第4話 デイリー・ルーティン

 水音。

 立ちこめる湯気。

 シルバーリリーは服を脱ぎ、シャワーの下に身を滑り込ませた。


 しなやかに整った肢体、白く滑らかな肌。水がその上を流れ、照明に反射してきらめきを放つ。


 僕は、影に潜ませた使い魔を通して、その光景を見ていた。お菓子をつまみながら、モニターから目を離さず、観察の機会を一瞬たりとも逃さない。


 魔法省に戻ったシルバーリリーは、まず戦闘の経緯について尋問され、その後すぐに身体検査を受けることになった。検査の結果は、当然ながら「異常なし」。


 なにせ、僕が手術を行った際には、その程度の対策などとっくに済ませてある。ただの心電図じゃバレるはずもないし、スキャンを使われたとしても、あの特製の心臓を見抜くのは難しい。


 さすが僕、抜かりはない。 


 結果的に、魔法省の医者から「深刻な問題はない」と判断されたシルバーリリーは、大人しく帰宅して休養するよう命じられた。


 ケガそのものは、僕がすでにこっそり治しておいたが、怪人に敗北した精神的なダメージというのはそう簡単に癒えるものではない。おそらく魔法省の連中も、そこを考慮して「今のシルバーリリーには休養が必要だ」と判断したのだろう。


 僕にとっては妥当な判断に思えたけど……当人にとって、それが納得のいくものかどうかは、また別の問題だよね。


 ほら。


 入浴を終えてパジャマに着替え、ベッドにごろりと転がったシルバーリリーは、明らかに眠れずにいた。ぼんやりと天井を見つめるその視線は、ちょうど僕が使い魔越しに見ている視線と重なった。


 しばらくすると、少女の目がじわりと潤み始める。


「……っ」


 魔力で編まれた鎧も、心の防壁も解かれたとき──彼女はようやく、ただの少女『如月きさらぎ リオン』へと還った。


 リオンは、小さな嗚咽おえつを漏らしながら、細い指で目元をぬぐった。でも、涙は止まらなかった。ぬぐっても、ぬぐっても、次から次へと目尻からあふれてくる。最後には身体を丸め、枕をぎゅっと抱きしめたまま、歯を食いしばって泣き出してしまった。


 僕は、上からその姿を見下ろしていた。


 悔しさと自責にまみれた魔法少女の泣き顔を見ながら、僕は口に運んでいたお菓子にもうひとくちかじりつく。


 いくら超常の力を宿していたって、その精神の構造は、所詮ただの子どもだ。……まあ、こんな反応も、ある意味では当然か。


 追いかけていた目標があるのに。こんな序盤でつまずいて、立ち止まってしまった。


 きっと、たまらなく悔しいんだろうね。


「……うまい」


 指先をぺろりと舐めながら、思わずひとりごちる。横に置いてあった飲み物に手を伸ばし、ごくごくと大口で飲み干した。お菓子で、どうにかこの衝動を押し殺そうとする。


 ああ……無防備にあんな顔を見せられたら、もっと力を与えたくなってしまうじゃないか。心臓だけじゃない、その細い手足に特製の筋肉を仕込んで、脆い骨を抜き替えて、薬液で神経を改造して、さらにいくつか臓器を追加してやったら──


 気がつけば何口もお菓子を口に運んでいて、ようやく沸き立っていた思考が落ち着いてきた。


 だめだ、だめ。今は観察に徹する時期だ。まだ、その時じゃない。一度にあれこれ改造しすぎれば、せっかく見つけたこの宝物を壊してしまうかもしれない。


 下腹が熱くなる。その衝動を誤魔化すため、アルミ缶をぐしゃ、ぐしゃ、ぐしゃ、と潰した。手のひらで転がるころには、小さな球になっている。


「よいしょ」とひと声、ゴミ箱めがけて放ると、正確にシュートが決まった。


 画面の向こうのリオンも、どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ。


「さすが羽虫どもが目をつけるだけのことはある。寝顔まで可愛いじゃないか」


 またひとりごちて、僕は「パチン」と音を立てて、もう一袋のスナックを開けた。




 ◇


 ここ数日の観察で、リオンの生活リズムはだいたい把握できた。


 彼女の朝は早い。


 今日は休日のはずなのに、まだ薄明るい時間に少女はアラームを止め、すっと起き上がった。軽く身支度を済ませ、ジャージに着替え、髪を手際よくポニーテールにまとめて、誰もいない家を出る。


 早起きする理由は、朝のランニングのためだ。


「っ、は……っ、は……」


 規則的な呼吸。リズムの取れた足取り。無駄のないフォーム。速すぎず、遅すぎず。僕の目から見ても、これはもう、ずっと昔からの習慣なんだろうなって思う。


 リオンは住宅街の道を走る。


 ときおり、朝の運動に出てきた近所の住人とすれ違うたび、彼女は礼儀正しく会釈をする。そして、向こうも彼女のことを知っているらしく、にこやかに挨拶を返してくる。


 しばらく走ったあと、リオンは道端の自動販売機の前で立ち止まった。そして、水のペットボトルを一本購入し、そのまま喉に流し込むように一気に飲み干していく。数滴の水が唇から首筋へと伝い、汗と混じって朝の光にきらりと光った。


 軽く休憩を取ったあとは、リオンは家へと戻った。

 それからシャワーを浴び、朝食の準備を始めた。キッチンのラジオをつけて、流れる音声に耳を傾けながら手を動かす。


「ザザッ……学校周辺に怪人が出没。出動したのは、魔法省の若手エース──」

「本日の魔力汚染指数はミディアムレベル。怪人の出現確率は55%となっております。警報区域での長時間の滞在はお控えください」

「先日発生した怪人の変異事例について、魔法省はすでに対策チームを──」


 朝食を食べ終えると、リオンは外出用の服に着替える。


「いってきます」


 小さな声で、少女はそう言った。

 返事はない。ひとりには広すぎるその家の中で、それでも彼女はきちんと挨拶をしてから、音を立てないようにドアを閉めた。


「ん……?」


 僕は欠伸をひとつ噛み殺しながら、かすかな魔力の波動に気づく。同時に、部屋のあちこちに設置されたモニターの数値が急上昇を始める。


「よしっ!」


 怪人だ。


 眠気なんて、一瞬で吹き飛んだ。僕は思わず目を見開き、これからの展開に期待を高める。これだけの日数をかけたんだ、ようやく自分の労働の成果をじっくり確かめられるってわけだ。


 スマホ画面が赤く染まり、同時に警報音が鳴り響いた。ポップアップされた通知を見つめるリオンは、ほんの一瞬だけ戸惑ったようだった。けれど、すぐに首を振り、不安を振り払うように、覚悟が決まった表情へと切り替わる。


「変身!」


 純白の魔力が少女を包み込む。数秒も経たないうちに、『如月リオン』の姿は銀白の戦闘装束に身を包んだ魔法少女──『シルバーリリー』へと変わっていた。


 大きく跳び上がったシルバーリリーは、宙を舞う。

 すると、空中にいくつもの花を模した魔法陣が展開される。

 少女はその魔法陣をブーツで踏みしめながら、光の粒を撒き散らしつつ、前方へと駆け抜けていった。

 

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