第20話 本番の舞台と止まった時間
~ 舞台の光は子どもを照らすだけじゃない。止まった時、どう立て直すか――それを伝えるのも教師の役目だ ~
本番の朝。体育館の鍵を開けると、昨日までの埃っぽい匂いに、少しだけワックスの甘い匂いが混じっていた。舞台の袖に電源ランプが点り、音響机のモニターが青白く目を覚ます。僕は上着を椅子に掛け、袖のカーテンを開け閉めして滑車の重さを確かめた。
「おはようございます」
一番にやってきたのは音響班の二人だった。眠そうな目をこすりながらも、手はてきぱき動く。
「予備マイク、昨日の棚の上です。ケーブルは色で左右がわかるように、赤が上手、緑が下手」
「はい!」
彩花もやってきて、インカムのテストを始める。小谷は客席の最後列に座り、音の返りをチェックして親指を立てた。
八時四十。進行の二人が袖に顔を出す。水野はいつも通り元気で、大翔は胸ポケットを右手でそっと押さえた。コーピングカードが、そこにある。
「声、合わせてみようか」
僕は舞台のへりに立ち、反響の具合を見ながら合図を出した。水野が「おはようございます」と言い、大翔が続ける。体育館に淡い返しが生まれ、二人の声がほんの少し重なる。十分だ。
開場。保護者の列が体育館に流れ込む。後方には学校のカメラも三脚に載った。参観で決めた“授業中撮影禁止・最後に記念撮影タイム”のルールを今日も踏襲し、開演前アナウンスで念押しをする。僕は客席の動きを確認してから袖に戻った。
「はじめのことば、四年二組」
放送の合図で、二人が舞台へ歩き出す。舞台の床、白いライン、客席の黒い海。水野が一歩前に出て、口を開く。
「ぼくたちの町へ、ようこそ!」
客席の空気がほどけ、拍手が広がる。大翔が続く。
「これから、未来の学校を紹介します!」
声は昨日より一段張れていた。袖の彩花が、そっと息を吐いてうなずく。
前半は予定通り進んだ。映像は正しく切り替わり、ダンスの靴音は揃って、ナレーションの間合いもいい。大道具班がパネルの脚を押さえ、背景布の折り目をさっと直す。裏方の小さな動きに、舞台が支えられていくのがわかる。
そして、最後の進行。水野と大翔が中央に立ち、アンカーの言葉に入ろうとしたその時、ハウリングが耳を刺した。キィィィン――瞬間、体育館の空気が縮む。次の瞬間、マイクの音が落ちた。
音響卓の二人が同時に僕を見た。僕は胸の前で両腕を交差させ、すぐに丸をつくる。昨日の合図――“声で続ける”。
水野がほんのわずかに目線を寄越し、大翔を見た。二人の肩が、同じタイミングで一回上下する。
「それでは、みなさん!」
水野が素の声で言った。体育館は広い。けれど、届く。
「未来の学校へ――ようこそ!」
大翔が一拍遅れて重ねた。袖にいた僕の背中を、風が通り抜ける。
客席の最前列で、岡崎の母親が両手を胸の前で握りしめ、微笑むのが見えた。拍手が自然に起きる。
彩花が予備マイクを持って走る。僕は客席側の縁から舞台に一歩入り、転換の拍に合わせて水野へ手渡した。水野は受け取りながら、まるで最初からそうする予定だったかのように言葉を継ぐ。
「ここからは、みんなといっしょに作ります!」
大翔が横で深呼吸を二回。僕だけが気づく小さな合図。それから、最後の台詞を言い切った。
終演の合図。客席の灯りが少し上がり、拍手が渦になる。子どもたちが手を振り、幕が引かれ、裏方の子どもたちが互いの手をぱん、と合わせる。音響卓では二人が顔を見合わせ、ほっと笑った。
「おつかれ!」
袖で待っていた僕の前に、進行の二人が戻ってくる。水野の顔は汗で光り、大翔の目は少し潤んでいた。
「止まっても……続けられた」
「続けたのは君たちだ」
僕は二人の肩に手を置く。大翔は胸ポケットをそっと叩いた。
「これ、見た」
コーピングカード。角が汗で少ししなっている。
「最初の一文、合図、深呼吸」
「うん。できた」
小さなガッツポーズが、袖の暗い空間で灯りになる。
保護者の退場を見送り、体育館の椅子が片付けられていく。廊下に出たところで、水野の父親が頭を下げた。参観で録画を止めた、あの父親だ。
「先生、今日のは……胸にきました。うちのが“相棒を守る”って、言ってて」
「こちらこそ。二人とも、舞台の真ん中でちゃんと相棒でした」
父親は照れたように笑い、掌を一度だけ打って去っていった。
職員室に戻ると、彩花が椅子の背にもたれて長く息を吐いた。
「いやー……止まるとこまで含めて完璧でしたね」
「完璧、ですか?」
「止まった時に何をするか、まで練習してある舞台は強いんです。今日のは“強い”ほうでした」
小谷がコーヒーを片手に近づいてくる。
「子どもは大人が思うより、合図を覚える。あとは、合図を出せる誰かがそばにいればいい。今日はお前が出した」
「音響もよく戻しましたね」
僕が言うと、音響の子が照れて首を振った。
「たまたま、差し替えが刺さって」
「“たまたま”を起こせるように準備してたから、刺さったんだよ」
彩花が笑う。笑い声に、張り詰めていた昼の糸が少しずつ緩んでいく。
夕方の昇降口。大翔の母親が待っていた。
「先生、ありがとうございました」
「大翔くん、すごかったです」
「本番前、手が冷たくて……でも“止まってもいい”って言ってました。カード、毎晩見てました」
僕は首を横に振る。
「カードは入口です。入口から足を出したのは、彼です」
母親の目が潤む。
「帰ったら、今日の拍手の音、話します」
僕はうなずいた。拍手の音は、言葉よりも長く残る。
夜。アパートでノートを開く。今日の出来事を淡々と項目にしていく。
・トラブルは消せない。だが、戻る道は作れる。
・“止まる”を禁止にしない。“自分で止まる”を教える。
・合図は、怖さを越えるための橋。
広告時代、僕は“想定外を想定内にする”資料を作っていた。今は、教室でそれをしている。違うのは、数字ではなく子どもの呼吸を相手にしていること。資料の矢印より、子どもの一歩の方が、ずっと重い。
メッセージが届く。彩花だ。
「来年度のICTルール、学年で案をまとめることになりました。佐久間先生、叩き台お願いします」
“ルール”。参観のときに翻訳した言葉たちが、頭の中で並び始める。禁止ではなく、守りたいものの宣言としてのルール。撮影、端末、記録、公開。今日の拍手の音といっしょに、言葉が芽を出す。
窓の外、駅へ向かう電車の音が細く伸びていく。僕はノートを閉じ、胸ポケットに自分の分の小さなカードを差し込んだ。
1 最初の一文
2 合図
3 深呼吸
4 次の一文
5 誰かの挑戦を応援
大人にも、合図はいる。止まっても、また進むために。
学期末、佐久間に任されることになったのは「来年度のICTルールづくり」。子どもたちの挑戦を支える“約束”を形にできるのか――次の試練が始まる。
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