ピリオド6 ・ 1973年 プラス10 〜 始まりから十年後・2
ピリオド6 ・ 1973年 プラス10 〜 始まりから十年後
2 岩倉節子
大男を殺した犯人は、元の時代と一緒でやはり捕まっていなかった。これからさらに十年過ぎても、智子の方も行方不明のままなんだろう。
だからこそ再び訪れるあの日のために、やれることをすべて準備する。その上で三十五歳の彼をこの時代に残し、智子を元の時代に戻したかった。
ところがだ、そんなことをするに至れば……、
――過去に行ってしまう俺がいないんだから、この時代にいる俺は、この世界から消え去ってしまうかも……?
そうなってしまう恐れは十二分にあるんだと思う。だから大男を殺した未来から来たヤツも、この世界から忽然と消え去ったのだ。もちろんその逆だってあるだろうから、その場合はいずれおんなじことが繰り返されるということだ。
ただとにかく、幸い株の方はぜんぶ売れ、それだけで当分の間は生きていけた。さらに土地の方も手放せば、残りの人生ずっと遊んで暮らせるのかも知れない。
あの日、株券を目にしてすぐにある出来事を思い出した。
そのことのおかげで勤めていた会社の業績も一気に落ち込み、大らかだった社風がギスギスし始めたのも稔が目覚めたこの1973年だった。
第一次オイルショック。秋には日本を襲うこの石油危機は、その後の株価にも多大な影響を与える。だからその場で売り払うと決めて、下がるところまで下がったらまた買い戻そうと考えた。結果そんな思い付きは大成功。その後も記憶を頼りに、降って湧いた資産について次々手を打ったのだ。
しかしその反面、変わらずに働いてくれる頭と違って、身体の方はなかなか元のようには動かなかった。最初はお遊び程度だったリハビリも、日に日に厳しさを増していく。特に歩行の訓練があまりに辛く、彼は「もう無理だ!」と心で叫び、幾たび投げ出したいと思ったかしれない。そんな時、いつも決まって思い出すのだ。
――あと十年経たないうちに、十五歳の智子がこの時代にやって来る!
若々しい智子の顔が浮かび上がり、その都度なんとか踏みとどまった。
ところがある日、さらなる不運が襲いかかった。リハビリ中に倒れ込んだ瞬間、右脚に強烈な痛みが駆け抜けたのだ。
全治二ヶ月。ただし骨がずいぶん脆くなっているから、もう少し余計にかかるかもしれない。医師からそう告げられ、不覚にも涙がドッと溢れ出た。
――俺がいったい、何をしたっていうんだよ!
怒りを軽く通り越し、言いようのない喪失感が彼の心を埋め尽くした。その日を境に、稔の中で何かが大きく変化する。ギプスをしていようが車椅子には乗れるし、歩く以外のリハビリだってたくさんあった。
ところがどうにもその気になれない。すべては脚を治してからだ。こう思うくらいが精一杯で、何を言われようがリハビリ一切を断り続けた。さらに、ほとんどの時間をベッドの上で過ごすようになり、日に日に口数さえも減ってくる。
骨折からひと月近く経った頃には、稔は自ら言葉を発さなくなった。看護婦が話し掛けても返事はひと言ふた言。それだってあればいい方で、だいたいの場合は頷くくらいがせいぜいとなる。食事も取ったり取らなかったりという具合になって……、
「そんなんじゃ、治るもんも治りませんよ!」
医師や看護婦からそんな声が掛かっても、もはや表情さえ変えようとしない。
そんな状態のまま五月を迎え、その日は妙に寒々しい朝だった。そろそろお昼時という頃、小さなノックが二回響いて見知らぬ女が姿を見せた。この時代にしては大柄で、厚化粧の感じが商売女を連想させる……そんな女性がいきなり現れ、目を合わせるなり明るい声で言ってくるのだ。
「あら、本当に目が覚めたんですね。意外と元気そうじゃないですか!」
きっと以前から稔のことを知っていて、どこからか覚醒したと聞き付けた。そうして興味津々、図々しくも押しかけてきたってところだろう。
「退屈していらっしゃるって聞いたんです。だからね、お好みかどうかわかりませんが、これ、陣中見舞いです……」
反応ないままの稔に構わず、女性は抱えていた紙袋をベッドの脇にストンと置いた。
こうなって、さすがに黙ったままではいられない。
「あの……どちら様ですか……?」
「ああ、ごめんなさい、わたし岩倉節子と申します。担当の広瀬先生にわたしもお世話になっていて、名井さんのことは、以前から話に聞いていたんです。それで、久しぶりに診察に来たら、先生からお目覚めになったってお聞きして……」
頭をチョコンと下げてから、岩倉節子という女性は照れ笑いのような表情を見せた。
ところがすぐに、そんな笑顔がぎこちなく揺れる。
「でも、本当によかった……本当に……おめでとうございます」
ふーっと長い息を吐き、そう呟いてから今度は深々頭を下げた。
その瞬間、彼女の目には涙があった。光るものが揺らめいて、顔を上げれば頰を伝った跡まで見える。さっき初めて会ったのだ。なのに稔のために涙まで流して喜んでいる。稔はそんな事実に、女性との距離が一気に縮まったように感じられた。
そしてそうなってやっと、ベッド脇に置かれていた紙袋に手を伸ばす。中身は十数冊の文庫本。ちょっと見ただけでも推理小説からSF、ハードボイルドまでと幅広いジャンルに及んでいるのが見て取れた。
「本屋さんに聞いてきたんです。でも、もしつまらなかったら無理しないでくださいね」
そう声にしてすぐ、「それじゃあ、わたしはそろそろ……」と呟いた。
その時とっさに、思わず声になっていた。
「あ! ちょっと待って!」
言った途端にドギマギしたが、それでも稔は彼女を見つめ、隅に置かれた丸椅子を指差しながら告げたのだった。
「お急ぎじゃなかったら、もう少し……ここにいてもらえませんか?」
どうしてこんなことを口走ったか? 少なくとも年齢は近いだろうし、水商売であれなんであれその顔立ちは美人と言える。それでもやっぱり一番は、彼女が流したあの涙のせいに違いない。一方女性はその瞬間、大きく目を見開いて、少し驚いたような顔をする。しかしそんなのもほんのいっときで、すぐに稔を見つめてニコッと笑った。
「わたしには家族もありませんし、急ぐようなことなんてありません……」
静かな調子でそう言うと、丸椅子をベッド脇まで持ってきてから腰掛けた。
「あの、広瀬先生には、どうして……?」
少々不躾すぎると思ったが、そう思った時にはすでに言葉になっている。
「大した病気じゃないんですけど、ここのところちょっと悪くなってしまって、しばらく先生のところに通うことになりそうなんです。じっとしてばかりだからいけないって、先生に怒られちゃって……だからせいぜい頑張って、この病院まで歩いて通おうと思ってるんですよ」
そう言って、岩倉節子はなんとも優しい笑顔を見せた。
それからというもの、彼女は週に一、二度稔の病室に姿を見せる。そして他愛もない世間話から、自身の身の上なんかを話してくれた。
きっと彼女は稔より若い。初めて会った時からそう思っていたが、実際の年齢を耳にしてその若々しさに心の底から驚いたのだ。
昭和四年生まれ……ということだから、今年で四十四歳だ。
東京大空襲の日、気が付けば焼け野原にたった一人で立っていたらしい。それからずっと、彼女は一人であの戦後を生き抜いてきた。
実際、戦後生まれである稔には、到底及びもつかない苦労だってあっただろう。もしかしたら不思議に思うくらいに厚塗りの化粧は、そんな過去の生き様からきているのかもしれない。ただなんにせよ、稔はそんな時代をまったく知らない。
お互い四十四歳と四十六歳という二歳違いだ。本当なら共通する体験も多いだろうし、特に終戦直後、当時のことは絶好の話題となるはずだった。
ところが稔にとってはその手の話が一番困る。
「昭和二十年にあった大空襲の時って、名井さん、東京のどの辺りにいらしたの?」
なんてことを尋ねられても、生まれてないから答えようがなかった。
下手な場所を節子に告げて、「そこは火の海だったでしょう」なんて返されれば、生き残れた理由まで話す羽目になるかも知れない。
そんな危なっかしい部分はあったが、とにかくいろんなことを彼女と話した。そうして次第に節子が現れる日が待ち遠しくなっていき、出会いからひと月くらい経った頃には一緒に散歩までするようになる。病院の周りをグルッと一周するくらいだが、彼女は病室を訪れると車椅子に引っ張り出して、彼を外の世界に連れ出してくれた。
そんなのはやがて節子の診察日とは関係なくなり、二ヶ月も過ぎる頃には顔を見せない日の方が珍しいくらいになっている。
当然稔も申し訳なく感じ、さぞ大変だろうと声にすれば、
「ここまで歩いて通うことが、わたしにとっては治療になるんです。それにね、名井さんと話していると楽しいから、ついつい押しかけちゃうのよね……」
などと笑いながらに返してくれた。
そしてちょうどその頃、担当の医師が節子と一緒に現れるのだ。
「広瀬先生から、名井さんにお話があるそうですよ」
目が覚めた時、そばにいてくれたのがこの広瀬という医師だった。彼は懐かしげにその時のことを口にしてから……、
「で、名井さん……どうでしょう? リハビリ、そろそろ再開しませんか?」
満面の笑みのまま、彼は唐突に稔に向けてそう言った。
――これまでどうしてそうしなかったのか?
いきなりの提案に、稔は素直にそう思うのだった。
トレーナーは前と一緒で、もちろんリハビリルームだって変わらない。
ところが天と地ほどに気分が違った。
「さあ、今日はどのくらい歩けるかしら~」
リハビリの時間が近付くと、そんな声が響いて節子が病室に現れる。それから倒れ込む彼を心配そうに見つめつつ、いつも最後までリハビリルームに居続けた。
自分でも驚くくらい、節子の存在によって頑張る気になれる。だからと言って、知っているのは名前と年齢、大凡の住んでいる場所くらいだ。当然付き合っているわけではないのだが、それでも一緒にいる時間はそこそこ長いと言えるだろう。
とにかくそんな微妙な感じのまま、二人の時間は平穏無事に過ぎて行く。そうして目覚めてから四ヶ月と十日目……七月二十日にめでたく退院の日を迎えることができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます