな田舎で、夜になると星が綺麗だ。ここからは空の星はあまりよく見えないが、代わりに地上にビルの灯りがあちこち瞬いていて、星の代わりになっている。
くぴりと缶に口をつけながら、ぼんやりとそれを眺めていると、階段の方から足音が聞こえた。最初、階下の人が降りていく足音がここまで響いているのかと思った。だって、最上階に階段で登ってくる人がいるなんて、考えもしなかったから。
「――橘さん?」
聞き覚えのある声に、「えっ」と振り返る。想像もしてなかった相手が、驚いた顔でこちらを見ている。
「……柳楽、さん? なんで、こんなとこに」
「いや、それはこっちの台詞……俺、ここの階だし」
言いながら、柳楽が一〇〇八号室を指差した。そういえば、たこ焼きのときにそんなことを聞いた気がする。ああ、これじゃまるで、片恋相手を待ち伏せしていたみたいじゃないか。
「すみません……うっかり、してただけ、で。あの、怖がらないでくださいね」
「いや、怖がる理由もないけど……なにその、手に持ってるの。酒じゃない? 君、俺と同い歳だろ」
「……心配してくれるんですか?」
くすりと笑うと、心なし柳楽の顔が赤くなった気がした。
「酔っ払ってるの? どれだけ飲んだんだよ」
「んー。これだけ、ですよ。まだ残ってる」
「缶チューハイ一本も開けないでそんな酔っ払う奴が、徘徊しながら飲むんじゃないよ」
大きな手が、缶を奪おうとする。それを察して、知里佳はさっと避けようとした。が、勢いで中身がいくらか溢れてしまう。
「あー……濡れちゃった」
「え、あ。ご、ごめん」
柳楽が慌てたように謝る。豊かな胸元が濡れて、そこからアルコールの香りが漂いだす。
「ふふ。いーよ、許してあげます」
言いながら、知里佳はくすくすと笑う。
柳楽がこちらを見てくれている。会話をしてくれている。そのことが嬉しくて仕方がない。
今、この瞬間を逃したら、もう二度とこんなときはない。
そんな気がして、知里佳はそっと柳楽の顔に手を伸ばした。
自分よりも二回りくらい大きな柳楽の顔に触れるには、思いきり手を伸ばしてようやくだった。それなのに、柳楽はまるで凶暴な動物にでも襲われたようにびくりと身体を振るわせ後ずさる。
「え、なに。どうしたの橘さん」
「そんな、怖がらないでくださいってば」
くすくすと笑い、知里佳はもう一歩近づいた。柳楽は慌てて下がって、その背中が自分の部屋の玄関にぶつかる。
「……やめて、近づかないで」
柳楽の声が震えている。怒っているのかな、と思ったが、真っ赤な顔は本当に怯えているように見えた。
「そんなに……私のこと、嫌いですか……?」
するりと手を下ろして、知里佳はそのまま大きな手を取った。
コンビニではじめて、自分に優しくしてくれた右手。ごつごつしていて、固い手のひら。重ねると大人と子どもくらいの差がある。
「ごめん、橘さん……離して」
自分よりずっと大きくて強い柳楽が、どうしてこんなに知里佳を怖がるのだろう。アルコールにぼんやりとする頭で、知里佳はその顔を見つめる。
太く形の良い眉に、眼鏡の奥に見える黒い瞳。その下にはあざがあって、健康的な色をした肌に、艶やかな唇。
アスリートのような身体についた顔面は、見れば見るほど綺麗に整っている。
そして。その顔は、知里佳の心の奥を、何故だかつかんで離さない。今、この瞬間も。
「……ごめんなさい」
ぽつりと呟いて、そっと知里佳は柳楽の手も離した。微笑んで――できる限り精一杯の笑顔を、柳楽に向ける。
店長に教わった。コンビニは舞台だと。そこでは店員は、客に笑顔を演じるのだと。
柳楽とは、客と店員として出会った。それ以上、仲良くなりたいと願ったのが、そもそも間違いだったのだ。
「ごめんなさい、ジャスミンさん」
ぺこりと、頭を下げる。
「たくさん、嫌な思いをさせてしまって。もう、ちゃんと――弁え、ますから。私がいない時間帯くらいは、コンビニ来てくださいね。ジャスミンティー、切らさないように店長にもお願いしておきますから」
顔を上げて、またにっこり笑う。どうせこれで最後なら、笑顔を覚えていてほしいと思ってしまうのはエゴでしかない。
柳楽は黙っている。その顔はもう見られなかった。
頭の奥に、またあの呪いの言葉が浮かぶこともなかった。好きになってもらえないのも、嫌われているのも、もう分かりきっているから。
そのまま、踵を返してエレベーターへ向かう。できるだけ背筋を伸ばそう。これ以上、みっともないと思われたくないから。幸い、エレベーターは最上階に止まったままだ。
知里佳は震える指でボタンを押し、「おやすみなさい」と口早に言うと、エレベーターの中に入り込んだ。
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