第19話「寝火(ねび)、囲い、渡す炭」
甘水の薄い甘さが喉から胸へ落ちるころ、晒(さらし)の柱の白がかすかに温み、胸の輪は低く一度だけ鳴った。
――第十三。火を寝かせよ。燃やさず、暖(あたた)めよ。
器を回し、空を残すやり方を覚えたばかりだ。次は火。灯は火の子で、のんびりは火の寝顔に宿る。
俺は写し板の余白に新しい列を立てた。火(ひ)――寝(ね)/囲(かこ)/渡(わた)/消(け)。
寝:燃やすのでなく寝かす技(炭火・熾〈おき〉・灰の掛け方)。
囲:火のまわりの面(おもて)――布の紋と土の囲い。
渡:火の貸し借り(炎でなく炭で渡す)。
消:怒りを消す短句と、実地の消し(覆い・窒息・分火のやめどき)。
商会の大広間で列を示すと、ハルドは簿冊に即座に項目を生やした。
「火費を帳に入れる。炭、灰、土囲い、火鉢の素焼き、寝火の蓋――全部在るにする」
司祭は白壁の前で手を擦り合わせ、小さく笑う。「祈りには火の節が古くからある。だが、**寝火祈(ねびいの)**は作り直したほうがいい。短く、長く効くやつ」
レグルスは棒の先で砂に図。「火の秤が要る。炎の高さではなく、**温(ぬく)の強さ。素焼きの器と温笛(ぬくぶえ)**で音を測る」
エイベルは粉袋を撫でてうなずく。「**燻粉(くんこ)**を配る。油火の筋だけ黒く出る粉だ」
ダリオは影の耳を数える癖のまま、寡黙に言った。「放火は来る。けれど、走らない。囲の面で受ける」
フィリスは柄を肩に乗せ、笑って目を細める。「“渡火の豆”作ろ。火を“握って”渡せる芯ね」
王家の監査官は、家ごとに火を教えるのでなく**市(いち)**で始めろ、と言った。
「**火市(ひいち)**を開く。寝の見本、囲の見本、渡の見本、消の見本を並べる。選ばせて、晒に載せる」
◆火市(ひいち)、はじまる
翌朝、商会前。土を叩いて固めた四角に、丸/渦/格子の紋を重ねた路布(ろふ)を敷く。中央に素焼きの火床、周囲に土の囲い(囲炉〈いろ〉)。上には渦の薄幕――風を曲げる幕だ。
子どもらがまず飛びついたのは、小さな温笛。素焼きの管で、寝火の上にかざすとアからオへと音が変わる。音がイ~ウの間なら“寝てる良い火”、エ以上なら“起きすぎ”だ。
「ア・イ・ウ、いま“ウ”!」
「“エ”になったら灰!」
笑いながら、灰匙で灰(はい)掛けする手が覚えられていく。灰は火を消しはしない。寝かす。
渡の台では、エイベルが小豆ほどの渡火豆を並べて見せた。土に藁灰を混ぜて焼いた多孔の豆だ。熾(おき)を豆で包み、灰で巻くと半日暖(ぬく)さを持ち運べる。
「炎は渡さない。炭を渡す」
晒の柱の“火”の列に「渡:豆・灰包」と黒が入る。
囲の台では、レグルスが面の描き方を教える。
・丸/格子……休んでから記す(広場・夜店)。
・渦/丸……ほどけて座る(家の庭先)。
・波/格子……流しながら記す(港の火床)。
“布市”で覚えた重ねが、火へそのまま効く。面がある火は、怒りの角を持たない。
消の台は、司祭と若い神官が担当した。寝火祈は十二拍の短い祈り。
「灰で包み、息で包み、名で包む」
“名で包む”の意味を問う子に、司祭は微笑んだ。
「火を前に名を呼ぶと、人は居合わせになる。居合わせは、怒りを遅くする」
◆家火(いえび)を寝かせる
火市の翌夜、王都の外れで家火が跳ねた。布の渦の上ではなく、角だらけの路地で、古印の残り火が油布を滑らせたのだ。
ダリオが影の耳を立て、フィリスが柄を握り直す。走らない。囲で受ける。
まず幔幕を斜めに出し、風の膝を折る。エイベルの燻粉で油の筋が黒く浮く。レグルスの合図で面を敷き替える――渦/丸。
俺は温笛を火の横に差し込み、音がエを越えた瞬間に灰掛け。温はウへ落ち、炎の背が丸くなる。
司祭が短く祈り、若い神官が消句(しょうく)を布の端に刺す。
「ここで怒らない。ここで暖める。」
晒の柱の“火”に「寝:ウ/囲:渦丸/消:句一」と黒が灯る。
怒鳴り込んできた隣人の肩を、丸の上に一歩誘(いざな)う。足裏の情報は早い。面が怒りを解くのが見て取れた。
◆火の秤(はかり)と火偽(ひぎ)
数日で、温笛は街に行き渡った。灯の秤が“光の間”を測ったように、火の秤は“温の音”を測る。
それを嫌ったのか、古印の残り火が湿炭(しめずみ)を紛れさせた。外は黒いが中に水を含む偽炭だ。寝火を殺す。
エイベルがすぐに見抜く。滴秤を炭の上に置くと、蒸気の間が乱れる。燻粉も白く反る。
晒の柱に「隠:湿炭・二/返:炭乾」と出す。罰ではなく返礼――湿炭を乾かして返す段取りだ。
フィリスは剣を抜かず、柄で湿炭の向きを変え、面の端へ寄せる。剣を抜く場面は、どんどん減っていく。柄の仕事が増えるほど、街はのんびりになる。
◆渡火(わたひ)、縫い渡しの約(やく)
境路から黒板の文。
「家火、争。渡火、規を」
帝国でも火が口火になりやすいらしい。俺たちは縫い渡しへ向かい、二都渡火約(にと・わたひのやく)を結ぶことにした。
撚り橋を半分だけ張り、中央に土台を据え、上に灰盆。そこに渡火豆を置いて共同の熾とする。
約は短い。
「渡火は“炭”。炎は“渡さず”。豆と灰で“寝”て渡す。」
王都の晒と帝国の黒板に同時に載せ、緩を先に置く。
カシアは黒板に刻んでから、俺を見る。
「“寝火祈”、教えて」
俺は十二拍の寝火祈を指で叩いて見せ、司祭が短く渦の幕に句を刺す。
「灰で包み、息で包み、名で包む」
鉄面の女が唇を噛んでいたが、渡火豆をひとつ受け取り、灰の上でそっと転(まろ)ばせた。回る豆は、角を持たない。
◆火口(ほくち)を消す――幔幕・甘・歌
王都の市で、甘の屋台の脇が火口になりかけた。留の水を巡る口論が火床(ほど)の近くで起き、火が立つ。
走らない。
幔幕を斜めに出し、風を曲げる。甘の紋の上に丸を重ね、司祭が寝火祈を一拍だけ置く。
俺は消句を歌にした。合図唱の節で、人の喉に短く乗る歌。
「ア・イ・ウ――灰・息・名」
子どもらが真似て、拍が揃う。
火は声に弱いのではない。拍に弱い。拍が揃うと、面が勝ち、火は寝る。
その時、路地の陰から油布が投げ込まれた。火偽の最後のあがきだ。
ダリオが影を指す。フィリスが柄で油布の角を叩き、渦の上へ滑(なめ)す。燻粉が黒く走り、エイベルが灰を雨のように撒く。
レグルスの図の通り、波/格子へ火床を移す。移すのが“消す”より早い。
晒の柱に「消:移火・灰雨・拍三」と黒が入り、赤は一つも灯らなかった。
◆火と名札(なふだ)
寝火祈の「名で包む」が街に広がると、名札が火床の周りに増えた。見守り札の布版だ。
「今夜の寝火:紙漉き頭/明け番:孤児院長」
名が晒に立つ。監視ではない。居合わせの宣言だ。
古印の残り火は、名に弱い。扇より、名が重くなった街では、刃より先に札が立つ。
◆温(ぬく)と光(ひか)――二つの灯
夜。旧塔の上で、監査官が灯を二つ点けた。一つは光、一つは温。温灯は素焼きの覆いに炭を抱え、温笛でウを保つ。光灯は遠くへ見せる。
「光は晒し、温は寝かす」
司祭の言葉に、俺は胸の輪を触れた。のんびりは、温の側に座る。光の側には面が要る。どちらも一緒にあると、街の夜は強い。
◆帝国の家火、黒板の返礼
境路から黒板。
「寝火祈、効。家火、少し笑。返:焼甘(やきあま)二箱」
“焼甘”の字面に子どもらが跳ねる。王都からは甘パンを返し、渡火豆を一握り添えた。渡は贈に近い。贈り物は、火を寝かせる。
◆火の講(こう)と寝火台
王都の四方に寝火台を据えた。土の囲い、灰壺、渡火豆、温笛、寝火祈の布、消句の札。
丸/渦/格子の重ねで、居合わせとほどけと記すを同時に持たせる。
ハルドは帳に寝火費を足し、司祭は寝火講を週に一度、合図唱の節でやることにした。
子どもらは温笛を競い、ウの音で笑い合う。笑いは寝火の最高のふたになる。
◆第十三の試練、通過
その晩。晒の柱の“火”の列は寝:市・家・港/囲:面重ね各三/渡:豆・灰/消:移火・句で黒に満ち、赤は“教材”の棚へ移った。
胸の輪が、柔らかく、それでいて深く鳴った。
――火を寝かせた。
――燃やさず、暖めた。
――第十三の試練、通過。
フィリスが俺の肘に自分の肘を緩で絡める。
「“寝火休”、出そっか」
「甘、ある?」
「焼甘、半分こ」
焼甘の表面がまだ温で、内側は甘く、噛むとウの音が喉の奥で鳴る気がした。のんびりは、火の寝顔の温さとよく似ている。
◆次の余白、土を起こす
黒板が短い文を吐いた。
「北、畑・割れ。土、眠り過ぎ」
火は寝かせた。次は――
胸の輪が、低くゆっくりと鳴る。
――第十四。土を起こせ。踏まれた地に根を返せ。
火と水と布の面で街は呼吸を覚えた。これからは、根だ。畝(うね)を起こし、余白に種を置いて、のんびりが食べられる形になる。
俺は写し板の余白に新しい細い列を一本、立てた。土(つち)――起(おこ)/畝(うね)/種(たね)/休(やす)。
フィリスが温笛を指で回しながら言う。
「土にも“寝”がある。起こすのは、きっと曲げと結の続きね」
「休耕の紋、作ろう。“丸/穂”で」
「まずは甘の畝」
「そこからか」
笑い合って、夜の寝火に灰をひとつかみ掛ける。ウの音。
王都の屋根の上で、温と光が並んで揺れた。土の匂いが、遠い北から風に乗って、すこしだけ鼻の奥をくすぐった。
(第19話 了)
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