第8話「王都の門、見える審判」

 夜明けの空が灰から藍へと深まり、最後の星が消えるころ、俺たちは王都へ向けて村を発った。先頭に王都商会の隊列、続いて俺とフィリス、荷馬車に揺られる勇者隊、最後尾に村から同行する使いの老人。写し板は布で丁重に包み、胸の輪は静かに熱を保っている。


 街道は思った以上に人の匂いが濃かった。代官の目だけではない。商人、旅の学者、物見高い貴族の若者、そして噂を聞きつけた祈り人たちが、俺たちの列を追い越し、あるいは後ろにつき、遠巻きに観察してくる。アッシュの市の“帳が王都で見える”――そんな話は火より早く広がるらしい。

「ここから先は、路が増える」

 俺がつぶやくと、フィリスが笑って頷いた。

「増えすぎて足を取られないようにね。剣士の道場だって、人が増えるほど空気が乱れるもの」

「乱れは、編めば布になる」

「頼もしいこと」


 昼前、王都の外郭が現れた。乾いた石の壁は陽を白く返し、どこか古い海の匂いがする。城門前には既に行列ができていた。納入の馬車、巡回帰りの衛兵、鐘売り、辻占い師――騒がしいのに、一つの大きな生き物みたいにうねっている。

 門前で商会の旗が高く掲げられると、衛兵が列を割って近づいてきた。官服の男――前日、村に来た王都商会の使いだ――が手綱を進め、門番と短く言葉を交わす。俺とフィリスにも視線が集まる。勇者隊に視線が走ると、ざわめきが一段上がった。

「本当に勇者隊だ……」「討伐はどうなった」「負けたのか?」

 ざわめきの底に、薄く濁った風が混じる。恥と好奇。路を曇らせるものたちだ。胸の輪がかすかに熱を帯びる。俺は深く息を吸い、写し板の布を少しだけめくった。板の枠が、門の石に呼応するように、わずかに湿った。

「見せる?」とフィリス。

「まだだ。見せる場所は選ぶ」


 城門をくぐった瞬間、胸の輪が強く脈打った。王都は、路の塊だ。何百年も人が歩き、数えきれない交換と祈りが続いてきた場所。石畳の隙間ひとつにまで、細く薄い路が染み込んでいる。俺の輪は、それを舌のように味わい、どこへ繋げばよいかを教えてくれる。


 商会の本館は市門にほど近い広場に面していた。石造りの大きな建物で、外壁には古い航路図が浮き彫りにされている。俺たちは応接の大広間に通された。壁には王家の紋章、床には世界地図の寄木。中央には長い石の卓。一番奥には、王都商会の筆頭と思しき男が座っていた。銀髪に切れ長の目、指先まで乾いた線のような人だ。

「遠路ご苦労。私は王都商会筆頭、ハルド・ヴェルナー」

 名乗りは短く、声は冷ややかだが、敵意はない。むしろ、測る眼差し。俺は深く礼をした。

「アッシュ村のエルンです。こちらは剣士のフィリス。勇者隊の同行は王都の要望に応じて」

「聞いている。代官が上げた報告書は粗雑だったが、君らの帳は精密だ。……それが問題でもある」

 ハルドは卓を指で叩いた。石が乾いた音を返す。

「“市の帳が王都に写る”こと自体は商会に益がある。だが、帳が“誰にでも見える”となれば、利権を握る者にとっては面白くない。代官だけではない。貴族も、王家の一部も、写し板の扱いを巡って意見が割れた」


 そこで扉が開き、数人が入ってきた。刺繍の重い服をまとった中年の男、その随伴、そして白い袖の神官。男の顔はどこかで見たように整っている。代官の上司――県伯だろう。男は俺を見るなり唇を歪めた。

「噂の“余白印”はどれだ」

「私です」

「私だ、ではない。貴様ごときが“私”を使うな」


 目の前で、路がひとつきしんだ。フィリスが半歩前へ出て、剣に手をかける。俺は小さく首を振った。ハルドは面の筋肉ひとつ動かさず、席を譲らない。

「本日は“写し板”の取扱いについて、公開の場で審問を行う。王家監査官、県伯、商会、聖署が立ち会う。村の代表としてエルンを呼ぶ。――よいな?」

 監査官が短く頷き、聖署の神官が「神にも見せよ」と言う。公開の場――“見える審判”。俺の胸の輪が、静かに広がった。


 審問の場は、広場に設けられた仮設の桟敷だった。石段の上に卓が並び、下に人々が集まる。行商の女、船乗り、鍛冶屋、旅の丸薬売り、路地の子ら――様々な視線がこちらを向く。王都の空気が一斉に「見たい」と言っていた。

 監査官が号令をかけ、県伯が前に出る。声はよく通り、芝居がかった抑揚。

「諸君、聞け。この村人は掟を破り、勝手に市を開き、税を逃れ、代官の命に背いた。写し板という古の道具を勝手に用い、王都の秩序を乱した。ゆえに板を没収し、村は商会の管理下に置くべきである」

 ざわめき。ならず者の笑い、貴婦人の扇の陰の囁き。俺は一歩進み、写し板の布を外して掲げた。四隅の小さな穴に細い紐を通し、桟に括る。板の枠に輪の光が触れた瞬間、薄い水の模様が走り、アッシュの掲示板の骨が浮かび上がる。


 列:水/麦/卵/薪/労/護/祈/粉/図。行:各家の名、勇者隊、商隊、代官。数字、印、穀貨の番号。見えないはずの村の空気が、王都の空の下に、見える形で立ち上がる。


「見てくれ」

 俺は声を張った。

「税は帳に記した。穀貨は番号を振り、控えを写した。代官の取り分は“見える”よう切り分けた。争いは掲示板の前で解いた。盗りも、私腹も、路を塞ぐからだ。俺たちは、奪わずに満たすやり方を選んだ」

「口では何とでも言える!」

 県伯が手を振り、笑いを誘う。

「村人が数字を並べた程度で、王都の秩序が守れるものか。帳など、書き換えればよかろう?」

「だから、写すんです」

 俺は板の枠に指を滑らせた。輪の熱が枠に流れ、板の上にさらに細い枠が現れる。そこに王都の監査台の写しが浮かんだ。王都側の帳面の“印”。すでに商会の記録係が試しに書いた控えだ。村の数字と王都の数字が、重なってズレを示す。ゼロなら一致。ズレれば赤。板の上で赤い点が一つ、二つと点る。

「ズレてるぞ!」と誰かが叫ぶ。

「昨日、代官の使いが“徴発”した分。俺は“穀貨”で先渡しに切り替える提案をした。帳では先渡しに直してある。だが王都側ではまだ“徴発”のままだ。だから赤い。――見えるから直せる」

 広場のざわめきが変わった。囃し立てる笑いが、やがて唸りに変わり、そして静かに吸い込まれていく。数字は人の舌より早く真実を運ぶ。図は、言葉の前に人の体を納得させる。

 聖署の神官が前に出て、板の上の祈りの列に指を置いた。

「“祈”の列はなんだ」

「祈りに割り当てた時間と、祈りが路に沿って流れたかどうかだ。祈りは渇きを奪うこともある。だから、祈りの前に“路”を通す。ソラナ、説明を」

 聖女ソラナが静かに進み、祈りの所作を短く示した。胸を開き、井戸の水の匂いを思い、ここへ繋げる。王都の神殿式の壮麗な祈りではない。もっと素朴で、生活と繋がった祈り。神官の眉が上がる。聖署の若い見習いが、真似をして深く息を吸い、顔を明るくした。

「胸が軽い……」

 笑いが起きる。県伯の口元に焦りが滲んだ。


「秩序を乱しているのはどちらだ」

 ハルドが初めて声を硬くした。

「写し板は秩序を見える形にする。赤は赤、黒は黒。代官の名前が“徴発”の欄に赤で光るのを、王都の広場で見せられるのは、彼にとって不都合だろう。だが、王家にとっては利益だ。取りっぱぐれが減る」

 監査官が頷いた。県伯は扇を握る手に汗を浮かべ、声を荒げる。

「村人ひとりの気まぐれに王都を振り回させる気か!」

「気まぐれではない」

 俺は一歩前に出た。輪が胸から掌へと満ち、板の表面が薄く水に濡れたように光る。

「これは“余白の試練”だ。路を通せ、と。奪わずに守れ、と。見せろ、と。俺は従っただけだ。従った結果がここにある。人が 同じものを見て、同じ桟に手をかければ、王都はもっと強くなる」

「神の言葉を騙るな!」

 県伯が怒鳴り、護衛が半歩前へ出る。フィリスの足が石を軽く打った。レグルスの手が剣の上に置かれ、ダリオは既に県伯の背後の影を二つ数えている。エイベルの粉袋がわずかに膨らみ、ソラナの指が胸の前で静かに路を描いた。


 そのとき、桟敷の端で老人の声が響いた。アッシュから来た使いの老人だ。彼は杖を掲げ、震える手で叫んだ。

「ここに書いてある!」

 板の“護”の列――祠守一、霧退け一。老人の声はかすれているが、どこか王都の空気に馴染む太さを持っていた。

「見えるのじゃ! わしらのやったことが! 代官殿も、商人も、王様も、子どもも、同じように!」

 笑いが起きまた静まる。王都の人々は芝居も好きだが、こういう素朴な真実も好むらしい。観客の一人が手を叩き、次に十人、やがて百人がそれに続いた。見せるということの重さが、場の空気を一つにした。


 監査官が石卓を叩き、短く宣した。

「決定を言い渡す。写し板は没収しない。王家の庇護のもとに置く。ただし管理はアッシュ村と王都商会の共同とし、帳は公開とする。代官は“徴発”の赤を三日以内に正すこと」

 広場に歓声が広がる。県伯の顔は蒼白になり、扇がぱたりと閉じた。彼は俺を睨みつけ、吐き捨てるように言った。

「覚えておれ」

「覚えております」

 俺は静かに頭を下げた。「見えるところで、また会いましょう」


 審問が解散になると、広場はすぐに市に変わった。石卓の脇で布が広げられ、写し板の小さな写しを求める商人や職人が列を作る。ハルドが横に来て、低く囁いた。

「君は敵を作った。だが、同じだけ路も作った」

「路は敵より長持ちします」

「頼もしい。――王都に滞在する間、商会の宿を使え。各所の路に案内しよう」

 フィリスが横で肩を竦めた。

「のんびり、ね」

「のんびりしよう。今日の夕飯までは」

 俺は笑った。胸の輪が、王都の風と呼応して小さく躍った。


 その夜、商会の宿の屋上で風を吸い込む。王都の屋根が波のように重なり、塔の先で鳴る鐘が路の節目を刻む。写し板を膝に置くと、板は自ら薄い光を灯し、昼間の赤い点が一つ、二つと黒に変わっていく――代官の“徴発”の修正だ。王都は速い。速さは時に暴虐だが、見える速さは、人を前に引き出す。


「エルン」

 背後で声。レグルスが階段を上ってきた。昼のざわめきが去ったあとの目は、昔より穏やかだ。

「俺たち、明日から王都の“路”で働く。討伐の前に、図を引くことからだ。……礼を言う」

「図を引くのはお前だ。俺は“枠”を置いただけ」

「それが今まで無かった」

 レグルスは笑い、夜風を見た。

「王都の風は苦い。けど、今夜は少し甘い」

「砂糖のように溶ければいい」

「その比喩、好きだ」

 彼は軽く手を上げ、屋上を降りていった。


 独りになると、板の光が微かに揺れた。祠の祭壇と同じ響き。胸の輪が応える。――余白の試練、第三。路を越えよ。 続いて、さらに薄い声が重なった。――渡れ。写せ。編め。 言葉は三つの糸のように絡み、やがて一枚の布になって俺の背を押す。

「分かってる」

 俺は王都の夜を見渡した。港の方角に灯の列、遠くの塔の影、路地に残る歌声。どこもかしこも、路だ。ここで編めば、村にも風が返る。


 のんびり暮らす。嘘じゃない。のんびりは“路”の上で初めて成り立つ。路が通れば、眠りも食事も会話も、深くなる。今日の審問は、のんびりのための大工事だったのだ。肩の力を抜いて、俺は星に息を合わせた。胸の輪は静かに脈を打ち、王都の鼓動と重なった。


 やがて、屋上の扉が再び軋んだ。現れたのは、白衣の若い神官だった。昼の審問で祈りを真似した青年だ。手には薄い紙束があり、頬はわずかに上気している。

「エルン殿……その、少しよろしいですか」

「どうぞ」

「今日の“祈りの路”を、神殿でも取り入れたいのです。けれど、上の者に説明するには言葉が足りない。……見える形で教えていただけませんか」

 俺は頷き、写し板を青年の前に置いた。輪を薄く広げ、板の上に“祈の図”を描く。胸、井戸、水の香り、吐く息、吸う息、背骨を通る風。青年は目を丸くし、やがて真剣に頷いた。

「これなら、わたしにも分かる。子どもにも、老人にも。ありがとうございます」

「君の神殿にも写し板の骨を置こう。明日、商会に頼んで木工の枠を用意する」

 青年は深く頭を下げ、紙束を抱えて去っていった。


 静けさが戻る。王都の夜は深く、しかし眠らない。遠くで笑い声、近くで鍛冶場の残る火の匂い。俺は板を包み、胸の輪に掌を重ねた。――渡れ。写せ。編め。 声は優しく、厳しい。だからこそ、安心する。進むべき路が、いつも胸の内にある。


 明日からは、商会の案内で港、職人街、学舎を巡る。路を越え、路を結び、見える審判の枠を王都中に置く。代官はまた来るだろう。県伯も、別の顔で現れるだろう。それでも構わない。見えるところで会おう。路の上で話そう。奪わずに守るために。


 フィリスが寝台で寝返りを打ち、微かな寝息が聞こえた。明日の朝、彼女に甘いパンを買おう。王都のパンは、村のそれより少し背伸びしている。けれど、井戸の水で喉を潤しながら食べれば、きっと同じ味になる。路は味も連れてくるのだ。俺はそんなことをぼんやり考え、目を閉じた。輪は穏やかに灯り、夜の底で、静かに、確かに、世界を繋いでいた。


(第8話 了)

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