第20話「土起(つちおこ)し、根の歌」
夜の寝火(ねび)に灰をひとつかみ掛けてウの音を確かめた朝、晒(さらし)の柱の白はわずかに土色を帯びて見えた。北からの乾いた風が屋根を撫で、港の縄はぎしりと鳴るでもなく、ただ粉(こ)のような軽い音を立てた。胸の輪は低くゆっくりと鳴り、余白の声が落ちる。
――第十四。土を起こせ。踏まれた地に根を返せ。
根を返せ。倒すでも、ひっくり返すでもない。地の裏側の息を表に引き出して、のんびりが立てる場所を作る――そういう響きだった。
俺は写し板に新しい列を立てた。土(つち)――起(おこ)/畝(うね)/種(たね)/休(やす)。
起は土を起こす手順、畝は風と水の路に沿う背骨、種は種の置きどころと交換の約(やく)、休は土の息継ぎ――**休耕(きゅうこう)**の面(おもて)だ。
商会の大広間で列を示すと、ハルドは即座に簿冊へ「土費」の項を足した。
「鋤(すき)、鍬(くわ)、土笛(つちぶえ)、藁布(わらぬの)、堆(たい)――全部在るに入れる。土は“見えない”支出が多い」
司祭は白壁を見上げ、指で短い句を作る。「土祈(つちいの)を。『息を入れ、虫を残し、角を丸く』」
レグルスは棒の先で砂に図を引いた。「土の秤が要る。重さより、握(にぎ)り。団(だん)にして、音(おん)で見る。乾き過ぎはカサ、湿り過ぎはベタ、ちょうどはポト」
エイベルは粉袋を叩いて笑う。「塩見(しおみ)豆を作る。土に混ぜて灯を当てると、塩が多い所だけ白く跳ねる豆」
ダリオは影の耳を数え、「畝の影は長さで嘘をつく。朝と夕で二度、見る」と言った。
フィリスは柄を肩に乗せ、歯を見せる。「**柄鋤(えぐわ)**つくろ。折らずに土を起こす道具」
王家の監査官はうなずいて、慎重に付け加えた。
「土市(つちいち)から始めよう。見本の畝、休の面、種の交換台、土の秤の台――選ばせて、晒に載せる。耕は人の誇りに触れる。押しつけは荒れる」
押しつけずに、面で誘う。街のやり方になった。
◆土市(つちいち)、面の支度
商会前から市場、港、聖署、監査台、そして城外の空き地にかけて、土の面を五つ敷く。布市で覚えた紋を土へ写す。
・丸/穂……休耕の面。座って笑いながら土を見る場。
・波/格子……水路畝。雨を受け、帳に記す場。
・矢/渦……種置き。短い列で置き、すぐほどける。
・格子/丸……土札を吊るす台。誰がどの畝に居合わせるか。
・渦/波……風曲げ垣の足元。砂走りを丸める幕の設置場。
子どもらはまず土笛に群がった。素焼きの小壺に細い口、底に小穴。土団子を押し当てて吹くと、ポト、カサ、ベタと不思議な音がする。
「ポトが好き!」
「ベタは手が汚れる!」
汚れるのは悪くない。手で土を知ることは、怒りより先に笑いを呼ぶ。
土の秤の台では、レグルスが“三つの握り”を教えた。
「朝握(あさにぎ)は静かに。昼握は早く。夕握は長く。三つが揃えば“起”が合う」
同じ土でも、日の間で表情が違う。秤は一度ではなく三度。見えるは、時にも宿る。
種置きの台には、港から集めた塩に強い芥(からし), 職人街の裏庭で育った甘藷(かんしょ), 聖署の薬草棚からの薄荷(はっか)の苗――甘も薬も燃料も並ぶ。
交換の句は短い。
「一置き一返礼/緩・いつでも」
緩を先に置く。持ってきた種をほどけるように置いていけば、奪い合いは起きない。
休耕の面では、司祭の土祈が静かに回った。
「息を入れ、虫を残し、角を丸く」
虫を嫌う顔がある。だが、虫は土の名の一部だ。名で包むのと同じく、虫で包む。晒の柱には「休:丸穂/虫:在」が黒で灯った。
◆畝を起こす、柄鋤(えぐわ)で
“起”は、折らない土起こしから。柄鋤は剣の柄と同じ長い棒に、薄い刃を寝かせてつけた道具だ。
フィリスが実演する。棒のてこの点を土の横に取って、角を叩かず背を持ち上げる。
「折らずに起こす。ほら、根が切れてない」
土の中の白い細根が息を続けるのが見える。子どもが歓声を上げ、老人が「昔の備中(びっちゅう)に似とる」と笑った。
俺は写し板に「起:柄鋤・背上げ/根:在」と記す。晒の柱が同時に黒を返す。見える道具は、喧嘩を減らす。
畝の形は風と水に合わせる。
・風畝(かぜうね)……渦の幕の風筋に沿って曲げる。砂走りは丸の上でほどける。
・水畝(みずうね)……波の布を下に敷いて受け、器の「余」へ誘う溝(みぞ)を浅く刻む。
・甘畝(あまうね)……甘の紋を端に刺し、休耕丸と交互に敷く。甘はのんびりの燃料だ。
レグルスの図と司祭の句が、土の上の面へ落ちる。面があれば、畝は怒らない。
◆塩と砂、**土偽(つちぎ)**のあがき
土市二日目、塩撒きが来た。夜の間に砂塩(すなしお)を畝の片側に撒き、乾きを増幅させる。
エイベルの塩見豆が、それを白く跳ね上げて見せる。灯を薄く当てるだけで、塩の筋が白蛇のように浮かんだ。
「隠:塩筋・一」
晒の柱に黒を入れ、返礼の段取りへ回す。
返礼は水ではない。土へ甘藁(あまわら)を敷き、露布を上に張る。器の「露」を土へ還す。
子どもらが笑って露布踊りを始め、朝日で布が露を集め、薄い雨のように畝に落ちた。塩は流し切らない。薄める。曲げの延長だ。
夕刻には根切り凧が空へ上がった。黒い紙の尾に刃が仕込み、畝の上で影を走らせる。
フィリスが白い凧を上げ、糸で絡める。切らない。絡みで向きを替えて、渦の幕の外へ誘(いざな)う。
ダリオは影の長さを二度量り、偽の影を格子の上で名に変えた。
「隠:根凧・一/名:投者・未」
名はまだ分からない。それでも晒が先に立つと、足は遅くなる。
◆土札(つちふだ)と居合わせ
火の名札と同じく、畝にも土札を吊るした。見守り札の布版に、土の印。
「起番:紙漉き頭/耕見:孤児院長/休耕:職人組」
名が畝の端で揺れる。居合わせは、畝を怒らせない。
王家の監査官も自分の名を小さく書いて吊るした。「監・居」。監視ではなく居合わせ。この違いを街が覚えたのは、ここ数月で一番の収穫だと思う。
◆種の約(やく)と緩の印
種置きの台では、短い結句を布に刺した。
「結:芥↔薄荷/緩・随時/返:甘」
芥は塩に強い。薄荷は虫を遠ざける。互いに緩を先に置き、返礼は甘――焼甘や甘水でよい。甘はのんびりの**媒(なかだち)**だ。
カシアから黒板で「北へ芥、欲」と届き、俺は「結:芥十袋↔露布十」と返す。布は土の器、芥は土の舌。互いに薄さで長持ちする。
“種偽”も来た。黒い籾に細工して、水に沈むが芽の出ない粒を混ぜるやり方だ。
エイベルの澱見粉が、沈む粒の輪を歪に白く縁取る。晒に「隠:籾偽・三/返:種晒」と載せ、種晒(たねざら)――薄い板の上で芽の呼吸を見る台を追加した。芽は面が好きだ。格子/丸の上で一番よく伸びる。
◆風曲げ垣と砂走り
北の方角から砂走りが来る日、俺たちは風曲げ垣を起こした。布市で使った幔幕を土へ深く挿(さ)す。上は渦、根元は丸。
垣の足元には穂の紋を刺し、甘藁を敷く。砂は甘を嫌わない。嫌わないものの上では、歩みが緩む。
風琴(ふうごん)がウ~エと唸り、砂の間が読めるようになる。矢の列は避け、波の面で受け、丸の上で一息。
晒の柱の“土”に「畝:風曲・三/砂:緩受」が黒で立ち、子どもらが砂に渦を指で描きながら笑った。
◆堆(たい)と虫、のんびりの台所
職人街の裏で、堆の台を作った。落ち葉、甘藁、灰、水。器の「余」を少しずつ、土へ返す装置だ。
司祭は眉をひそめる者たちに、短い句を示した。
「臭(にお)いは“在る”。在るは“生まれる”。」
臭いは隠ではない。晒せば、在るになる。在るは、怒らない。
エイベルが堆見(たいみ)粉を撒くと、温が上がりすぎた部分がうっすら白く光る。温笛でウを保ち、寝火の稽古がここでも生きる。
孤児院の子どもらが堆を混(か)え、甘の屋台から出た甘紙(包み紙)をちぎって入れ、笑い声が面に溶けた。
◆畝祭(うねまつり)と土の歌
土市三日目の夕刻、畝祭をやった。合図唱の節に乗せて、土の歌を短く。
「ア・イ・ウ――握・息・虫」
石畳の上に敷いた丸/穂の面で、子どもらが団子を転がし、ポトの音で笑う。大人は矢の列で種を受け渡し、渦でほどけ、格子で名を吊るす。
監査官が珍しく声に出して言った。
「見えた」
それだけで十分だった。見える面は、争いの角をなくす。
◆北の畑、根の返礼
境路から黒板。「北、畑・割れ、少し笑」。
カシアは続けて刻む。「水・露・布、効。芥、芽。」
俺は「返:甘藁十束/緩・常」と返す。返礼は軽くて長持ちするものがいい。甘と布はその両方だ。
“鉄面”の一部はまだ切るを信じていたが、芥の芽は切りにくい。在るを切る刃は、刃こぼれする。在るは晒に強い。
◆土争い、折らずに曲げる
王都の外れ、細長い畑の境で小さな言い争いが起きた。畦(あぜ)が雨で削られ、境が曖昧になったのだ。
走らない。面を敷く。丸/格子の上で両者を座らせ、土笛と団子を三度。朝握・昼握・夕握。
同じ土が、時で違う音を出すのを見ると、人は少し笑う。その笑いが角を丸くする。
レグルスが風畝の図を描き、矢ではなく渦で境を結んだ。結の延長だ。
「曲境(まがりざかい)」と名付けて晒すと、子どもらがすぐ地面に渦線を描き始めた。
◆土の講(こう)と休耕丸
聖署の回廊には、休耕丸の布を吊るした。丸/穂の重ねに、虫の小さな刺繍。
「この丸に畝を入れない」
入れないを晒すのは勇気が要る。だが、入れない丸が街ののんびりを太くする。余白は器で学んだ。土でも同じだ。
寝火台の横で土の講を週に一度。温笛と土笛を並べ、ウとポトを聞き比べる。のんびりは、音の間で覚える。
◆第十四の試練、通過
日が落ち、灯が入る。晒の柱の“土”の列は、起:柄鋤・背上げ/畝:風曲・水受・甘交/種:結・緩/休:丸穂・虫在で黒に満ち、赤は「教材」の棚へ収まっている。
胸の輪が、深く、やさしく鳴った。
――土は起き、根は返った。
――踏まれた地は、面を得た。
――第十四の試練、通過。
輪の鼓動は、王都の温と光の間に溶けていく。のんびりは、土の匂いが混じると、一段深くなる。
フィリスが俺の肘に自分の肘を“緩”で絡める。
「甘畝、今度一緒に掘ろ」
「休耕丸も忘れずに」
「うん。休む畝が一番難しいからね」
焼甘の袋を二人で半分に分け、丸/穂の面に座って齧る。甘は薄い。薄いほうが長い。長い甘さは、のんびりに効く。
◆次の余白、舟の根
黒板が短い文を吐いた。
「北の河、浅。舟、根を引く」
舟の根――竜骨(りゅうこつ)――が浅瀬を擦る。水は器で、土は面で受けた。次は路そのものが動く番らしい。
胸の輪が、静かに、しかし確かに鳴る。
――第十五。動く路(みち)を描け。舟と足と車を、同じ紋で渡せ。
動く路。布で敷き、器で受け、火で温め、土で支える。全部の仕組みが合わさって、初めて通る道。
俺は写し板の余白に新しい細い列を立てた。路(みち)――渡(わた)/曲(まが)/待(ま)/換(か)。
渡は渡し方、曲は曲げ方、待は待ち合わせの面、換は舟と足と車の乗り換え。
フィリスが柄を肩に乗せ、片目をつぶる。
「路にも“緩”がいるよ。走りっぱなしは、のんびりに効かない」
「待の紋を増やそう。丸に矢を三つだけ刺す」
「甘の屋台、そこに置く」
「賛成」
笑って、胸の輪に掌を重ねる。路の歌はまだ始まってもいないのに、足裏が少しうずいた。動く路は、のんびりの次の形だ。
王都の屋根の上で、温と光が静かに頷き合い、遠く北の浅瀬で舟の竜骨が一度だけ優しくポトと鳴った。
(第20話 了)
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