第9話「影の倉庫、路の炎」
王都二日目の朝は、港の鐘で始まった。低く長い音が霧を押し流し、屋根の海に斜めの光が差し込む。商会の宿の窓から見下ろすと、運河の水面が静かに揺れていた。写し板は昨夜のまま枕元で淡い呼吸を続け、胸の輪は眠りの奥で小舟のように揺れていた。
戸を叩く音。開けると、白衣の若い神官――昨日、祈りの図を写した青年――が息を弾ませて立っていた。
「エルン殿、王都聖署から返答です。祈りの図、正式に“路式祈祷”として取次ぎたいと。……ただ、聖署内でも反発がありまして」
「反発?」
「“見える祈りは俗”だと。けれど、中位神殿は前向きです。今日の午後に説明の場が」
「分かった。午前は港だ」
フィリスが肩に剣帯をかけながらあくびをした。
「“のんびり朝パン作戦”は?」
「昼に甘いのを二つ」
「……仕方ない、付き合う」
宿の前でハルドが待っていた。黒の上衣に簡素な銀鎖、目だけはいつも通り測る。
「港湾倉庫街に“赤”が出た。写し板に、だ」
彼は小さな板片を見せた。昨夜、俺が渡した“骨写し”。港の税帳に三つの赤い点。
「“徴発”でも“先渡し”でもない。記入そのものが消されている。……紙を破ったのと同じだが、板上では“影”になる」
「故意の隠蔽」
「たぶん。県伯の影か、代官の焦りか、あるいは商人の中の強欲か」
港は石畳の路が網の目に走り、水と倉庫と人の声がもつれ合っていた。魚の匂い、樽の焦げ、塩、薪、油。俺の胸の輪は、その複雑さをむしろ好ましげに震わせた。路はここにこそある。
「ここだ」
ハルドが示した倉庫は、通りから一段下がった場所にあり、運河に面した滑車がぎしぎし鳴っている。門は閉ざされ、見張りが二人。内側から低い怒号が漏れた。
門の横に、煤けた祠があった。誰も見向きもしない小さな石窟。俺はそこに掌を置いた。輪がわずかに熱を帯び、“余白”の気配が立つ。
――影に光を通せ。
耳奥に声。短く、乾いた語が落ちる。新しい試練だ。
「開けてくれ」
俺が声をかけると、見張りの男は眉をひそめた。
「立ち入り禁止だ」
「商会の監査だ」
ハルドが印章を見せる。だが男は動かない。背後から別の声がした。
「監査の前に、帳は既に改めた。帰れ」
姿を見せたのは、青い羽根飾りの帽子をかぶった短躯の男。港の有力商人だ。ハルドが目を細める。
「スパーラ。お前か」
「何の話だかね」
男は笑い、扇で顔をあおいだ。扇の骨が妙に太い。武器にもなるやつだ。
「写し板に赤が出た。君の倉庫で見えなくされた数字がある」
「ふん。板は魔法の玩具だろう? 気まぐれに赤くもなる」
「紙は破られるが、板は破れない。写りが残る。――見せようか」
俺は包みから写し板を取り出し、倉庫の壁に立てかけた。輪の光が枠に流れ、港湾税の帳が浮かぶ。項目の隙間に、薄灰の長方形――影が三つ。上塗りされた数字の欠落を、板は“色”で記憶していた。
「“影に光を通せ”」
俺が囁くと、輪が震え、影の上に淡い水模様が走る。次の瞬間、灰色の長方形が薄くなり、埋もれていた数字が滲み出た。塩二十樽、薪百束、穀貨証文十枚。どれも王都の孤児院への支給分。つまり、奪われていたのは孤児の口だった。
ざわめきが起こる。港人は怒りと恥に反応が早い。スパーラの頬が引きつる。
「魔法の手品だ。証拠にならん」
「証拠なら、もう一つある」
ハルドが淡々と告げ、合図した。通りの角から、昨日の若い神官が駆けてくる。彼は胸に小さな板を抱え、肩で息をしている。
「聖署の日々の配分帳。孤児院に届いたはずの塩が今朝届かず、赤が灯った。路式祈祷の**“祈”**の列に付けた“食”の項目に、欠の印」
神官は板をこちらに掲げた。二枚の板の赤と灰が、往復で互いを指す。見える往復。スパーラの扇が微かに震えた。
「王都は“見える審判”に慣れ始めている」
俺は静かに言い、港人に向き直った。
「争う前に、路を通そう。塩二十樽、今ここで積み出す。薪百束もだ。穀貨の証文は写し直し、公開する。奪われた分は“先渡し”に振り替える。孤児院の帳にも“受”を灯す」
「勝手な――」
「勝手ではない」
俺は倉庫の脇の煤けた祠に掌を当て、輪を広げた。祠は薄く震え、写し溝が足元に浮かび上がる。路の筋が倉庫から運河へ伸び、積み込みの順を描く。誰が樽を持ち、誰が縄を締め、誰が目録を書くか――図になって現れる。
「ここに図がある。誰にでも見える。“奪わずに満たす”順番だ」
最初に動いたのは、肩に傷のある船頭だった。
「……やるか。子どもらに塩粥を食わせねぇと、夜が眠れねぇ」
彼が樽に肩を入れると、周囲の男たちが自然に順に入った。路は見えるほど、体は迷わない。女たちが縄を通し、少年が目録の数字を読み上げ、神官が祈りの呼吸で**“祈の列”**の印をつける。
「止めろ!」
スパーラが扇の骨を抜いた。刃だ。彼が一歩踏み出した瞬間、フィリスが音もなく前に出た。刃と刃は出会わない。フィリスの足が小石を打ち、次の一歩でスパーラの手首を路に流す。力は横に逃げ、刃は自分の足元の石に当たって跳ねた。彼の体勢が崩れ、扇の骨が水に落ちる。彼女は剣ではなく柄で男の肩を叩いた。奪わずに止める。
「やめときな。ここは見える場所だよ」
フィリスは笑い、刃を納めた。周囲から自然に拍手が起きる。
「……覚えていろ」
スパーラは肩を押さえ、よろめきながら倉庫の中へ消えた。ハルドが肩をすくめる。
「覚えているとも。君の名も、顔も、赤も」
昼までに樽は運河に並び、孤児院へ向けて舟が出た。写し板には赤が黒に変わる音が見えないまま鳴り、港の空気が少し軽くなった。神官の板にも“受”の印が灯り、彼はほっと息をついた。
「エルン殿。聖署は“路式祈祷”に“食”の節を加えることを決めました。見える祈りにする、と」
「いい路だ」
倉庫の影を離れると、胸の輪がふっと揺れた。路の先、遠くで焼けの匂い。俺は足を止め、運河の向こうを見た。薄い煙が、光に紛れて立ち上る。火の路は速い。もしや、と思った瞬間、ハルドが顔を上げる。
「職人街だ。紙漉きの工房が集まっている」
「写し板の枠を作る木工も、近い」
フィリスが低く言う。俺たちは走った。
職人街は既に怒号に満ちていた。紙漉き小屋の一つから炎が上がり、隣の木工舎の屋根へ走っている。桶の列、砂、濡れ布。だが風向きが悪い。火は路の上流を選んだ。
胸の輪が強く熱を持つ。影に光を通せ。 火は影だ。路の陰で増殖する。なら、光はどこから?
答えは、空にあった。運河沿いの館の壁は、昼の光を白く返している。俺は写し板を抱え、舎の前の洗い槽に板を立てた。枠が水を吸い、表面に薄く光が走る。輪を広げ、板の上に街の図を描く。屋根の傾斜、風の向き、運河の曲がり、館の壁の反射――光路。
「鏡!」
俺が叫ぶと、木工の親方が目を見開いた。
「鏡はないが、漉き枠ならある! 糸で織った細布を張った枠だ!」
「濡らして、石灰水で表面を固め、白く光らせる。角度をこれに合わせて並べろ!」
写し板の上の光路に、白い点がいくつも灯る。人々が枠を持ち、図の通りの角度に立てていく。太陽は少し傾き、白い面は炎の根元に光を投げ込む。明るい場所は燃えにくい。陰の温度が下がる。風の筋を光が裂き、炎が上澄みを失う。
「水路を開け! 桶列はここで折り返しだ!」
ハルドが短く命じ、船頭たちが水を路に沿って回す。神官は祈りの呼吸で人の肩を軽く叩き、恐慌の影を剥がす。フィリスは屋根に上り、瓦の落ち口を風路に合わせて開ける。奪わずに、止める。壊さずに、崩す。
小一時間ののち、火は光に追い詰められ、最後は水の底に鎮まった。黒い煙が空へほどけ、人々は膝に手をついて息を吐いた。紙漉きの老人が、灰の中で枠の桟を撫でて泣いた。
「助かった……写す手を失うところだった」
「写す手があるなら、王都中が見えるようになる」
俺は老人の手を握った。胸の輪が柔らかく脈打ち、四つ目の試練の言葉が再び落ちる。
――影に光を通せ。
夕刻、聖署の中庭。白い石の回廊に、昨日とは違う空気が流れていた。中位神殿の司祭――落ち着いた声の女――が俺たちを迎え、路式祈祷の採用を告げた。彼女は慎重だが、目は真っ直ぐだ。
「祈りを見える形にしたのは勇気だ。信仰は秘めることで堅くなることもあるが、見せることで深くなることもある」
「ありがとうございます」
「ただし、反発は来る。私は護る。君は路を通せ。……聖署も、王都の一つの“家”にすぎない」
会釈したとき、回廊の影に見慣れた扇が閃いた。スパーラではない。扇の骨は細く、黒。扇の絵柄は、三本の斜線――王都の印章。一瞬、風が頬を撫で、俺の指先の皮膚が冷えた。影の刺客。誰かが“見える審判”を嫌い、今度は見えない刃を寄こした。
刃は俺に向いていない。横を行く若い神官の喉元に影が走る。体が勝手に動いた。胸の輪が広がり、写し板が背から前へ滑り出る。板の枠が刃を受けた。金属が水に刺さったみたいな音。刃は滑り、回廊の柱に軽く傷を残して消えた。
沈黙。次の瞬間、衛兵の靴音が遅れて追いつく。フィリスは既に柱上の影へ跳び、瓦の上を追う足音が遠ざかった。ハルドが首だけで周囲の路を見回し、司祭は一度だけ瞑目して祈りを一呼吸で終えた。
「見えない者は、見える場に引きずり出せば弱い」
司祭が呟く。俺は写し板を抱き直し、若い神官の肩を叩いた。
「君の喉は、祈りの路だ。奪わせない」
夜。商会の宿の屋上に戻ると、王都の灯の数が昨夜より増えて見えた。港、職人街、聖署、広場、神殿の小祠。見える場所が一つ増えるたびに、街の暗がりが薄まる。写し板を膝に置くと、板は一日の出来事を短く写し、赤と黒と灰が呼吸する。胸の輪に掌を置くと、声が落ちた。
――余白の試練、第四。影に光を通せ。
――影を責めず、光を増やせ。奪わずに、晒せ。
「晒す……公開、か」
ひとり言に、風が肯いた。俺は板に新しい列を描いた。晒(さらし)。誰がいつ、どこで、どの路を見たか。誰もが見に行ける掲示の場所。港の倉庫前、職人街の広場、聖署の中庭。王都の晒し柱を、罰の柱ではなく、見える柱にする。
「“晒”は、誰かを吊すためじゃない。影が影でいられないように、灯りを立て続けるための列だ」
フィリスが寝台から顔だけ出して笑った。
「格好いいこと言ってるけど、寝不足の顔だよ」
「昼パンの約束、守る」
「今からでもいい」
「今は、甘いのが売り切れてる」
「じゃあ、今は甘くないのにしよ」
彼女は起き上がり、屋上の階段へ消えた。ほどなく戻り、紙袋を差し出す。胡椒を効かせた肉のパイ。熱い。匂いは強いが、空腹に優しい味だ。
「どうだ、王都の夜は」
「路の匂いが濃い。……好きになってきた」
「のんびりは?」
「路の上にある。今日みたいに忙しい日は、夜がうまい」
「うん。じゃあ、うまい夜にしよ」
肉のパイを噛みながら、俺は思考の端で敵を数えた。県伯、代官、港のスパーラ、そして“印章の扇”を持つ影。敵の数が増えるほど、路も増える。敵は路を使う。なら、見えるほうへ誘い続ければいい。晒の列に、今夜の影の印も小さく灯しておく。名前はまだない。だが、図の中に影を置けば、影は輪郭を得て、いずれ名前に辿り着く。
翌朝、港の鐘がまた鳴る前に、板の上で灰の長方形が一つゆっくり溶け、黒に近づいた。孤児院の“受”が確定したのだ。見える安堵は早い。胸の輪は小さく拍動し、俺は薄明の王都を見下ろした。路が昨日よりも一本、確かに増えている。
その時、屋上の扉が控えめに鳴った。昨夜の若い神官が、紙束を胸に抱えて立っていた。目は眠そうで、しかし決意が宿っている。
「“晒”の列――聖署にも置かせてください。見える柱を、神殿の回廊に」
「いいのか。神殿が自分を晒すことになる」
「ええ。影に光を通すって、そういうことだから」
彼は照れくさそうに笑った。
「それから……」
「それから?」
「わたし、ここしばらく、“余白の声”を聞いた気がして。……たぶん、恐ろしいけど、嬉しいことです」
「恐ろしいけど嬉しい、は、だいたい正しい」
俺は頷き、彼の紙束に晒の骨を写した。
王都の三日目が始まる。広場では見せる審判の続きがあり、港ではスパーラが別の顔を寄越し、職人街では新しい枠が組まれるだろう。聖署の柱には“晒”の板が立ち、子どもが指で赤と黒を数える。県伯はまた怒る。代官は計算を覚える。影は刃を磨く。だが、俺たちは灯りを増やし続ける。奪わずに守り、責めずに晒し、隠さずに導く。
のんびり暮らす――その旗は降ろさない。のんびりは、強い。“見える”道具と“通る”路があれば、のんびりは戦にも勝つ。俺は写し板を肩に掛け、胸の輪に掌を当てた。
――路を越えよ。影に光を通せ。
声は短い。だけど、王都の全てよりも、よく通る。俺は頷き、階段を降りた。フィリスが待っている。ハルドも、若い神官も、勇者隊も。
そして、王都中の路も。
(第9話 了)
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